1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

ベンチャー女性経営者「川端康成の小説はコスパが悪い」と語る…コスパ・タイパを優先する”ファスト動画世代“に危惧されるむなしく貧相な人生

集英社オンライン / 2023年7月6日 8時1分

近年、ChatGPTをはじめとするAIの進化がすさまじいが、自分の仕事がなくなるのではで怯える人もいるのではないだろうか。AIに“使われる”のではなく、AIを“使う”ために必要なものは何かを『仕事がなくなる!』(幻冬社新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。

#2

映画を早送りして観る若い世代

先頃、ファスト映画をユーチューブにアップロードしたことで、その投稿者が大手映画会社から訴えられ、5億円の損害賠償を命じる判決が下されました。ファスト映画とは、映画の映像を無断で使用し、字幕やナレーションをつけて10分程度にまとめてストーリーを明かす違法動画のことです。

最近、ネットで配信される映画を早送りして観る若い世代が増えているようですが、ファスト映画は映画を早送りして鑑賞するより、さらに効率よく映画作品の内容を知ることができるということで、かなり多くの視聴者が観たとのことです。



しかし、早送りの鑑賞にしろ、ファスト映画にしろ、そういう映画との接し方は、鑑賞とは言えません。

2時間程度の尺を持つ映画であれば、その時間をかけることではじめて成り立つストーリーの流れやリズム、テンポがあるわけです。早送りの鑑賞もファスト映画も、そうしたものをまったく無視した行いです。

たとえば、会話と会話の間や何気ない風景描写にだって重要なメッセージが込められているかもしれないのに、そんなものは一切おかまいなしです。

そんなふうにして映画に接しても、心に響くものはないでしょうし、受け手に発信されるメッセージやテーマを深く考えることもないでしょう。


映画作品はただの情報の塊なのだろうか

こんな視聴の仕方をする大きな理由は、言うまでもなく時間の節約です。それによって浮いた時間を有効活用できる、最近流行りの言葉で言えばタイパ(=タイムパフォーマンスの略。かける時間に対する満足度)がいいわけです。

もう一つは作品について、さまざまな情報を持っておくことが円滑なコミュニケーションにつながると信じているので、鑑賞ではなく情報収集でいいという感覚が強いのだと思います。

たとえば仲間内で、ある映画作品の話題が出たとき、その作品のことを知らなければコミュニケーションの輪から外れてしまいます。それを避けるため、話題の作品の大まかなところを押さえておこうとするのです。

結局、早送りの鑑賞もファスト映画も、映画作品をただの情報の塊としてしかとらえていないのです。


「川端康成の小説はコスパが悪い」と語る女性経営者

以前、あるベンチャー企業の若手女性経営者が、テレビの情報番組で「川端康成の小説はコスパ(コストパフォーマンス)が悪い。ゆえに小説そのものもコスパがよくないと思う」と発言したという話を知人から聞いたことがあります。

その女性経営者はそれまで小説というものをほとんど読んでこなかったため、小説がどういうものかを一度試したかったそうです。

ノーベル文学賞を受賞した日本を代表する小説家の作品が、コスパが悪いの一言で、いとも簡単に切り捨てられてしまうとは、泉下の川端も、さぞかし驚いていることでしょう。

ここでいう「コスパ」とは、小説を読むための時間や労力という「コスト」に対する効果のことです。

もちろん川端作品自体に対する個人の好みというものもあるでしょうが、コスパ発言は、それ以前の問題です。コスパという尺度を持ち出して、文学や絵画、音楽といった芸術を語ることの滑稽さに、この女性は気づいていないからです。

感性の入る余地もない効率至上主義の価値観は、ここまでくると、驚きを通り越して笑ってしまいます。

情報は有機的につながってはじめて知識になる

人生においてコスパやタイパばかりを気にするようになると、その尺度にそぐわない映画や小説は、持っている本来の意義が失われてしまうのでしょう。

情報は有機的につながってはじめて知識になり、知識は他の経験と組み合わさっていくことで、新たな発想が生まれます。情報の断片を知っているだけでは、何の役にも立たないのです。

仕事を効率的に進める上ではコスパを考えるのはもちろん大事ですが、それを重視しすぎると、さまざまな弊害が出てくると思います。仕事における人間関係も味気ないものになるでしょうし、仕事そのものからも人間味のある豊かな感性が失われ、AIに取って代わられる日もそう遠くはないことでしょう。

環境の変化が早く、競争社会が熾烈さを増すなか、コスパ意識はますます強くなっていくに違いありません。

コスパ意識で仕事の質が落ちる

しかし、コスパ意識に支配されて仕事をしていると、内容よりもスピードを重視しますから、仕事の質が落ちることは避けられません。そんな仕事は当然のことながら、AIに取って代わられるでしょう。

私はこれまで、コスパやタイパを考えて仕事をしたことはありません。ただありがたいことに84歳の今も仕事の依頼が次々と舞い込み、待ってもらっている状態です。

私の場合、仕事において効率を優先することはありませんが、目の前の仕事に1ミリも手を抜かないということは死守してきました。働いている姿を相手に見せることはなくとも、そのことは仕事を通して、しっかり相手に伝わるようです。

AIには感情がないため、面白いと思ったり感動したりすることがありません。だから人間がAIに勝つためには、自分のすべての感情を投入し、自分が生み出すサービスを使った人が面白いと思ったり感動したりするものをつくらなくてはならないのです。

これからの仕事において一番大事なのはこういうことではないかと、最近とみに感じるのです。

コスパが悪いからこそ、やる価値がある

コスパ・タイパといった言葉を日常的に使う人が増えているのは、現代社会が効率や合理性に大きな価値を置いているからに他なりません。

コスパ主義・タイパ主義が強くなれば、仕事においても、効率のよいものや、短い時間で結果が出るものばかりを選ぶようになるでしょう。この仕事は努力の割にはコストや時間がかかるからやめようとか、こちらの仕事は少しの努力ですぐに結果が出そうだからがんばろう、というふうに。

もちろん効率を考え、工夫することは大事です。しかし、すべてにおいてコスパやタイパを重視する考え方に、私は反対です。

その人にとってコスパやタイパはよくなくとも、達成感や満足度が高く、社会の役に立つことは、いくらでもあるからです。

実際、仕事や人生には実にさまざまな〝成し遂げるべきこと〞があります。やりたいから、好きだからという思いから、個々人が力を入れるべきことはたくさんあるでしょう。


コスパ・タイパを優先する人生を送れば、必ずどこかで虚しくなる

それなのに、常にコスパやタイパのものさしが前面に出てしまうと、純粋にやってみたいという思いまで萎みかねません。

コスパ・タイパの意識が強すぎると、それによって人生の夢や目標も、180度違ったものになってしまうこともあると思います。

たとえば司法試験は制度が変わる以前と比べればハードルは下がったものの、相変わらず難関です。子どもの頃から弁護士に憧れていた人は、勉強を始める時点でコスパ・タイパの観点から試験勉強をすることの是非を判断して、容易にあきらめてしまうかもしれません。

染物に興味があって染物の職人になる夢を持っていた人は、一人前になるまでのコスパやタイパを計算して、その夢を断念するかもしれません。

しかし、自分の純粋な気持ちや願望を捨て、コスパ・タイパを優先する人生を送れば、必ずどこかで虚しく感じるはずです。

一度きりしかない人生を平板なコスパ・タイパの計算内に収めてしまうのは、実にもったいないことです。人生や仕事は本来、そんなもので収まってしまうような矮小なものではありません。

そして、人間がどんなにがんばったところで、AIに対し、コスパやタイパにおいて人間に勝ち目はないということを肝に銘じてほしいと思います。

損得勘定で仕事を選ぶと、人生が貧相になる

コスパ・タイパ主義的な考えが強くなれば、ものごとを損か得かという尺度で判断し、行動を選択するようになります。

しかし、人生というのは、単純な損得勘定では計れないもので成り立っています。

得だと思ったほうを選んだのに、かえって損をしたり、反対に損してもいいやと思って選んだら、結果的に得をしたりする。人生も仕事も、計算通りにはいかないものです。

運というものは、小手先の計算に囚われることなく、精一杯の努力をしている人にやってくるものです。

理論上、損得勘定に長けている人が、目の前の選択肢において得だと思うほうばかりを選び続ければ、いいことだらけの人生になるはずです。

しかし現実は、まずそんなことにはならない。一時的に大金が舞い込んでも、途中で仕事に失敗し、大借金を背負うかもしれませんし、順風満帆な人生を歩んでいても、突然重い病気にかかって仕事ができなくなってしまうかもしれません。仮に仕事で大成功しても、人間関係のトラブルをたくさん抱えるかもしれません。

得だと思う選択をし続けても、けっして思い通りにいかないどころか、気がついたら、信頼できる人間関係を失い、さらにお金もすっからかんになっていた、なんてことになりかねません。


なぜ人生や仕事は、計算通りにいかないのか

なぜ人生や仕事は、計算通りにいかないのか。それは名人の将棋とは違い、何手も先のことは読めないからです。プロの棋士は何十手も先を読むといいますが、普通の人間は、一手先すら正しく読めないのです。

とくに気をつけなくてはならないのは、目先の得に囚われたり、自分の損を回避することばかりに気をとられることです。

たとえば、部下と飲みに行ったときに、一切おごらなかったり、何か問題が起こったときは、いつも部下に責任をかぶせたりする人もいます。

人にはお金を一切出さない吝嗇ぶりも、常習的な責任回避の行為も、自分が損することを避けるため行うことです。

自分にとって必要かどうか、社会にとって有益か否か

しかし、自分が得だと思って選んだ行為が、次にどのような影響を及ぼすかについては、気がまわらないのです。

得したいという欲が強すぎると、まさに「欲に目が眩む」で、視野は狭くなり続け、自分の周りから人が離れていくでしょう。

もちろん、得するほうを選びたいという気持ちは誰もが持っているはずですが、それが強すぎると、大事なことがすっぽり抜け落ちてしまうものです。

日々こなす仕事は、小さな選択の連続です。そのとき、こちらを選ぶと得だとか、あちらへ進むと損するからやめようといったことをいちいち細かく考えることは、私は一切しません。

損か得かというレベルでとらえるのではなく、自分にとって必要かどうか、社会にとって有益か否か、面白いかつまらないかが「選択の軸」です。

損か得かの計算ばかりしている人は、最終的には損をする

それこそ社長時代には、大きな選択を目の前にすると、どちらを選ぶかで会社全体に与える影響がまるっきり違ってきますから、利益の計算や判断の軸は明確に持っていなくてはなりませんでした。

そして、それが短期的な損得ではなく、長い目で見て会社にとって必要かどうかということを、いつも一番に考えていたものです。

目先の利益は上がるかもしれないけれど、長期的スパンで見て会社には不要なものであれば選ばないのが普通ですし、反対に一見損な投資のようでも、10年、20年先の会社の将来を考え、不可欠と思えば、それを選択するのは当然です。

損か得かの計算ばかりしている人は、最終的には損をすることのほうが多い人生になるかもしれません。

最終的には、自分がやりたいかどうか、その〝ものさし〞をもっと積極的に使うべきでしょう。そうでなければ、満足のいく人生にはならないでしょうし、納得のいく仕事もできないものです。

『仕事がなくなる!』 (幻冬舎新書)

丹羽 宇一郎

2023/5/31

990円

192ページ

ISBN:

978-4344986947

昨今のAIの進化は凄まじく、多くの中高年が「自分の仕事の賞味期限はいつまでか」と戦々恐々としているだろう。世間では「リスキリング」がもてはやされているが、簡単に身につくスキルを学んだところで、一瞬でAIに追い抜かれてしまう。人生100年時代といわれる昨今、AIを超える働き方をするにはどうすればいいのか。著者は「AIが持ち得ない、人間独自のもの」に注力すればいいのだと力説する。現状維持の働き方を続ける人は、仕事どころか、居場所もなくなる!

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください