“言葉のキャッチボールさえも…” 認知症と診断された80代の無期懲役囚が刑務所で見せた驚きの行動とは?《日本一長く服役した男》
集英社オンライン / 2023年7月10日 19時1分
無期懲役囚の中には、80歳を超える高齢者も存在する。高齢により認知能力が衰えた受刑者は、自分の罪を認識できているのか。『日本一長く服役した男』(イースト・プレス)から一部抜粋・再構成してお届けする。
壁の向こう側へ
2018(平成30)年11月、私は受刑者の取材を始めた。きっかけは熊本刑務所を見学したことだった。
これより約1年半前、初任地であるNHK熊本放送局に配属された私が最初に担当する
ことになったのは、他の新人記者に違わず、主に事件や事故、それに裁判などを取材する、いわゆる「サツ担」だった。
今でこそ、新人記者が県庁や市役所など行政の取材を担当したり、経済や災害などの多岐にわたる分野で機動的に取材ができる「遊軍」を担当したりすることもあると聞く。ただ、当時の熊本で私の周囲にいた新人記者は、地元の新聞社をはじめ、テレビ局も全国紙も、みなほぼ例外なくサツ担だった。
新人記者がサツ担になるのは、警察など当局を中心に取材し、同業他社よりも早く情報をつかんだり、記事を書くのに必要な5W1Hの要素を確かめたりすることで、記者としての基本的なスキルを身につけさせることが狙いにあるとよく言われている。
残念ながら、私は特ダネを“すっぱ抜ける”ような優秀なサツ担ではなかったが、日々様々な現場を飛び回ることにはやりがいを感じていた。
ただ、私はたびたび日頃の取材の仕方に、疑問を感じることがあった。
通常、事件の容疑者が逮捕されたり、交通事故が起きたりすると、警察から各報道機関に対して「広報文」というメディア向けの〝お知らせの紙〟が投げ込まれる。すると、各報道機関のサツ担は、一斉に事案を管轄する警察署などへ取材を始めることになる。そこで聞いた話は「警察によりますと……」という形で記事化されていく。
もちろん、事件や事故の現場などで、目撃者や知人を探して証言を集める「地取り取材」を行うこともある。しかし、事件記事の本筋はあくまで警察の発表を軸に展開されることが多い。裁判が開始されるまでの間で、最も情報が動くのは警察の捜査であり、多くのメディアはそれを重要なニュースの情報源としているからだ。一歩引いてみるならば、当局の発表にニュースが依存しやすい構図になるとも言える。
そういった中で、私はどこか「加害者」と呼ばれる人々との距離の遠さを感じ、取材の手触りがないと思うことがあった。
容疑者が被告人として公の場に現れるのが裁判だ。法廷で次第に明らかにされていく犯行の動機、そして被害者の話を聞いていると「なんてひどい事件だ」「許せない」と自然と怒りがこみ上げてくることがある。
一方で、老老介護に疲れ、配偶者を楽にしてやりたいと思い殺めてしまった事件や、グループ内でいじめられた結果、カッとなって相手を傷つけてしまった事件など、被害者の生い立ちや境遇、犯行の動機や背景などを知ると、どこか気の毒に思えてしまうこともあった。
「誰かが助け船を出していたならば犯罪は起こらなかったのではないか」「支援がない社会
構造にも加害者を生み出す要因があったのではないか」。そんな不条理も感じていた。
とはいえ、法廷で事件を起こした本人に直接話を聞けるわけではない。法廷では、被告人と傍聴席との間には腰の高さほどの柵があるだけ。だが、そこには目に見えない大きな隔たりがあった。
なぜ事件を起こさねばならなかったのか。判決確定後に、加害者は刑務所の中でどのように過ごし、更生していくのか。
こうした素朴な疑問から、私は熊本刑務所の門をくぐることにしたのだった。
![](https://assets.shueisha.online/image/-/2023/07/05021206684401/800/26098955_m.jpg)
衝撃の朝
「番号!!」
刑務官の太い声が廊下に響いた。時刻は朝7時前、受刑者への点呼が始まったのだ。刑務所の朝は早い。
まず訪れたのは、主に高齢受刑者が収容されている建物。並んでいるのは、受刑者の生活空間となる部屋だ。4人が一緒に生活している共同室。それに1人用の単独室。
見たところどの部屋にも、一様に上下緑色の服を着た、70代から80代ぐらいの年老いた受刑者が正座をしている。刑務官はそれぞれの部屋の前で立ち止まり、受刑者の番号と人数をテンポよく確認していった。
そのなかで私は、気になる光景を目の当たりにした。
80歳ぐらいだろうか。単独室に収容されていたその高齢受刑者は、川口(仮名)と呼ばれていた。川口は、点呼の際に正座をすることなく、部屋の中に設置されたトイレの前に立ち、排泄していた。そのままの姿勢で自分の番号を答えた。刑務官は特段とがめる様子もなく、他の受刑者と同様、流れるように番号と名前を確認していった。私は川口のことが気になり、しばらく見ていたが、明らかに不自然な様子だった。
点呼が終わると、配食係の受刑者によって、それぞれの部屋に人数分の朝食が配膳されていった。麦飯が入っている弁当容器の蓋には、「かゆ」と書かれたシールが貼られているのが目に入る。咀嚼する力が衰えた、受刑者向けの食事だ。
川口にも、朝食が配膳されてきた。だが、当の本人はまったく手をつける気配をみせない。しまいには、布団に潜り込み、そのまま眠ろうとしてしまった。その様子に気づいた刑務官が、すぐに部屋の前までやって来て、川口に声をかけた。
「起きなさい。起きなさい。朝だ」
「はい」
「はいじゃなくて、起きなさい」
「はい……」
とても会話が成立しているようには見えない。そこで別の刑務官が、我が子をさとすように優しく声をかけた。
「朝だよ。起きようか?」
「はい」
反射的に「はい」と返事はするものの、なかなか次の動作に移ることができない。しびれを切らしたのか、刑務官数人が部屋に入り込み、掛け布団を回収して廊下に出てきた。すると、その掛け布団が放つ異臭にあたりは包まれた。失禁だった。これには私も思わず息を止めた。
しかし再び部屋を見てみると、驚いたことに川口は、今度は分厚い敷き布団の下に潜り込んで眠りにつこうとしていた。
どうなっているのか……。
あまりの出来事に、呆気にとられてしまった。
「すみません、あの方ですが……。大丈夫ですか?」
私の呼びかけで、再び部屋の中をのぞき込んだ刑務官が不意にみせた、疲れ切った表情と、とっさについたため息は忘れられない。そこからは、やるせなさや困惑が入り交じった複雑な感情が読み取れた。
川口は80代後半で、無期懲役の刑で服役していたが、数年ほど前から認知症と診断されているという。
「受刑者は、罪と向き合うために刑務所にいる」
刑務所を訪れる前まで、私は素朴にそう考えていた。確かに罪に向き合えている受刑者がいる一方、そうでない受刑者もいるだろう。しかし、高齢化に伴い認知機能が衰えた受刑者は、日常生活はおろか、言葉のキャッチボールさえできていないのが現実のようだ。罪に向き合う以前に、自らの罪をきちんと認識できているのか怪しく思えてくる。
早朝から後頭部を殴られたような衝撃を受けた私は、自らの考えがあまりにも単純だったと思い知らされた。
日本一長く服役した男
NHK取材班 杉本宙矢・木村隆太
![](https://assets.shueisha.online/image/-/2023/07/05020628973184/400/cover.jpg)
2023年6月19日
1,990円(税込)
四六判/336ページ
978-4-7816-2216-3
男は何故、61年も服役しなければならなかったのか。
更生と刑罰をめぐる、密着ドキュメンタリー。
令和元年秋、1人の無期懲役囚が熊本刑務所から仮釈放された。
「日本最長」61年間の服役期間を経て出所したのは、80代のやせ細った男。
出所後も刑務所での振る舞いが体に染みつき、離れないでいた。
男はかつてどんな罪を犯し、その罪にどう向き合ってきたのか?
一地方放送局の記者2人とディレクター1人の取材班は、男に密着取材を行った。
更生の物語を期待し、取材を進めるものの、一向に態度が変わらない男。
それでも彼らは、この謎めいた男がなぜ服役し、どう罪と向き合ったのか
伝えることをあきらめなかった。
取材班が一丸となって、各々の巧みな取材手法を使い分け、番組制作を進めていった。
度々の全国放送が見送られつつも、
いよいよ放送前日となったある日、取材班に衝撃的な連絡が入った。
その時、彼らがとった行動とは――
「更生」とは。「贖罪」とは。そして「報道」とは。
3年にわたる取材の全記録。
外部リンク
- 被害者のことを「今さらそんなことを考えても仕方がない」と答える受刑者も。福祉施設化する刑務所と「更生」の意義
- なぜ61年間も服役しなければならなかったのか。「日本一長く服役した男」の生涯に見る「無期懲役」という刑罰の現実
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