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【今夜放送】『コクリコ坂から』は宮﨑駿が企画し、息子吾朗に託したジブリ作品「こういう時こそ神話を作らなきゃいけないんですよ」東日本大震災の真っ只中、その時スタジオジブリでは

集英社オンライン / 2023年7月14日 18時1分

今夜7月14日に「金曜ロードショー」(日本テレビ系)で放送される映画『コクリコ坂』は2011年の東日本大震災の最中に製作が行われていた。今だから明かすことができる、当時のジブリの状況と、宮崎吾朗の監督としての苦悩、そしてその時父・宮﨑駿は何を語ったかを、鈴木敏夫責任編集で振り返った最新著書『スタジオジブリ物語』より、一部抜粋して紹介する。

リンドグレーン作品に着手

宮崎吾朗監督は、2008年の秋以降、児童文学を読み込み映画化を検討するわけだが、しかし、なかなか「この作品を映画にしよう」というところにまで至らなかった。

もっとプロデューサーに近い場所にいた方がいいだろうということで、2008年12月には、鈴木の部屋の隣のプロデューサー室(通称「PD室」。第1スタジオ3階)に席を移動。年が明けてさらに企画検討は続く。この時期、吾朗は国内、海外を問わずいろいろな児童文学を検討した。イメージボードを描いたりもし、宮﨑駿とも話し合いをしている。



その合間には、気分転換も兼ねて、『読売新聞』のコマーシャルの絵コンテを描き、演出を担当した。完成は2009年7月で翌月から放映開始。この作品は宮﨑駿、鈴木の二人が大好きな杉浦茂のキャラクターを使った15秒のCMで、企画は宮﨑駿。いわば初の親子共演作で、短いながらとてもいい感じの作品に仕上がった。

さて、2009年5月、ようやく対象となる児童文学が固まる。『長くつ下のピッピ』などで有名なスウェーデンの作家リンドグレーンの『山賊のむすめローニャ』である。

吾朗はPD室の隣の準備室も使いつつ、この企画の準備を始めた。すると開始早々、たまたまそれを知った近藤勝也が「『ローニャ』だったらやってみたい」と自ら志願。近藤は『魔女の宅急便』『崖の上のポニョ』などで作画監督を務めた腕ききのアニメーターであり、ではやってもらおう、ということで作画監督が決まった。

アストリッド リンドグレーン著『山賊のむすめローニャ』(岩波少年文庫)

『アリエッティ』の担当カットを終えた近藤は6月からこの企画に参加。この後、吾朗・近藤の二人によってイメージボード、キャラクタースケッチなどが描かれてゆき、吾朗はシノプシスをまとめた上でシナリオ作りへと進む。

吾朗は9月には完全に席を準備室に移して、近藤とともに『ローニャ』の企画準備に専念。しかし、開始から数カ月経過するうちに、段々とこの企画の厳しさが感じられ始めた。12月に入り、再び気分転換の意図も込めて、鈴木は吾朗・近藤の二人にCMの制作を依頼。今度は日清製粉の110周年記念のコマーシャルだった。

鈴木が以前描いた猫のキャラクターを使い、吾朗が絵コンテを描き演出し、近藤が作画したが、筆ペンの柔らかいタッチで描かれた猫(後に「コニャラ」と名付けられた)がとても可愛らしく、2010年3月から放映されると大変好評で、後に続編が3本作られた。

しかし、『ローニャ』の準備作業はますます重苦しいものになってきていた。

二十数年前の企画が急浮上

暮れも押し迫った2009年12月27日、宮﨑駿は鈴木に重大な提案をする。『ローニャ』の準備は中断する。そして、マンガ『コクリコ坂から』を映画化する、と。『ローニャ』の企画にやはり行き詰まりを感じていた鈴木は、宮﨑から『コクリコ坂から』の名前を聞いて、一瞬のうちに二十数年前のことを思い出した。

マンガ『コクリコ坂から』は、『風の谷のナウシカ』公開後の夏に、映画化はどうだろうと議論したこともあった作品だったからだ。

鈴木は当時を次のように振り返っている。

遡ること二十年前。信州の山小屋で夏休みを過ごす際、宮さんは姪っ子が置いていった少女漫画雑誌を繰り返し読んでいました。その中で目にとまったのが『耳をすませば』と『コクリコ坂から』。遊びに来た押井守や庵野秀明らと、「どうやったら少女漫画を映画にできるか」を議論したりもしていました。

結果的に『耳をすませば』は一足先に映画化したものの、『コクリコ』のほうは時代に合わないという理由で企画を断念していたんです。ところが、今回は宮さんの中に明快な企画意図ができあがっていた。

――二十一世紀に入って以来、世の中はますますおかしくなってきている。なんでこんな社会になってしまったのか? 日本という国が狂い始めるきっかけは、高度経済成長と一九六四年の東京オリンピックにあったんじゃないか。物語の時代をそこに設定すれば、現代に問う意味が出てくる――

その考えを聞いて、僕も非常に納得するものがありました。高度成長の結果、暮らしは豊かになったけれど、その後、バブルが崩壊。〝失われた十年〟を経て、いっこうに未来は見えてこない。社会全体が閉塞感に覆われているのを感じていたからです。(『天才の思考』)

マンガ『コクリコ坂から』についてここで少し紹介すると、作者は高橋千鶴、原作者は佐山哲郎で、講談社の月刊誌『なかよし』に1980年に掲載された少女マンガだ。宮﨑の著書『出発点』に収録された文章に詳しく書かれているが(『脚本 コクリコ坂から』角川書店刊にも再録)、宮﨑はこのマンガを読んだ当時、人を恋する真情にあふれている、主人公たちが断固としていて軟弱でないのがいい、などの点が気に入ったとのことで、『ナウシカ』制作後の神経症的な疲労の回復にずいぶん役立ったそうだ。

『コクリコ坂から』の名前を久しぶりに聞いた鈴木は、即座にその映画化を決意。年が明けてすぐに、鈴木は吾朗にその旨を伝え、吾朗もその提案を受け入れた。こうして2010年1月、映画『コクリコ坂から』の企画が決定した。作画監督はそのまま近藤勝也が担当し、脚本は宮﨑駿が書くことになったが、鈴木の提案により、『アリエッティ』と同様に、丹羽圭子が脚本執筆に参加することになった。つまり『ゲド戦記』は宮崎吾朗・丹羽圭子の脚本だったが、『コクリコ坂から』は宮﨑駿・丹羽圭子の脚本となる。

宮﨑のこの映画化企画には、原作マンガに対する大きな変更点がある。原作は描かれた当時そのままの時代設定、つまり1980年頃の話だったが、前述の経緯もあって、宮﨑はこれを東京オリンピック前年の1963年に変更した。

今の日本の枠組みができたのはおそらくその頃であり、今、映画の時代をそこに設定することには意味がある、という考えからだった。1963年は高度経済成長と大量消費社会が本格化した頃であり、今の社会のあり方の直接的な始まりの時期にあたる一方、終戦後18年でまだ戦争の影響が残っていた時期でもある。

また、原作マンガは舞台を特に定めていなかったが、宮﨑は映画の舞台を横浜と特定して企画を立てた。これまでのジブリ作品は、時代、舞台、いずれも特定していないことが多かったので、『コクリコ坂から』はその点異色である。また、それとつながる話だが、ファンタジーの要素が一切ない点はジブリ作品では初めてのことだろう。

60年代の横浜街並みで自転車に乗る新聞部部長・俊と、後ろにまたがる主人公・海 © 2011 高橋千鶴・佐山哲郎・Studio Ghibli・NDHDMT

なお、『山賊のむすめローニャ』は後に吾朗の手で、NHKとドワンゴの共同製作で全26話のテレビシリーズ『山賊の娘ローニャ』として制作され、2014年から2015年にかけて放送された。

震災と原発事故

ジブリは1990年代中盤以降、ほぼ2年に1本のペースで作品を発表してきたが、『コクリコ坂から』と前作『借りぐらしのアリエッティ』は久々の2年連続での長編制作・公開だった。

そのためもあってスケジュールはタイトだったが、キャラクターデザインの近藤と作画監督5名の計6名、美術監督4名、色指定2名、動画検査と動画検査補が計4名と、メインスタッフにいつも以上のスタッフを配置するなどして、スタジオの力を結集して制作作業は進められた。

西ジブリを一年前倒しして撤収し、2010年8月に小金井のスタジオに合流した二十数名、同年4月に新人採用で入社した十数名の若いスタッフも力になった。

しかし、制作が追い込み中の2011年3月11日、東日本大震災が発生。原発事故も引き起こされた。スタジオに目立った被害はなかったが、当日、交通機関が止まり二十数名が帰宅できなくなったため、社内で炊き出しを行い社内保育園に宿泊した。

ちなみにジブリ美術館でも180人以上の来館者が帰れなくなり、その晩は館内で一泊してもらっている。スタジオでは、こういう時こそ仕事を続けるべきだ、我々にできることは映画を作ることだという宮﨑駿の意向により、あまり日をおかず作業を再開。

震災の年、2011年の7月に公開された『コクリコ坂』のポスター © 2011 高橋千鶴・佐山哲郎・Studio Ghibli・NDHDMT

しかし3月13日に計画停電実施が発表され、日中は停電になる可能性が出てきたため、コンピューターのサーバーをその間止めざるをえず、仕上げ・撮影のデジタルの部門は夜勤シフトを敷く変則的な対応をしばらく強いられた。結局停電はなかったが、震災と原発事故はただでさえ厳しいスケジュールをさらに圧迫した。

当時の状況を鈴木は次のように語っている。

原発事故の影響で計画停電も行われて、現場をどうするかが大問題になった。吾朗くんからは、「とりあえず三日間は休みにしましょう」という提案がありました。制作進行を考えると厳しい面がありますが、状況を考え、僕もやむなしと判断しました。

ところが、それを知った宮さんが怒ってしまった。

「生産現場は離れちゃだめだよ! 封切りは変えられないんだから、多少無理してでもやるべし。こういうときこそ神話を作んなきゃいけないんですよ」

宮さんの言うことも分かります。高畑、宮﨑の時代はそれでよかったのかもしれない。でも、いまの時代にそれをやろうとしたら、いろんな支障が起こる。とくに、昔と今では家族のありかた、子どもを育てる環境があまりにも違う。だから、僕は一定の休みは必要だと思ったんです。だから、出られる人は出る。出られない人は家のことをちゃんとやる。そういう曖昧な結論にしました。(『天才の思考』)

そんな状況下、阪神・淡路大震災の時と同様に、スタッフの中で活動可能な有志が被災地へボランティアに向かっており、『コクリコ坂から』完成後の7月には40名以上のスタッフが現地入りをし、会社もそれを支援した。

責任編集/鈴木敏夫

スタジオジブリ物語

鈴木敏夫

2023年6月16日発売

1,760円(税込)

新書判/544ページ

ISBN:

978-4-08-721268-6

「宮さんに『大事なことは、鈴木さんが覚えておいて!』と言われた記憶をたどるとしたら、今しかない!」

【おもな内容】
『風の谷のナウシカ』がきっかけで誕生したスタジオジブリ。
長編アニメーション作品を作り続けてきたその軌跡は、波瀾万丈の連続だった——。
試行錯誤の上に生まれる企画から、スケジュールと闘う制作現場、時代を捉えた宣伝戦略、独自の経営法まで、その過程のすべてを、最新作までの27作品ごとに余すことなく網羅した。

鈴木敏夫責任編集で、今明かされる40年の物語。

【目次】
第1章 マンガ連載から映画へ。『風の谷のナウシカ』
第2章 スタジオ設立と『天空の城ラピュタ』
第3章 前代未聞の2本立て。『となりのトトロ』と『火垂るの墓』
第4章 『魔女の宅急便』のヒットと社員化
第5章 新生ジブリと『おもひでぽろぽろ』
第6章 『紅の豚』『海がきこえる』と新スタジオ建設
第7章 『平成狸合戦ぽんぽこ』と撮影部の発足
第8章 近藤喜文初監督作品『耳をすませば』とジブリ実験劇場『On Your Mark』
第9章 未曽有の大作『もののけ姫』
第10章 実験作『ホーホケキョ となりの山田くん』への挑戦
第11章 空前のヒット作『千と千尋の神隠し』 など

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