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“古墳の大家”が語る、「邪馬台国」最新学説。「吉野ヶ里遺跡の石棺墓は卑弥呼のものではない」「漢委奴国王の金印は何十個もあったんじゃないか」

集英社オンライン / 2023年7月23日 13時1分

吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見で盛り上がりを見せる邪馬台国論争。“古墳の大家”として知られる国立歴史民俗博物館教授の松木武彦氏が、最新学説をもとに日本国の成り立ちや日本人のルーツを解き明かす。

埋葬されているのは“Bクラス”の人物!?

撮影/小峯隆生

――今年5月に吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町・神埼市)で出土した石棺墓ですが、邪馬台国時代と重なる弥生時代後期(2世紀後半~3世紀半ば)のものと見られ、内面は真っ赤に塗られて幅は細く、卑弥呼の墓ではないかという声もあがっています。

松木(以下、同)
卑弥呼ではないでしょうね。邪馬台国時代の高位の人物は普通、木の棺に葬られ、例外なく副葬品として数多くの銅鏡があり、赤色顔料は30キロほどになりますから。



石棺というと聞こえはいいですが、実際は底もなく、自然の石を組み合わせてつくるので、“Bクラス”の人物が葬られるものです。石棺を赤色顔料で赤く塗るのは、吉野ヶ里遺跡では珍しいですが、全国的にはごく普通に見られます。

ただ、この石蓋には、×印の刻み目がたくさん入っているんです……。これはもしかしたら特殊なキャラクターか、特殊な能力を持っていた人物かもしれません。

――悪魔を封じ込めたのじゃないですか?

本当にそういう悪魔なのかもしれません。ただ者ではない。×印というのは、「もう出てくるな」と甦りを恐れたということですからね……。相当にヤバい人物かもしれませんよ。

――すでに石蓋を開けてしまっていますけど……。ちなみに、現在の学説では、邪馬台国はどこにあるとされているのですか?

考古学者の間では、奈良県桜井市付近の纏向(まきむく)遺跡がいちばん有力とされています。

それから九州という説もあります。九州エリア最大の遺跡は博多湾沿岸にあるのですが、鉄器もたくさん出るし、経済的に非常に栄えていた場所。「魏志倭人伝」の記述だと、そこは、奴国に当たる。邪馬台国は奴国より南にあるとされているので、「邪馬台国=吉野ヶ里遺跡」と考える人がいたりするんです。

――奴国といえば漢委奴国王印、いわゆる金印ですよね。

とはいえ、あの金印は農民が開墾中にたまたま見つけて福岡藩に届け出たもの。そのような形で、中国の歴史書に書かれた金印が見つかるのはまさに天文学的な確率です。

金印の書体や材質を分析した結果、やはり古代の漢時代のものという結論が出されています。本物だと見れば、それを疑う余地はない。だけど、出土状況が限りなく怪しいため、今は評価がわかれています。私なんかは、あの金印は何十個もあったんじゃないかと思い始めています(笑)。まがい物であり、なおかつ本物であるみたいな。

日本国の始まりはヤマト時代

――自分は軍事関連の仕事をしていますが、その視点で見ると、日本史上初の大規模な戦争とされる倭国大乱を終結させて日本を統一した邪馬台国が、吉野ヶ里遺跡のある有明湾北岸に近い位置にあったとは考えにくいのです。そもそも、日本という国はどのように成り立っていったのでしょうか?

倭国大乱はまだ解明されていないので答えられることがあまりないのですが、日本の国の形、空間的なフォーメーションの変化には3段階あると私は考えています。

第1段階は、弥生時代に九州を統一していた倭国王の時代。これを私は「筑紫(つくし)時代」と呼んでいます。

第2段階が、古墳時代に大和が中心になり、その後は奈良や京都など細かい移動がちょこちょこありますが、見ようによっては幕末まで1000年以上続きました。これを私は広い意味で、カタカナで「ヤマト時代」と呼んでいます。

第3段階は、鎌倉幕府や江戸幕府など実質的に関東や江戸が中心になった時代。これを私は「東(あずま)時代」と呼んでいます。

――日本国の始まりは、第1段階の筑紫時代なのでしょうか?

僕のなかでは第2段階のヤマト時代が日本国の始まりだと思っています。筑紫時代はあくまでも局地政権。倭の王というけど、中国からもらった金印には「漢委奴国王」(漢の支配下である倭の奴の国王)と書いてあるわけです。

考古学的な情報を集めても、倭の王の覇権は九州以外に及んでいない。あくまでも九州の局地政権であり、さらに東のほうにバーバリアン(未開人)がわーっといる感じです。

古墳時代になると、前方後円墳が九州から東北まで広がり、初めて大和に中央政権ができました。律令国家になる奈良時代以前を、私の大学時代の師匠である都出比呂志先生は「初期国家」と呼び、「これがホンマの日本の出発点や」と言っていました。

前方後円墳はひとつのお墓の形であり、ひとつの宗教体系。それが、九州から東北まで広がった。日本人、当時は倭人ですけど、民族としてのアイデンティティが広い範囲で共有され、中央に集約された。やはり、第2段階のヤマト時代が最初の日本国と言えるのです。

大和政権が覇権を握ったのは、鉄の交易ルートをおさえたから!?

――日本人のルーツに関してもお聞きしたいです。もともと縄文人と渡来系弥生人が日本人の祖先とされてきましたよね。

そうですね。縄文時代からいた人たちは、その後も北海道や沖縄に残っていたとこれまで言われてきましたが、最近では、本州の海岸沿いにも残っていたんじゃないかという説があります。最近、古墳時代の海洋民がすごく注目されています。彼らは前方後円墳をつくらず、洞窟のなかに埋葬したりするんです。

つまり、いろんな遺伝的特性を持った人たちが多様に存在するのが日本なんです。海外の人類学者が「日本人はいろんな顔をしているな」とよく言います。

――古代の海辺は賑やかでありますね。日本海沿いには北に流れる安定した海流があり、北回り航路もあります。

弥生時代は日本海側が表でしたからね。ちなみに、倭国大乱が起きたとされる時代に、もっとも武装を固めていたのは北陸地方だったいうことが最近わかってきました。石川や新潟あたりですね。日本海交易ルートをめぐって、対立の目があったのかもしれません。彼らだけが山の上に砦をつくって、やたらと守りを固めていました。

当時の目玉は鉄なんです。日本列島で鉄は採れなかったので、朝鮮半島の百済や伽耶から取り寄せていました。とても貴重で、みんな喉から手が出るほど欲しかったんです。大和政権が覇権を握ったのは、鉄の交易ルートをおさえるのに成功したからじゃないか、という説もあるくらい。

――鉄の交易ルートを支配する利権争いから倭国大乱が発生した、という可能性もあるのでしょうか?

群雄割拠はあったと思います。ただ、最終決戦は避け、結局、卑弥呼を立てて妥協しました。

――中国史書には、鬼道を用いて卑弥呼が乱をおさめたとあります。実態は談合ですか?

そうかもしれませんね(笑)。


取材・文/小峯隆生

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