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〈『少女A』発売40周年〉「嫌だ!絶対に唄いたくない!」彼女は泣き叫んでその歌を拒んだ…中森明菜をトップアイドルに飛躍させた初のヒット曲誕生までの道のりと、彼女が「少女A」の中に見たものとは

集英社オンライン / 2023年7月28日 11時1分

中森明菜、初のヒット曲となった『少女A』。挑発的な歌い方と、睨みつけるようなレコードジャケットの明菜が印象的なこの曲の誕生秘話と唄うことを彼女が拒んだ訳とは? 人気歌番組「ザ・ベストテン」に出演し、一夜にしてトップアイドルの仲間入りを果たすまでを『中森明菜消えた歌姫』(文藝春秋)より、一部抜粋、再構成してお届けする。

「少女A」の作詞家・売野雅勇は駆け出しだった

「中森明菜という新人アイドルがデビューして、いまアルバム制作の準備中です。曲を集めていますから、書いてみたらどうですか?」

その頃、まだ駆け出しだった売野雅勇(うりのまさお)は、あるミュージシャンのマネージャーから、こんな仕事の依頼を貰った。コピーライターから作詞家に転じた売野が、チェッカーズの一連のヒット曲で一躍売れっ子の仲間入りを果たす“前夜”の話だ。



当時の彼は、まだアイドルに楽曲を提供したことがなく、どちらかと言えば大人がやる仕事ではないと軽蔑に近い感情を抱いていたという。

「そうは言っても書き方も分からないし、締め切りも迫ってくる。ストックと言えるものは、沢田研二に書いてボツになった1曲だけ。男性がプールサイドで10代の女の子を口説こうとしている設定の『ロリータ』という曲でした。僕はこの視点を逆にして、主人公を入れ替え、女性の目線にしたら書けるかもしれないと閃(ひらめ)いたのです」

1984年に歌番組『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京系)の収録でグアムを訪れた中森明菜。デビュー2年目の笑顔にはあどけなさも残る。 写真/亀井重郎 『週刊明星』昭和59年3月8日号より

売野の作詞スタイルの基本は、まずタイトルを決め、全体像を掴むことから始まる。今回は、アイドルが唄ってもカッコ悪くないもので、聴く者を驚かせ、反社会性があるようなもの……。

頭に浮かんだのは、未成年の犯罪者を表す「少女A」というタイトルだった。

「あとは詞の世界に見合った言葉をどう選んでいくか。歌本を見て研究しましたが、参考にはなりませんでした。ただ、唯一、阿木燿子さんが山口百恵に書いた詞は、骨格がしっかりしていて、言葉選びのセンスに凄く才能を感じました。自分の詞の世界を描くための、ひと揃えの言葉を、辞書として自分の中に持っている。そして、啖呵(たんか)を切るような捨て台詞が必ず1つは入り、それが歌謡曲としてのキャッチーなサビになっていました。僕はその方法論を参考に詞を書き上げました」

売野の詞には、優しい印象の曲がつけられ、「少女A」は一旦完成を見た。だが、ワーナー側は不採用とし、この曲が日の目を見ることはなかった。ところが1週間後、「曲は落ちましたが、詞は残っている」との連絡があり、再びプロジェクトが動き始めていく。

〈じれったい、じれったい〉
初のヒット曲「少女A」誕生

その後、売野と同じ事務所にいた3歳年上の作曲家、芹澤廣明のストック曲が候補としてリストアップされることになった。2人はのちにヒットを連発する名コンビとなるが、この時点では面識すらなかった。

「まず、ワーナーの担当ディレクターだった島田さんに私とマネージャーが呼び出されました。アーティストルームという豪華なステレオセットがある部屋で、候補となっている3曲を聴かされました。いずれもマイナーなエイトビートでしたが、そのなかで1つだけ歌詞がつけられている『シャガールの絵』という曲がいい、ということで意見が一致しました」


こちらも『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京系)での収録風景。隣にいる早見優と談笑している。 写真/亀井重郎 『週刊明星』昭和59年3月8日号より


売野は島田から、最初に書いた少女Aの詞を、この曲に移し替えるよう依頼された。本来なら困難を伴う作業だが、2つの詞は構造が似ており、奇跡的に上手く移行できたという。

「『シャガールの絵』は、作詞の専門家ではない漫画家が書いた詞で、曲の出だしのAメロが、普通は8小節のところ、32小節もあって長い訳です。それは私の『少女A』も同じで、要するに2つとも音楽をよく知らない人が書いた詞だったのです。逆にそのお陰で微調整だけでほとんどそのまま移し替えることができました。ただ、僕の中で最も引っ掛かっていたのがサビの部分です。当初は〈ねぇあなた、ねぇあなた〉と続きましたが、より強い〈じれったい、じれったい〉に変えたら見事にハマったのです」

新たな詞が完成すると、島田は「今度は芹澤さんも連れて来て下さい」と売野を呼んだ。

その日、芹澤はリーゼントに赤いアロハシャツ姿でワーナーに現れた。
「芹澤さん、唄って下さい」

島田はミュージシャンでもある芹澤に、ギターを渡した。芹澤が譜面を見ながらしばらく練習し、ワンコーラス唄うと、周囲の反応は上々だった。

初対面だった売野は、トイレで横に並んだ芹澤に「アルバムの一曲に決まって良かったですね」と話しかけた。芹澤は一拍置いて、「甘いよ。こういうのはレコーディングするまでは、いつ消えるか分からないんだよ」と諭した。

「嫌だ!絶対に唄いたくない」

明菜のデビューから少し時間が経過した5月半ば、当時研音で明菜のマネージャーを務めていた角津徳五郎(つのづとくごろう)は、いつもより早く目覚め、1時間ほど早く家を出た。明菜の次のシングルのこともあり、島田に会っておこうとワーナーに立ち寄ったのだ。島田はまだ出社しておらず、デスクの上には極太のマジックで「少女A」と書かれた紙が置いてあった。その下には特徴的な文字で歌詞が綴られ、「売野雅勇」と書かれていた。
「明菜の曲だとピンッと来ました。島田の出社を待って尋ねると、作曲家の芹澤さんが歌入れをしたデモテープがあるという。聴かせて貰うと、これが凄く良かった。それで、『イケるよ、これ。すぐにレコーディングしよう』と提案したのです」

島田にとっても「少女A」はヒットを確信する自信作だった。そして「少女A」はセカンドシングルに採用されることが決まる。だが、レコーディングの矢先、“事件”が起こった。
「嫌だ!絶対に唄いたくない!」

明菜本人が、激しく泣き叫んでこの歌を拒んだのだ。

その叫び声は、彼女が表現者として生まれ変わる産声のようでもあった。

グアムでおこなわれたという『少女A』のジャケット撮影では不貞腐れた表情をしたという中森明菜だったが、同じグアムで撮影されたこちらではなんとも機嫌がよさそう。健康的な魅力に溢れた1枚。 写真/亀井重郎 『週刊明星』昭和59年3月8日発行号より

「少女A」は私!

中森明菜のセカンドシングル「少女A」は、1982年7月に発売されると評判を呼び、彼女にとって初めてのヒット曲となった。

しかし、担当ディレクターだったワーナーの島田雄三は、発売から1カ月近く、明菜とはまともに口をきいていなかった。彼女が不満を募らせていたことは明らかだった。

島田にとっては薄氷を踏むような思いで過ごした日々だった。
「明菜に初めて『少女A』のデモテープを聴かせたら、みるみる彼女の表情が曇り、『嫌だ! 絶対に唄いたくない!』と泣きじゃくりました。『少女A』の主人公である不良少女は、自分のことを調べ上げて歌にしたものと思い込んでしまったんです。

のちに、中学時代の彼女が、仲間と一緒に暴走族の日の丸の旗を持っている写真が雑誌に持ち込まれたと聞きましたが、当時の私がそんな話を知るはずもない。『少女Aは明菜じゃない』と必死に説得を試みましたが、明菜は頑として譲らなかった」

痺れを切らせた島田が「バカ野郎、やるって言ったらやるんだよ」と怒鳴ると、彼女は「嫌だ」と喚(わめ)き散らした。最後は島田の、「もし、これを出して売れないっていうなら、俺が責任取る」との懸命の訴えで、何とか、翌週のレコーディングの約束だけは取り付けたが、成功するか否かは、一か八かの賭けだった。

人気音楽番組に出演、
一夜にしてトップアイドルへ

レコーディング当日、島田はスタッフに「テストからテープを回してくれ」と指示を出した。
「本来なら、20回、30回は唄うのですが、今回は3回が限度だろうと踏んでいました。それを上手く編集するしかない。当日、私は強気の姿勢を崩さず、明菜にも『やる気ないんだったら帰るか』という話までしました。テストで唄わせた後、『ちっとも伝わってこないんだよな』と挑発すると、彼女は怒り心頭の様子で、それが逆に歌の迫力に繋がった。そこから少し粘って3テイクほどで『はい、終わり。ご苦労さん』とレコーディングを切り上げました」

明菜は不服そうな顔でスタジオを後にした。完成したレコードには、撮影でグアムに行った際、プールサイドで疲れ果て、不貞腐(ふてくさ)れている明菜の写真が採用された。
もちろん本人が望んだ写真ではなかった。

本人が望んだ写真ではなかったという、中森明菜の2枚目のシングル『少女A』のジャケット。挑むような表情が鮮烈だ。1982年7月28日にワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)よりリリースされた

「少女A」は、“難産”の末に世に送り出されたが、挑発的な唄い方も、睨みつけるようなレコードジャケットも、結果的に明菜は、大人たちの狙い通りに、“掌の上で踊らされた”に過ぎなかった。

しかし、この曲がチャートを駆け上がっていくと、明菜は、その掌から軽々と飛び出した。発売から約2カ月が過ぎた9月16日、当時絶大な人気を誇っていたTBSの「ザ・ベストテン」で9位にランクインを果たした。明菜が初出演すると、一夜にして彼女はトップアイドルの仲間入りを果たしていく。

4日後、今度はフジテレビの看板番組「夜のヒットスタジオ」の生放送にも初出演する。
この2つの音楽番組が、明菜をアイドルの域を超えた歌い手に飛躍させていくことになる。


文/西﨑伸彦
写真/亀井重郎 『週刊明星』昭和59年3月8日発行号より

『中森明菜 消えた歌姫』

西﨑 伸彦

2023年4月11日発売

1,760円(税込)

224ページ

ISBN:

978-4163916842

「何がみんなにとっての正義なんだろう?」
2022年12月、中森明菜は公式HPでファンに問いかけた。

そして、こう続けた。

「自分で答えを出すことに覚悟が必要でしたが、私はこの道を選びました」

表舞台から姿を消して5年あまり。彼女の歌手人生は、デビューした1980年代を第1幕とすれば、混迷の第2幕を経て、これから第3幕を迎えようとしている。

「お金をね、持っていかれるのはいいんです。でも一緒に心を持っていかれるのが耐えられないの」
1990年代に入り新事務所を立ち上げてレーベルも移籍した頃、雑誌のインタビューで打ち明けていた。
孤高にして寂しい――。

不朽の名曲「難破船」を提供した加藤登紀子は、明菜をそう表現した。
自らの道を進もうとするほどに孤独になっていく「歌姫」の肖像。

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