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元気な小学生が中学生になると面白みのない生徒になる…「みんなも我慢しているんだから我慢しろ」無能教師がはびこる日本の同調圧力教育

集英社オンライン / 2023年8月7日 16時1分

なんとなく反論しづらい「大義名分」と共に、人の心と身体に静かにまとわりつき、思考や行動の自由を少しずつ奪い、やがて集団全体の一部へと取り込んでしまう同調圧力。同調圧力という「怪物」の「本体」は、いったいどこに隠れているのか。『この国の同調圧力』(SB新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。

生徒をむやみに統制したがる教師たち

同じ小学校に通う同級生から同調圧力をかけられるという嫌な経験はあったものの、私が通った小学校の先生たちは、今の基準で評価すれば非常にリベラルで、子どもをむやみに統制することもなく、自立心や個性を尊重する方針をとっていました。

けれども、そこから徒歩で五分ほどの場所にある市立中学校へ進学すると、状況は一変しました。中学一年の時に校内である事件が起き、大勢の教師が入れ替わったあと、新しく入ってきた教師たちが、生徒の統制に力を入れるようになったからです。



その「事件」とは、何人かの教師がストライキのような形で授業をボイコットするというもので、当時は新聞やテレビの取材記者がたくさん学校に来て、学生服を着た私も小さく写っている写真が新聞に掲載されたこともありました。

授業をボイコットした教師たちは、一年生として接した限りにおいて、特に悪い印象がなく、生徒との関係も比較的良好だったと私は認識しています。ボイコットした理由についても、私は当時も今もよくわかっておらず、ただ「学校がこんな騒動になって、卒業を控えた三年生はかわいそうだな」と気の毒に思っていました。

その後、授業ボイコットを起こした教師たちは学校を去り、新しい教師が補充されましたが、この教師の入れ替わりのあと、私は校内の空気が以前よりも窮屈になったように感じていました。多くの生徒は、新しい状況にすぐ適応したようでしたが、私は二年生の途中から、学校に通うことをあまり楽しいと思えなくなっていきました。

「論理」とは違う言葉で生徒を黙らせた中学教師

そうなった理由の一つは「校則」でした。

今では「ブラック校則」という言葉が一般的に使われていますが、私が通った当時の中学校でも、私から見て理不尽な規則がいろいろ存在していました。特に不満だったのは、髪の毛を整える整髪料などに関する禁止事項で、誰の迷惑にもならないはずなのに「禁止」という項目があり、服装や髪型などのおしゃれに目覚めた時期の私には不満でした。

ある時、私は「こんな規則には意味があると思えないから、変えて欲しい」と担任教師に伝えてみました。

すると、担任教師からこんな言葉が返ってきました。

「みんなも我慢しているんだから、お前も我慢しろ」

は?

それって、何か言っているように見えて、何も言っていないのと同じでは? 中学生にもなると、小学生の時よりは論理的に物事を考えて言葉にする能力が育っており、私は担任教師の言葉に屈服せず、なおも自分の考えを主張しました。

それに対し、担任教師はまた同じような言葉を口にしました。

「みんなに禁止しているのに、お前一人だけ許可するわけにはいかない」

これも、理由の説明になっているように見えて実はなっていない、はぐらかしです。

そもそも「みんな」って誰?
なぜ私が、「みんな」に服従しないといけないの?

「みんな」を持ち出して我慢とあきらめと服従を強いる手法

ここで紹介した中学教師の二つの言葉は、在校中に何度言われたかわからないほど、頻繁に耳にしました。

おそらく、これを言えば生徒は黙るという「成功体験」が彼にあったのでしょう。

でも、論理的に考えれば、やっぱりおかしくて、とても不誠実な言葉です。「みんなも我慢しているんだから、お前も我慢しろ」理不尽だと思う何かについての我慢を強いられる理由が「みんなも我慢しているから」というのは、説明になっていません。

「みんなに禁止しているのに、お前一人だけ許可するわけにはいかない」これも同じで、私が何かの許可を得ることを認められない理由として「みんなに禁止しているから」というのも、説明になっていません。

生徒に我慢や禁止を強要することが正当な教育の一環であるならば、それが必要である理由を論理的に説明できるはずです。しかし、私が当時接した中学の教師は、それを論理的に説明する代わりに、非論理的な詭弁であしらい続けました。

みんなが我慢しているから我慢しろの矛盾

この態度は、私に対してだけでなく、他のすべての生徒に対しても、きわめて不誠実なものであったと思います。なぜなら、皆が服従しているという「状況」を理由に、個々の人間に服従を強いることが許されるなら、あらゆる理不尽が正当化されるからです。

例えば、こんな状況を考えてみましょう。

生徒Aがある校則を廃止して欲しいと教師に言うと、教師はこう答えました。

「みんなも我慢しているんだから、お前も我慢しろ」

翌日、生徒Bが同じことを教師に言い、同じ言葉を返されました。

その後、生徒C、生徒D、生徒E……生徒X、生徒Y、生徒Zが、それぞれ一人で教師に同じことを言いましたが、教師は同じ言葉を返し続けました。

何がおかしいか気づきましたか?

ただ「あきらめて仕方なく我慢している」

生徒たちが理不尽な校則に従うのは「みんなが我慢しているから」だと教師は言いますが、この例では、生徒全員が「もう我慢するのはいやだ」と考えています。

一人一人がバラバラで教師のところへ行くと、「みんなも我慢しているんだから、お前も我慢しろ」という言葉を返されて、「この我慢をおかしいと思っているのは自分一人だけで、他の『みんな』はそう思っていないのか。なら仕方ないな」とあきらめさせられます。しかし、それは決して「みんな」が納得して我慢しているわけではなく、ただ「あきらめて仕方なく我慢している」に過ぎません。

もし、一人一人がバラバラにではなく、5人や10人、あるいは生徒全員で教師のところへ行ってみたらどうでしょう。

教師はもう「みんなも我慢しているんだから、お前も我慢しろ」「みんなに禁止しているのに、お前一人だけ許可するわけにはいかない」という言葉を使えなくなります。

生徒たちが「みんなって誰ですか? ここにいる『みんな』は、この校則はおかしいと考えています」と主張すれば、教師は反論することが難しくなるからです。

教師が握る「内申書」を恐れて萎縮した同級生たち

しかし、当時の中学教師はもう一つ、絶大な威力を持つ「武器」を持っていました。

それは「内申書」または「調査書」と呼ばれる書類です。

内申書は、高校を受験する中学生の一人一人について、中学校の教師が受験先の高校へ提出する書類で、中学時代にどんな生徒だったかなどについての情報が含まれています。

内申書には、中間テストや期末テストの成績に加えて、出欠状況の記録や学級活動、生徒会活動、部活動の内容、そして個々の生徒について教師が書く「行動の記録」や「総合所見」などが記載されます。このうち、成績や活動内容は、ある程度の客観性を持つ形で情報が記されますが、「行動の記録」と「総合所見」については、教師による主観的評価の占める割合が大きく、多くの同級生が内申書の存在を気にしていたようでした。

内申書にどんなことを書かれるかによって、希望する高校へ入学できる可能性に違いが出てくるなら、中学生は必然的に、教師に気に入られるような態度、あるいは「変わった生徒」として教師に目を付けられないような態度をとるようになります。

校則などの学校のシステムに疑問を呈したり、教師に反抗するような態度をとれば、心証を害した教師が内申書にどんなことを書くかわかりません。

教師の内申書に怯え上位者に忖度し始める中学生

自分に不利な情報を内申書に書かれたことで、希望する高校に進学できなかったらどうしよう。そうなってから後悔しても遅い。そんな風に萎縮する中学生が多かったとしても不思議はありません。自分の内申書にどんなことを書かれたのか、生徒は知ることができないからです。教師が自分に対して不当に低い評価を書いたとしても、抗議する手段はありません。

私は当時、中学三年になって「登校拒否」の態度をとり、ほとんど学校には行かなかったので、内申書に教師が何を書くかなど気にしていません(たぶん悪く書かれるだろうと確信していたため)でしたが、同級生の中には、小学校では元気ハツラツとした面白い子どもだったのに、中学では内申書を気にしてどんどん「面白みのない生徒」に変わってしまった友だちもいて、残念だなと思いました。

数年前から日本の社会でよく使われるようになった「忖度」という言葉は、内申書を恐れて教師の顔色をうかがうようになった中学時代の同級生を連想させます。

忖度とは、本来は「国民全体の奉仕者」であるはずの国家公務員、特に霞が関の省庁に勤務するエリート官僚が、国民ではなく時の総理大臣や内閣の顔色をうかがい、明確な指示や命令を受けてもいないのに、総理大臣や内閣の意に沿うような行動を自発的にとる現象を指して使われ始めた言葉です。

個人の主張は捨てて集団に同調せよ、と命じている

日本の官僚は、第二次安倍政権時代の2014年5月30日に設置された、内閣官房の内部部局「内閣人事局」によって人事考査がなされるようになり、時の総理大臣と内閣の意向が官僚人事に反映されるようになりました。この、官僚が総理大臣や内閣の意向にビクビクと怯える状況は、教師の内申書にビクビクと怯えていた中学生の姿と瓜二つです。

上位者によって下される評価が、あたかも「ブラックボックス」つまり不透明な箱に入った形で進められるなら、なるべく自分一人だけが目立たないよう「みんな」に埋没し、生殺与奪の権を握る上位者に逆らわずに従順であることが「安全策」になります。

先に紹介したような、「みんな」という漠然とした概念を一方的に都合良く定義した上で「みんなも我慢しているんだから、お前も我慢しろ」という詭弁を用いて、特定の物事についての我慢を強制するのも、同調圧力の一形態です。

お前は「みんな」という集団から爪弾きにされてもいいのか、という暗黙の脅しがそこには込められており、今後も「みんな」の中にいたいのなら、個人の主張は捨てて集団に同調せよ、と命じているのと、実質的には変わらない図式だからです。

文/山崎雅弘

『この国の同調圧力』(SB新書)

山崎雅弘

2023年7月6日

990円

264ページ

ISBN:

978-4815619206

私たちを縛る「見えない力」から自由になるヒント

日本はなぜ、
ここまで息苦しいのか?


日本人は、なぜこれほどまでに「同調圧力」に弱いのか? 私たちの心と行動から自由を奪う「見えない力」をさまざまな角度から分析し、その構造を読み解き、正体を浮かび上がらせる、現代人必読の書。

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