坂本龍一が絶賛した韓国ドラマ「マイ・ディア・ミスター 〜私のおじさん〜』」40代アジョシ(おじさん)たちの成長物語とソウルの南北格差
集英社オンライン / 2023年8月4日 17時1分
韓国・ソウル市の行政区分が25区あり、うち3区が所得水準、不動産価格、進学実績などさまざまな分野で突出しているということを知る日本人は少ないのではないだろうか。東京の「山の手」と「下町」、関西の私鉄沿線の地域特色にも似たソウルの南北問題を、坂本龍一も絶賛したドラマ『マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜』からネタバレなしで考察する。
2018年のドラマが、パンデミック下で人気再燃
2020年の「愛の不時着ブーム」以来、日本の人たちによく聞かれた。
「次は何を見ればいい? 何かオススメがあれば教えてほしい」
『椿の花咲く頃』や『サイコだけど大丈夫』など、当時Netflixで配信されていたドラマなどを薦めつつ、ネタ切れになると韓国人の友人たちに聞いた。その中で何度も出てきたのが『私のおじさん』(邦題『マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜』)だった。
2018年3月〜5月にtvNで放映されたドラマであり、話題作というのには時間が経ち過ぎている。「でも、あれは本当に韓国社会をリアルに描いていると思う。私は、好きだな」
「私は……」と友人の一人が言ったのは、このドラマは2018年の放映当時に批判も多かったからだろう。
当時の韓国は#MeToo運動の真っ只中にあり、大物政治家や映画・演劇界の重鎮たちの醜態が次々に暴かれていた。それもあってか、このドラマは放映開始前から「若い女性と既婚男性の恋愛もの」という誤ったイメージが先行してしまった。
予想外の逆風の中で初回視聴率は3・9%と低調なスタート、監督は「とにかく作品を見てくれ」の一点張りだったが、今にしてみれば彼の自信は当然だとわかる。そして実際に作品の全貌が見え始めた頃から、視聴率も盛り返していったという経緯がある。
『私のおじさん』というタイトルが醸し出すイメージに対する反感が大きかった。ところがドラマが最終回に近づくと『人生ドラマ』として推す声が大きくなっていった。
(2019年1月4日付、『文化日報』電子版)
主演は国民的人気歌手IU、おじさん役にはイ・ソンギュン。映画『パラサイト 半地下の家族』での金持ち一家の父親役を記憶している人もいるだろう。
逆転した評価は最終的に、伝統ある百想芸術大賞でテレビ部門の作品賞・脚本賞ダブル受賞となったのだが、ただ初動のダメージは大きかったようだ。IUファンの若者層の視聴率も低調で、イ・ソンギュンなどもインタビューで、放映初期の苦労を語っていた。
そんなドラマがあらためて注目されたのは2020年6月、Netflixでの配信が始まってからだった。折しも新型コロナのパンデミック下、全世界でロックダウンや厳しい行動制限がとられていた。いわゆる「巣ごもり」を余儀なくされる中、世界中の人々がインターネット配信の世界にはまっていった。
そんなときに、韓国人にとっては過去の作品である『私のおじさん』が海外で激賞されているという話が伝わってきた。しかもブラジルの作家パウロ・コエーリョや日本の坂本龍一など、世界的な文化人が激賞しているというのだ。
「あのドラマが!?」と驚いた人は、作品を実際に見てまた驚いた。
「こんなにいいドラマだったとは……。はっきり言って名作です」
人気は再燃し、2022年3月には台本集が出版された。放映からすでに4年が経過しており、まさに異例のことである。そして私自身もこの韓国ドラマ屈指の名作を再び見直して、韓国の友人たちが絶賛する理由がわかったのである。
ネタバレに注意しながら、ドラマの背景の韓国事情について書いていきたい。まずは誤解の元となった「アジョシ(おじさん)」という言葉、そして舞台となったソウル市内のエリア解説、最後には個人的に印象に残ったシーンなどにも少しだけふれたいと思う。
主人公は「アジョシ」(おじさん)
ドラマは「人生の重みに苦しみながら生きる『おじさん三兄弟』と、恵まれない環境で傷つきながら育った一人の若い女性が、お互いを通じて治癒されていく物語」(NAVERのドラマ紹介)である。
「おじさん三兄弟」というのは主人公である大手建設会社勤めのパク・ドンフン部長(45歳)と、その兄と弟のことである。3人とも高学歴なのだが、兄サンフンは長期失業中で借金まみれ、弟ギフンは売れない映画監督と、いかにも身近にいそうな人々だ。まったくイケていない三兄弟の中で唯一の期待の星がドンフンなのだが、なぜか彼らの母親は夢見るニートの息子たちよりも、この真面目な次男を一番心配している。
そのドンフンの会社にやってきた派遣社員イ・ジアンは、小学校低学年の頃に両親を亡くし、障がいのある祖母と暮らしてきた。いわゆる「ヤングケアラー」なのだが、彼女のような境遇の人は韓国社会では可視化されない。「身近な三兄弟」とは対象的だ。
ジアンは職場にもかかわらず、ドンフンを「アジョシ」と呼ぶ。
「アジョシ」という言葉は、韓国で暮らすことがあれば、真っ先に覚える単語の一つだろう。下宿のアジョシ、不動産屋のアジョシ、クリーニング屋のアジョシ等々……、韓国の街はアジョシにあふれている。しかし、会社の上司は「アジョシ」ではない。
「アジョシではなく、部長さんだよ」
社会人1年生のジアンに、ドンフンがそう諭すシーンは印象的だ。
アジョシの意味は日本語の「おじさん」とほぼ同じである。使われ方は大阪の「おっちゃん」に近いかもしれない、と思ったこともあるけれど、映画『アジョシ』(2010年、イ・ジョンボム監督)のウォンビンのような「若くてカッコいいアジョシ」もいる。
冒頭に書いたように「私のおじさん」というタイトルに不純なものを感じたという人も多いそうだから、韓国のアジョシはおっちゃんよりはもう少し広範囲に、「大人の男性」全般を指す言葉ともいえる。
いずれにしろ韓国でもアジョシという言葉そのものには性的意味合いは一切ない。ただ、冒頭で述べたように中年男性の性的蛮行が注目された時期だっただけに、早とちりの人たちは「派遣社員の若い女性と上司である部長の不適切な関係。しかも年齢差24歳とは、けしからん!」となってしまった。
ちなみに韓国では年齢に「数え年」が使われることが多い。イ・ジアンは21歳となっているが満年齢では19か20歳。ちょうど成人を迎える年である。つまり法的には「成人」になってはいるが、これから「大人」になっていく年齢といえる。
韓国での「オルン(大人)」の意味
前章で紹介した『未成年裁判』と同じく、このドラマもまた「大人の意味」を問うドラマである。それは挿入歌のタイトル『オルン(大人)』からも明白である。
成人=大人ではないのは、日本も韓国も同じだ。日本では「大人」という言葉は「大人の男性」「大人の女性」みたいに洗練のニュアンスで使われることが多いが、韓国では社会的責任をともなった存在としての意味合いが強い。
韓国における「大人の意味」については、翻訳家の白香夏さんが挿入歌『オルン』をテーマに書かれたブログ記事を読んで、さすがだなと思った。後半の「オルンという単語は……」以下に言葉の説明がある。
対象年齢はミドルエイジ以上。尊敬に値する人格の持ち主で、目下のものや守るべきものを守る、責任を果たす、懐の深さを感じさせる、そんな文字通り「立派な大人」を指して〝어른/オルン〟と。引用(https://paekhyangha.com/?p=57697#more-57697)
しかしながら現実社会では、年齢は立派だけど中身は大丈夫か?という人が、私を含めて多数なので困ったものだ。このドラマにもそんな「年齢だけのオルン」が大量に登場するのだが、それでも困っている若者や子どもを見たときに、自分の中の大人が発動して、それとともに自身も少し成長する。
このドラマはイ・ジアンという若者の成長物語というよりも、実は大人たちの成長物語としての側面が強いのかもしれない。
たとえば、ドンフンがジアンの祖母の施設入居手続きを手伝うシーンがある。福祉制度の利用方法を知らずに、というよりも制度があることすら知らずに、ひとりぼっちで苦労してきたジアン。
「そんなことも知らなかったのか」
おじさんは驚くことばかりなのだが、教えてくれる人がいないから知ることもできなかった。福祉が必要な人につながっていないのは、韓国も日本も同じだ。
このときのドンフンといえば、会社の権力闘争と妻との関係でズタボロ状態。それでもジアンの手伝いをすることで少しずつ自信を取り戻していく。「気の毒な子を救ってあげたい」「自分はこの子に比べたら恵まれている」─という気持ちとはまた違う、同情ではなく責任、「大人としての社会的責任」である。社会には大人だからできること、すべきことがある。
名作といわれるドラマだが、導入部はとっつきにくい。サラリーマン社会の権力争いや不倫といった、定番の陰惨な話題が続く。しかも主役の二人は「無口」であり、特にIUが演じる派遣社員イ・ジアンの暗さはぞっとするほどだ。
「ちょっと、つらすぎて」と、第2話で見るのをやめてしまったという人の気持ちもわかる。ただ第4話ぐらいからドラマの人間関係が一気に広がり、第6話からの逆転劇が始まるともう止まらなくなる。最終的には序盤の伏線が明らかになることで、2周目の楽しみができる。
ソウルの南北問題─江南と江北
ドラマの舞台はソウルの中心部を流れる漢江をはさんで南と北に分かれており、ある意味「ソウルの南北問題」を象徴している。
ドンフンは江南にある大手建設会社に、江北にある自宅から地下鉄で通勤している。ソウルの地下鉄は漢江を渡るときには地上に出るため、ドラマでも川を渡るシーンが効果的に用いられている。
韓国で「江南」と「江北」は常に比較対照される。大企業のオフィスが集まり富裕層が暮らす新しい街「江南」。それに対して、旧市街を中心に広がる「江北」は古い街並みが残る庶民の街である。李王朝の宮殿や仁寺洞、明洞や南大門市場などの観光スポットはこちらにある。
ただ、一つ注意しなければいけないのは、漢江の南側がもれなく「江南」というわけではないことだ。韓国の人々が「江南」と言っているのは、地下鉄2号線の江南駅がある「江南区」、その隣の「瑞草区」、さらに蚕室スタジアムがある「松坡区」という、いわゆる「江南3区」のことである。
ソウル市は全部で25区からなるのだが、この3区はさまざまな意味で突出しており、たとえば3区の財産税(固定資産税)の合計はソウル全体の40%を超えているとか、文字通りの富裕層の街といえる。所得水準、不動産価格、進学実績、さらに選挙の際の政党別得票率なども注目される。
日本でも東京の「山の手」と「下町」、あるいは関西などでも私鉄ごとの沿線イメージに差があるというが、地方出身の私にはいまひとつピンとこない。
ところがソウルに関しては、人々の会話の中から「江南」と「江北」の違いをすぐに知るようになる。これはおそらくソウル市内の南北格差の歴史がとても浅く、また現在進行形でもあるからだ。多くの人々が目撃者であり続けているため、新参者の外国人にも伝わりやすいのだろう。
ソウルは600年以上の歴史をもつ古都だが、その中で江南はとても新しい街だ。1970年代にはまだ広大な田畑と沼地にすぎなかったエリアが、わずか20年ほどで大都市に変貌していった。
文/伊東順子
写真/aflo shutterstock
続・韓国カルチャー 描かれた「歴史」と社会の変化
伊東 順子
2023年7月14日発売
1,078円(税込)
新書判/272ページ
978-4-08-721272-3
前著『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』に続く待望の第二弾。
本著では「歴史」に重点を置き、韓国社会の変化を考察する!
本書で取り上げる作品は『今、私たちの学校は…』『未成年裁判』『マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~』『ブラザーフッド』『スウィング・キッズ』『リトル・フォレスト 春夏秋冬』『子猫をお願い』『シークレット・サンシャイン』『私たちのブルース』『シスターズ』『D.P.−脱走兵追跡官−』『猫たちのアパートメント』『はちどり』『別れる決心』など。
Netflix配信で世界的に人気となったドラマからカンヌ国際映画祭受賞作品まで、全25作品以上を掲載。
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