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オリックスのセデーニョはブーマーの再来なのか!? 規格外のパワーでハイタッチして門田の肩を脱臼させた最強助っ人三冠王の軌跡〈11年ぶりに来日〉

集英社オンライン / 2023年8月3日 12時1分

日本のプロ野球で外国人初の3冠王に輝いたブーマー・ウェルズが11年ぶりに来日。8月3日のオリックス-楽天戦で始球式を務める。

オリックスにあらわれたブーマーの再来

リーグ3連覇、日本シリーズ連覇の偉業を目指すオリックス・バファローズが2023年もパ・リーグの優勝争いを牽引している。ただ、シーズン前からここまでの強さを誰もが予想していたかというと、決してそうではない。たしかに球界最強投手・山本由伸をはじめ、宮城大弥らを中心とした投手陣の充実ぶりは甚だしい。今季はそこに新星・山下舜平大も加わり、球界最強の名を欲しいままにしている。

問題は打線だ。絶対的存在だった吉田正尚がメジャーに移籍。昨季は杉本裕太郎も不振にあえぎ、「打線の核」が抜けた穴を埋めるのは、そう簡単ではなかったはずだ。



しかし、FAで移籍した森友哉、打撃が覚醒した頓宮裕真といった存在が、2023年の打線を牽引し、吉田の穴を埋めた。そして7月、またひとり、猛牛打線に頼れる男が現れた。

今季、育成選手として新加入した、レアンドロ・セデーニョだ。

写真:共同通信社

5月に支配下登録をつかむと徐々に一軍出場機会を増やし、7月4日には来日初本塁打。同16日には延長10回に決勝弾を放ち、21日には4試合連続本塁打と夏場を迎えて大爆発。7月の月間成績は18試合で打率.309、7本塁打、23打点。いまやすっかり“4番”の座に定着した。

そんなセデーニョの活躍を、多くのファンはかつてチームを支えたレジェンド助っ人と重ね合わせ、こう呼んでいる。

――ブーマーの再来。

ブーマー・ウェルズ。本名、グレゴリー・デウェイン・ウェルズ。球団名がまだ阪急ブレーブスだった1983年に来日し、1991年までの9年間バファローズでプレーした伝説の助っ人だ。

若い世代の野球ファンからすればピンと来ないかもしれない。ただ、初来日から40年経った今、奇しくも「ブーマーの再来」と呼ばれる外国人選手が現れた。果たして、ブーマーという助っ人は日本球界にどんなインパクトを与えたのか――。その功績を改めて振り返ってみたい。

「ブームを呼ぶ男」になってほしいと名付けられた名前

身長2メートル、体重100キロ。

これが、ブーマーのプロフィールだ。なんともキリの良い数字だが実寸がどうだったかは定かではない。ただ、「デカい」ことだけはひしひしと伝わってくる。

現役時代のブーマー 写真:山田真市/アフロ

今でこそ、ダルビッシュ有、大谷翔平、藤浪晋太郎、佐々木朗希といった190センチオーバーの日本人選手も増えてきたが、1980年代はプロ野球選手と言えど、そこまで大柄な選手は滅多にいなかった。

そんな中、突如来日した身長2メートルの大男。メジャーリーグでの実績は2年間で47試合出場、打率.228、本塁打は0。いわゆる“バリバリのメジャーリーガー”ではない。それでも、春季キャンプから打撃練習で場外弾を連発。その様子をテレビのニュース映像で見た高齢者が心臓発作で倒れてしまった……なんてエピソードまである。

ちなみに、“ブーマー”という登録名は球団が「ブームを呼ぶ男」になってほしいと名付けた名前。今思えば、球団の先見の明には脱帽せざるをえない。

日本球界1年目。ブーマーは121試合に出場し、打率.304、17本塁打、62打点という結果を残す。来日1年目の助っ人外国人としては十分すぎる数字だ。しかし、当時の日本球界における“助っ人”へのハードルは今よりも高かった。特に17本という本塁打数は「2メートルの怪力打者」の触れ込みからすると、およそ期待通りとは言えないものだった。

ブーマー本人も、それは重々承知していた。2年目は日本野球へのアジャストにより時間を割き、128試合で打率.355、37本塁打、130打点。堂々たる数字で、NPBにおける外国人選手初の打撃三冠王に輝いている。ちなみに、当時は連盟表彰がなかったが、171安打もリーグトップ。実質的な“四冠王”でもあった。

ハイタッチしただけで門田博光が脱臼

来日2年目で“大化け”したブーマーはその後も持ち前のパワーと高いコンタクト力を存分に発揮。阪急~オリックスで9年間、ダイエーで1年間、計10年間を日本球界で過ごし、通算打率.317、277本塁打、901打点をマーク。この間、MVP1回、首位打者2回、本塁打王1回、打点王4回を獲得している。

巨漢ぶりと豪快なスイングからどうしても“パワーヒッター”のイメージが強いが、10年間で打率3割を8回(うち、規定打席到達は6回)。通算打率.317は4000打数以上の打者では右打者史上最高と、コンタクトヒッターとしても一流だった。

写真:星島洋二アフロ

もちろん、期待された“パワー”も三冠王を獲得した1984年から4年連続でシーズン30発をマーク。10年間で三度、シーズン40本塁打もマークしている。また、1988年に西武・渡辺久信から放った一発は本拠地・西宮球場の場外まで飛んでいく推定飛距離162メートルの超特大弾。着弾地点が確認されている本塁打としては、今なお日本最長記録と言われている。

プレー以外の“パワー”も規格外だ。1989年には本塁打を放ったチームメイトの門田博光をハイタッチで出迎えたものの、門田が右肩を脱臼。このシーンは「珍プレー」として何度となくテレビで放映された。このエピソードはブーマーの怪力ぶりを表す話としてよく用いられるが、実は門田の肩はもともと「外れやすかった」という。

筆者も門田氏が存命だったころ、このエピソードを本人にうかがったことがあるが「当たり所が悪かっただけで、ブーマーは悪くない(笑)」と笑っていた。その一方、自らは身長170センチと“小柄”な体躯で本塁打を量産していたこともあり、当時のブーマーについて「とにかくデカかった。ただ、自分より大きいからと言って、飛距離も本塁打の数も負けたくなかった」と並々ならぬライバル心を燃やしていたことも語ってくれた。

あの清原がブーマーにあやかって作られた異名

また、ブーマーの来日直後、ちょうど甲子園でPL学園の清原和博が旋風を起こしており、メディアは清原のことをブーマーにあやかって「キヨマー」と呼んだ。現在とは違い、パ・リーグの選手がプレーする姿を映像で見ることなどほとんどなかった時代だ。にもかかわらず甲子園のスターに自身の名前をもじった相性がつけられるほど、ブーマーの存在感は飛び抜けていた。

ブーマーは待遇のよかったメジャーやセ・リーグの誘いを断って日本球界に10年間在籍し、昭和後期から平成初期にかけ、パ・リーグを支え続けた。関西弁を操る通訳のロベルト・バルボン氏との軽妙なやり取りや、CM出演、積極的なファンサービス、サインに必ずカタカナで「ブーマー」と書き記すなど、プレー以外でも多くのファンから愛された選手でもある。

ブーマーの直筆サイン

日本野球のレベルが向上し、昔ほど“助っ人外国人”が猛威を振るうことは少なくなった。冒頭にあるセデーニョが「ブーマーの再来」と話題となっているが、残した数字だけを見るとまだまだ到底及ばない。本当の意味で「再来」と呼べるかは、今後の活躍次第だ。

昭和、平成を経て、時代は令和に突入している。そんな中、40年前に日本にやってきた助っ人外国人の名前が今なお語り継がれていること自体が、ブーマーがバファローズ史上最高の“レジェンド助っ人”だった証だろう。

文/花田雪

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