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「犬橇(いぬぞり)だけは手を出さない」そう決めていた探検家・角幡唯介氏が犬橇を始めることになった“ある出来事”

集英社オンライン / 2023年8月15日 15時1分

一頭の犬と過酷な徒歩狩猟漂泊行にのぞんだ際、探検家・角幡唯介氏の人生は一変したーー百年前の狩人のように土地を信頼し、犬橇を操り、獲物をとりながらどこまでも自在に旅するーーそのための悪戦苦闘が始まった。同氏の『裸の大地 第二部 犬橇事始』の書き出し部分を抜粋してお届けする。

「本当かよ……、いきなり成功したぞ」

オレンジ色の街灯がともる冷え冷えとした暗がりのなか、私はよたよたと五頭の犬のところへむかった。

犬たちがけたたましく吠える。

風はなく、快晴。といっても一月二十日のシオラパルクは極夜の真っ只中である。午前十一時とはいえ、空には星がにぶく瞬き、太陽は二十四時間姿を見せない。地平線の下からにじむ光は弱々しく、空が黒から群青色にそまる程度だ。



闇の世界でいよいよ犬橇開始となった。まずは犬の引綱を橇につなぐ必要があるが、初心者の私にはそれすら大仕事だ。

「アゴイッチ、アゴイッチ……」

〈伏せ〉という意味のイヌイット語を静かにつぶやきながら鞭をふるうと、ウンマとキッヒの二頭は大人しくうずくまった。

おお、言うことをきいてくれた……。自分の鞭の動きに犬がしたがうだけで、胸に静かな感動がひろがる。

つづいてカヨとチューヤン、ウヤミリックとのこりの三頭も無事、橇につないだ。

これで準備は完了だ。本番はここからである。

犬を走らせるためには最低限、犬の誘導ができなければならない。誘導は重要だ。グリーンランド式の犬橇は、犬が橇を引き、人間は橇のうえに座って指示を出すのが基本スタイルだが、乱氷や氷河の登りなどの悪場では人間が橇をおりて犬を導くことも多い。犬が私についてこないと話にならないのだ。でも逆にいうと、それは、犬の操縦が下手でも誘導に犬がついてきさえすればなんとかなる、ということでもある。

「アハ、アハ……」

〈ついてこい〉を意味する間の抜けた声を出し、私は鞭をふりながら岸にはりつく定着氷を歩きはじめた。伏せていた犬たちは立ちあがり、若干戸惑いを見せつつついてきた。

本当かよ……、いきなり成功したぞ。

最初は犬があっちこっち駆けまわり、収拾のつかない大混乱におちいると覚悟していただけに、私は内心大きな安堵をおぼえた。まるで魔法使いにでもなったような気持ちだった。ひとまず第一関門は突破である。

全身を筋肉の塊にして氷原を凄まじい勢いで疾駆

だがホッとしたのもつかの間だった。犬たちは突然、近くにいた村人の犬にむかって襲いかかった。

「アウリッチ!アウリッチ!」

〈動くな〉の号令を叫びつつ、橇後部の梶棒をつかんで動きを止め、私は先導犬の名前を叫んだ。

「ウンマ!こら!アハ、アハ、アハ……」

なぜ先導のかけ声はこんなに間抜けなのだ……との不条理さを嚙みしめ、アハアハを連呼すると、ようやくウンマはほかの犬と一緒にもどってきた。賢い犬だからたすかったが、この調子だと村人の犬の前をとおるたびに大混乱になりそうだ。

ウンマ

ひとまず定着氷のうえにアイススクリューを打ちこんで橇を固定し、定着氷から海氷への下り口をさがした。完璧なまでに、美しいといえるほど犬を制御できていないので、これぐらい慎重にやらないと、何かの拍子に犬が突っ走って闇のむこうに消える危険は高い。

私が恐れているのは犬の暴走だった。極夜の闇で犬に暴走されたら発見の見こみはない。犬に置いてけぼりをくらい、その姿を村人が家のなかから双眼鏡で見て大爆笑する、というのが犬橇初心者がおかす典型的な失敗である。

うまいこと下り口を見つけたあと、それ以上は考えられないほど慎重に犬を誘導し、海氷のうえにおりたった。そしてそのままアハ、アハ……と言いながら犬の前を進んだ。

前方では、雪をかぶった海氷が白い絨毯となって暗黒の空間に消えていた。

いよいよこのときがきた。私は「デイマ(行け)!」と号令を出した。刹那、五頭の犬は、溜めこんでいたエネルギーを四肢に圧縮させて爆発させた。犬たちが疾風のごとく目の前を通過したかと思った瞬間、すぐ後ろから橇がふっ飛んできた。かろうじて飛び乗り、ふりおとされないように必死にしがみつく。

なんとか体勢をなおし、横を向いて正常な位置に座りなおした。

よっしゃ!いきなり乗れたぞ。

何度も犬に逃げられることを覚悟していただけに、いきなりの成功がわれながら信じられなかった。天才かもしれん、と錯覚した。

久しぶりに自由をあたえられた解放感から、犬たちは喜びを爆発させ、全身を筋肉の塊にして氷原を凄まじい勢いで疾駆した。犬たちのエネルギーが、ぴんと張った引綱をつうじて橇にもつたわってくる。氷点下三十度の凍いてつく外気が、風の刃となって私の頰を突きさす。

闇夜にうかぶ満月が北の空で雪原を照らしていた。

これが犬橇か―。

このままどこまでも駆けてしまいそうだった。

犬橇をはじめることにした「ある出来事」

それまで橇を引き、歩いて旅をしていた私が、急に犬橇をはじめることにしたのは、前の年の狩猟漂泊旅行で経験した、ある出来事がきっかけとなった。

フンボルト氷河周辺で海豹狩りに失敗したことだ。

フンボルト氷河はシオラパルクの村から直線距離で三百キロほど北にある巨大な氷河である。氷河の近海は海豹の繁殖地で、春になると多くの海豹がごろごろと気持ちよさげに昼寝しはじめる。この旅では、狩りをして食料を自給しながら可能なかぎり北をめざすというのがテーマだったが、それにもかかわらず私は、その地域最大の猟場で海豹を獲ることができなかった。

フンボルト氷河

その最大の原因が人力橇という移動形態にあったのはまちがいない。

当たり前だが、海豹が、私が行こうとする方向で都合よく昼寝してくれるわけではない。はるか右手前方に出る場合もあれば、左手後方にあらわれるときもある。あっちの海豹に接近をこころみては逃げられ、今度はこっちの海豹に近づいては見えなくなり……とくりかえすうちに、重たい橇を引いている私はすっかり疲弊し、人力橇では海豹を獲ることは困難である……と悟ったのだった。そして私の頭ではピンと閃いたのである。犬橇なら獲れるのではないか、と。

そうだ、来年から犬橇をはじめよう。犬橇なら機動力があるので、あちこちを動きまわって海豹を狙うこともできる。もしフンボルト氷河で海豹の肉を入手できたら、人力橇では行けなかったもっと北の地へ達することができるはずだ。

そのとき私は目の前に新しい世界が開けたのを感じた。海豹の狩猟欲がきっかけで生じた閃きが、さらにスケールの大きな可能性につながっていることに気づき、異様な興奮をおぼえたのだ。

犬橇でさらなる僻遠の地に行くことができれば、フンボルト氷河とはまた別の、獲物の豊富な〈いい土地〉が見つかるかもしれない。そして新たに発見した〈いい土地〉を足場に、そこからさらに先の土地にも足をのばせるかもしれない。行く先々の様々な場所で〈いい土地〉を見つけて、それをネットワーク化し、自分の土地として拡大してゆく。

獲物の棲息地だけではない。グリーンランド北部からカナダ・エルズミア島一帯にかけて知らないところがないぐらいくまなく探検し、氷や大地の状態をふくめた土地のあらゆる知識を異様なほど高める。どこの海や谷が効率のよい移動ルートであるかわかれば、狩りをしながらあらゆる場所を旅できるだろう。もしかしたら百年前のイヌイットのように地図をもたずに、この地球最北の地を自在に動けるようになるかもしれない。

普通の人には現実離れした妄想に思えるかもしれないが、長らくこの地を旅してきた私にとって、それはとても現実的な選択であり、かつとても自然なつぎの一歩に思えたのだった。めざすのは、もはや目的地到達にとらわれた近代的視点による冒険ではない。狩猟者の視点を獲得して、その目で土地をとらえなおし、測量地図には載っていない〈いい土地〉を見つけ、そこから浮かびあがる素のままの〈裸の大地〉、これを旅するのだ。

それができたら時代を超えた旅になるだろうし、人間が自然とのあいだにつむいできた始原の地平に触れうるかもしれない。そんな思いが腹の底からめきめきと立ちあがってきて、完全にそれに呑みこまれてしまったのである。

文・撮影/角幡唯介

裸の大地 第二部 犬橇事始

角幡唯介

2023年7月5日発売

2,530円(税込)

四六判/360ページ

ISBN:

978-4-08-781731-7


一頭の犬と過酷な徒歩狩猟漂泊行にのぞんだとき、探検家の人生は一変し、新たな〈事態〉が立ち上がった(『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』)。百年前の狩人のように土地を信頼し、犬橇を操り、獲物をとりながらどこまでも自在に旅すること。そのための悪戦苦闘が始まる。橇がふっ飛んで来た初操縦の瞬間。あり得ない場所での雪崩。犬たちの暴走と政治闘争。そんな中、コロナ禍は極北の地も例外ではなく、意外な形で著者の前に立ちはだかるのだった。裸の大地を深く知り、人間性の始原に迫る旅は、さまざまな自然と世界の出来事にもまれ、それまでとは大きく異なる様相を見せていく……。

〈目次〉
泥沼のような日々
橇作り
犬たちの三国志
暴走をくりかえす犬、それを止められない私
海豹狩り
新先導犬ウヤガン
ヌッホア探検記
"チーム・ウヤミリック"の崩壊
*巻末付録 私の地図[更新版]

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