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「やるからには世界最強の犬橇チームをつくる」探検家・作家の角幡唯介氏が最初に選んだ5頭の出自

集英社オンライン / 2023年8月19日 15時1分

ある出来事がきっかけで「あまりに非合理的な選択」である犬橇(いぬぞり)を始めることになった探検家・作家の角幡唯介氏。グリーンランドでの犬集めはスタートから苦労の連続となったが、紆余曲折を経て、最初の5頭がそろった。『裸の大地 第二部 犬橇事始』から一部を抜粋、編集してお届けする。

訓練して自分のチームをつくりあげてゆく創造の喜び

アーピラングアは、人はいいのだが、村でも一、二を争う怠け者でもある。奥さんが牧師で職をもっているせいか、どうもヒモみたいな生活をしている。奥さんがどこかの集落で牧師の仕事を見つけるたびに一緒に移住するので、しょっちゅう村を出たりもどったりしている。

そんな生活なので犬を飼育するのが面倒になったのだろう。相談してみると、「イー、ナウマット(いいよ、問題ない)」と即答、そればかりか一頭や二頭ではなく十頭近くいる犬をすべてお前に売ってやると言い出した。犬だけではない、橇もふくめてまるごと犬橇セットを持っていけというのである。



そこまで大盤ぶるまいされると逆にこっちが戸惑ってしまう。

アーピラングアの提案はこうだった。

犬橇をやるといってもそう簡単にできるものではない。お前は冬のあいだに訓練して、あわよくば春にヌッホア(フンボルト氷河の先、村から四百キロほど北の巨大な陸塊)まで行くなどと調子のいいことをほざいているが、一年目でそんなところに行くのは無理というものだ。ひとまず今年は俺のチームと橇で訓練すればいい。で、お前が帰国した暁には俺が面倒を見ておいてやろう。

もっともらしいことを言っているようだが、ずぼらなこのオヤジが犬のレンタルと夏の世話代で楽にカネを手にいれたいと思っているのは明々白々だ。あるいは、暗くて寒い冬に犬橇をやるのは面倒なので、とりあえずカクハタに走らせて、春になったら鍛えられた犬を自分で使おうという魂胆かもしれない。

それでも、ほかに入手のアテがなかっただけに、私は彼の提案にぐらついた。しかし、途中でアーピラングアの気が変わって、やっぱり返してくれと言い出したらトラブルになる。全部の犬を彼に依存するのは危険だ。何よりすでにできあがったチームをそっくりゆずりうけてしまうと、訓練して自分のチームをつくりあげてゆく創造の喜びが欠落する。

私が犬橇でやりたいのは〈到達〉ではなく〈漂泊〉、結果ではなくプロセスであり、駄目犬を寄せあつめて集団としてまとめることそれ自体が、ひとつの目的でもあった。ということでアーピラングアには謝意を表しつつ、三頭だけゆずってもらうことにした。

「カクハタ、君は僕の犬を二頭買うことができる」

話がまとまり選定のために犬を見に行った。ありがたいことに、完全にやる気を喪失しているアーピラングアは、どれでもいいから好きな犬を持っていけ、と投げやりなことを言ってくれる。

私も、やるからには世界最強の犬橇チームをつくる所存であったので、犬の顔、姿、毛なみ、挙措、人懐っこさ等々を仔細に吟味した。吟味したのだが、しかし極夜で真っ暗なので、よくわからなかった。

彼の犬はどうも身体の大きくない犬ばかりで、どれがいい犬なのか皆目見当もつかない。最初の五頭は今後、チームの中核になるわけだから、三歳から五歳の力のある犬が欲しいところだが、年齢も不明で、アーピラングアに訊いても、ただ唇をめくって歯を確認し、「たぶん五歳か六歳だ」と言うばかりだ。全部の犬が五歳か六歳なので、いい加減に答えているのはあきらかだった。

「どの犬が先導犬なの?」

彼は身体の黒い赤目の中型犬を指で示した。

イヌイット式の犬橇は人間が橇のうえに座って鞭や号令で指示を出し、前を走る先導犬が指示にしたがい、右に行ったり左に行ったり止まったりする。ほかの犬はその後ろに金魚の糞のごとくついていくだけなので、先導犬が指示を理解してくれさえすれば最低限の操縦はできる。

最初に先導犬がいるのといないのとでは雲泥の差だ。ゆくゆくは自分の手で先導犬を育成するつもりだが、最初の一頭ぐらい、経験のある犬を使っても許されるのではないか、と考えた。

名前を訊くとウンマターファ(ハート)というらしい。歯や目の状態を見るとほかの犬より年をくっていそうだが、人懐っこくて、見知らぬ私にも尻尾をふっている。ひとまずこの犬を選び、一緒につながれていた細身の黒灰色犬キッヒビアッホ(隼)も売ってもらうことにした。のこりの一頭は、アイドル系のかわいらしい顔立ちをしたカヨ(茶色)を選んだ。カヨはもともとアーピラングアの弟のオットーの犬だという。オットーは兄とちがってとびきり優秀な猟師なので、外れはないはずだ。

カヨ

こうしてウヤミリックにくわえて三頭の犬がそろい、私は家でホッとくつろいでいた。と、そこに扉をドンドンと叩く音がした。

やって来たのはウーマという若者だ。

犬の名前、村人の名前、舌を嚙みそうな名前がつぎつぎと登場し、読者は混乱のきわみにあるだろうが、その混乱にさらに拍車をかけると、ウーマは私が親しくしているヌカッピアングアの息子で、小イラングアの弟である(ちなみにこの物語で大事なのは犬の名前で、村人は重要ではないので忘れてもらってかまわない)。二十代前半のなかなかのイケメンで、本当は猟師として暮らしたいのだが、いまの世の中、それでは現金が手に入らないので普段は店の従業員をしている。

毎日のように私の家に遊びに来る彼が、ぼそぼそ話しはじめた。

「カクハタ、君は僕の犬を二頭買うことができる」

その申し出に私は驚喜した、かというとじつはそんなことはなく、逆にとても困惑した。愕然としたといっても過言ではない。

こうして最初の五頭がそろった

というのも、父のヌカッピアングアもふくめて彼の家は伝統的に犬への餌やりが悪く、小さくて弱そうな犬が多いからである。私はヌカッピアングアとは仲がよく、準家族のようなあつかいをうけているが、それでも彼から犬をゆずってもらおうとの考えは起きなかった。それぐらい彼の一家の犬は貧相な犬ばかりだ。大漂泊旅行をするため強い犬をそろえたかった私としては、彼の家の犬だけはちょっと避けたかったのである。

その貧相な犬が多い彼の家のなかでも、普段、店で働くウーマはまともに犬橇をしておらず、いっそう貧相な犬をかかえていることが予想された。そのウーマが犬を買わないかと言ってきたのだ。ある意味、脅威だった。

とはいえ、仲の良い間柄だけに無下に断るわけにもいかない。渋々その二頭を見に行くと、これがまた想像をはるかに上まわるほどみすぼらしい犬で、いずれもがりがりに痩せ、毛なみもぼさぼさで、身体はうす汚れており、眼球は老化で白く濁っていた。

おまけに老いのために性格も剣呑なのか、ウーウー唸っている。ぶつくさ文句を垂れながら近所の人にわめきちらす嫌な老人みたいで、近づくことも容易ではない。完全に断りたい、もう勘弁してもらいたい、と泣きそうになったが、兄の小イラングアもその場にやってきて、なんとなく断りにくい雰囲気となった。

年齢を訊くと、九歳ぐらいではないかという。確実に十歳は超えてそうだが、五百クローネ(約九千五百円)という格安の価格と、友達だからという理由で一頭だけ引きとることにした。名前はチューヤン、前に韓国から来た旅行者にちなんだ名前だという。

チューヤン

こうして最初の五頭がそろい、私は最初の訓練にのぞんだわけだ。

このままどこまでも走ってしまいそうだ―。

月光のさす闇夜で風をうけながら、私は心地よい錯覚にひたった。

だが、その錯覚はあながち錯覚ともいえなかった。

ある程度、走らせたところで私は鞭をふり、左へ行けとの指示を出してみた。左へ行かせたいときは、犬の右側に鞭をふり「ハゴ、ハゴ」と、逆に右へ行かせるときは鞭を左側に出して「アッチョ、アッチョ」と言う。だが先導犬のウンマは私の鞭にまったく反応せず、犬たちは右にも左にもむかわず、壊れた機関車みたいに直進するばかりだった。

焦った私は、今度は「アイー、アイー」と止まれの指示を出した。しかしこれにもいっこうに反応はみられなかった。

「おい、ウンマ。止まれ、こら!アイー。アイー!アイーっつってんだろ、てめえ、この野郎!」

志村けんのギャグのような絶叫が虚しく夜空に響くばかりで、このままでは冗談抜きで本当にどこまでも走っていきそうだ。

ちょっと怖くなり、太いロープを輪っかにしたブレーキを橇の先端にひっかけて無理矢理止めることにした。ヘッドランプの光をたよりにガタンガタンと揺れる橇のうえで作業するのは慣れないだけに難しい。ふりおとされないように匍匐で進み、橇にしがみつきながら輪っかを振りまわしてようやく引っかかった。その瞬間、輪っかが雪面とのあいだに摩擦を引き起こし、ずずずず……と大きな音をたてて止まった。

犬たちはいっせいにこちらをふりむいた。なんで気持ちよく走っているのに止めるわけ?とでも言いたげな不服そうな表情をしている。その呑気きな顔を見ながら、これは思ったより恐ろしい乗り物かもしれん……と肝を冷やした。

文・撮影/角幡唯介

裸の大地 第二部 犬橇事始

角幡唯介

2023年7月5日発売

2,530円(税込)

四六判/360ページ

ISBN:

978-4-08-781731-7


一頭の犬と過酷な徒歩狩猟漂泊行にのぞんだとき、探検家の人生は一変し、新たな〈事態〉が立ち上がった(『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』)。百年前の狩人のように土地を信頼し、犬橇を操り、獲物をとりながらどこまでも自在に旅すること。そのための悪戦苦闘が始まる。橇がふっ飛んで来た初操縦の瞬間。あり得ない場所での雪崩。犬たちの暴走と政治闘争。そんな中、コロナ禍は極北の地も例外ではなく、意外な形で著者の前に立ちはだかるのだった。裸の大地を深く知り、人間性の始原に迫る旅は、さまざまな自然と世界の出来事にもまれ、それまでとは大きく異なる様相を見せていく……。

〈目次〉
泥沼のような日々
橇作り
犬たちの三国志
暴走をくりかえす犬、それを止められない私
海豹狩り
新先導犬ウヤガン
ヌッホア探検記
"チーム・ウヤミリック"の崩壊
*巻末付録 私の地図[更新版]

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