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一度は争ったのに、家康はなぜ秀吉に従属したのか…チート級の好待遇で「敵」から「政務の相談役」になった狸の腹の内とは

集英社オンライン / 2023年8月20日 18時1分

徳川家康についての本格的な研究がこの十数年で急速な進展を見せている。NHK大河ドラマ『どうする家康』も話題になっているなか、いかに家康が動乱の時代を乗り越え、徳川政権を確立したのか。『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』 (朝日新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。

徳川家康が秀吉政権でも、とてもとても偉かった理由

家康は、天正十四年(一五八六)十月に、羽柴(豊臣)秀吉に出仕したことで、羽柴(豊臣)政権に従属する「羽柴(豊臣)大名」の一人になった。

しかし秀吉への出仕に先立って、家康は秀吉の妹・朝日(南明院殿)を正妻に迎えていたため、政権主宰者の秀吉との関係は、妹婿にあたった。そのため家康の立場は、当初から他の旧戦国大名や旧織田家家臣らとは異なる、格別なものであった。



秀吉に出仕した直後の十一月五日、秀吉に随従しての参内にともなって、家康は正三位・権中納言に叙任されたが、これは政権下の大名のなかでは、権大納言の織田信雄に次ぎ、秀吉実弟の秀長と同等であった。

秀長に次ぐ羽柴家一門衆は、甥のなかで最年長の秀次であったが、その官職は参議で、家康のほうが上位に位置した。

秀吉は自身が関白に任官したことにより、政権における武家領主の身分制について、官位序列による新しい政治秩序を形成していた。家康はそこで、信雄に次ぎ、秀長と同等の地位に位置付けられている。

しかも秀吉・秀長の次世代の一門衆よりも上位に位置した。それは家康の立場が、秀吉の妹婿であったからであった。そうした家康の立場は、羽柴家の親類大名ととらえることができ、かつその筆頭に位置したのであった。

そもそも家康は、前政権の織田政権において、すでに高い政治的地位に位置付けられていた。

それは嫡男信康が織田信長長女・五徳の婿という姻戚関係によっていた。それにより家康は、「織田一門大名」の立場に置かれていた。この姻戚関係は、信康事件によって解消されるが、家康の政治的地位は継続された。

本能寺の変後では、織田信雄・同信孝に次ぐ地位に置かれていた。そのため秀吉が家康を政権内に位置付けるにあたっては、信雄に次ぎ、秀長と同等の地位ほどにする必要があり、そのために家康を妹婿にした、とみることができる。

秀長の死去、家康は単独で諸大名筆頭に

信雄・家康=秀長という序列はしばらく継続され、同十五年八月八日に、信雄が正二位・内大臣(任官は十一月か〈『公卿補任』〉)、家康・秀長は従二位・権大納言に昇進するが、序列は変化していない。

その後、同十八年に信雄が失脚して、辞官し、前内大臣の立場になると、家康・秀長が諸大名筆頭になった。

さらに同十九年に秀長が死去したことで、家康は単独で諸大名筆頭に位置することになった。妻朝日は前年の同十八年に死去していたが、家康の地位が変わることはなく、その状態は、秀吉が死去するまで継続された。

そのなかで慶長元年(一五九六)五月八日には正二位・内大臣に叙任されるまでになる。その時点で、前田利家(一五三九〜九九)が権大納言に昇進されて次点についてくることになるが、家康の政治的地位は他大名を凌駕し続けた。

また領国規模においても、家康は他大名を凌駕していた。秀吉に従属した際の領国高については、正確には不明であるが、「伏見普請役之帳」(「当代記」所収、前掲刊本六〇〜六頁)にみえる各国の石高と各大名の知行高が参考になる。なお同史料は慶長二年・同三年頃の作成と推定されている(白峰旬『日本近世城郭史の研究』)。

秀吉に従属した時点での家康の領国は、与力小名(木曽・小笠原・真田)の信濃における領国を含めて、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国であったが、信濃のうち海津領が上杉家の領国であった。同史料でこの五ヶ国の石高を合計すると、一三三万一八八四石になる。

このうち海津領の石高を一三万七五〇〇石とみて(慶長五年、森忠政への充行時のもの)、これを引くと、一一九万四三八四石となる。もちろんその間において検地などによる石高の増加があったとみられるものの、慶長二年・同三年時点にあわせれば、他との比較が可能になる。家康に次ぐ領国規模にあったのは毛利輝元(一五五三〜一六二五)であったが、その知行高は一一二万石であった。

これと比べると、家康の領国規模はそれを上回る、諸大名中随一であったことがわかる(ただし与力小名の領石高を差し引くと、一〇〇万石ほどであった)。

秀吉妹婿の立場をもとに最有力の大名として位置した

このように家康は、羽柴政権において、秀吉妹婿の立場をもとに、諸大名筆頭の政治的地位にあり、かつ最大の領国規模を有し、最有力の大名として位置した。

この立場をもとに家康は、政権運営においても重要な役割を果たした。家康は秀吉の死後に、政権の政務運営にあたる「五大老」に列し、その筆頭に位置するが、そうした制度が成立する以前、政権に参加した時から、政務に関与したことが明らかになっている(跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』)。

家康は秀吉に出仕した際に、早速に秀吉から「関東・奥羽惣無事」の取り纏めを命じられた。秀吉はその件について、家康に「諸事を相任せ」「無事に仕るべき」ことを命じたのである(竹井英文『織豊政権と東国社会』・拙著『小田原合戦と北条氏』など)。「関東・奥羽惣無事」とは、両地域における大名・国衆の抗争を停止させ、政権に従属させることであった。

これより以前、まだ織田政権の段階であった天正十一年十月に、家康は、織田家当主信雄の「指南」の立場にあった秀吉から、「関東惣無事」の実現を命じられていた。

織田信長の死去直前、北条家とそれに敵対していた佐竹方勢力は、ともに織田家に従属したことで、両勢力間では停戦が実現していた。これを織田政権は「関東惣無事」と表現した。

秀吉は、織田政権の内乱(第一段階)を克服したことをうけて、かつての織田政権の政治秩序を再生させるべく、両勢力と親密な政治関係を形成していた家康に、その実現を命じたものになる。ただしこれは、直後に内乱(第二段階)に展開していくため、事実上、沙汰止みになっていた。

朝鮮出兵においては、秀吉の政策を直接に変更させた

秀吉は家康の従属をうけて、あらためてその執行を命じるのであったが、この時にはさらに、奥羽両国についても対象に含めた。家康は秀吉から、その東国政策の重要部分を委ねられたのである。

天正十六年六月に、北条家は秀吉に従属を表明するが、それは家康はたらきかけによるものであった。それより以前の同年三月には、奥羽伊達家と出羽最上家の和解をはたらきかけている。家康は独自の裁量によって、関東・奥羽の大名・国衆の政権への従属のはたらきかけをおこなっていた。

同十八年の小田原合戦により、関東・奥羽の大名・国衆は、すべて秀吉に従属した。その直後に奥羽で叛乱が生じるが、家康はその鎮圧を担った。

しかもその際の同十九年六月、蒲生氏郷(「会津少将」)と伊達政宗(「伊達侍従」、一五六七〜一六三六)の領国画定について、鎮圧軍の総大将の羽柴秀次と相談のうえで、「然るべき様に申し付け」ることを命じられてもいる。家康はそうした東国大名の領国画定においても、実質的に差配していたのである。

朝鮮出兵においては、秀吉の政策を直接に変更させている。

文禄元年(一五九二)六月、肥前名護屋城(唐津市)に在城していた秀吉が、朝鮮に渡海することについて、前田利家とともに秀吉に進言して、出発を中止させ、事実上の中止に追い込んでいる。

進言は家康の主導によるもので、その際に両者は秀吉に起請文を提出して進言していた。こうした役割は家康に限ることではなく、織田信雄・前田利家・毛利輝元らの有力大名には共通してみられていた。それら有力大名は、秀吉から事実上、政務への参加を認められていて、秀吉に意見し、時にその政策を変更させていた、とみられている。

いわば秀吉の政務における相談役

秀吉は家康・利家の進言を容れ、渡海を延期し、両者の連署状によって諸大名に事情を説明させている。さらに七月、秀吉は大政所の病気のため大坂に帰るが、その際に家康と利家は留守中の諸事を委ねられて、秀吉の代行を務めるのである。

こうした家康と利家の役割は、他の大名と区別された、「二大老」制ともいうべきものと評価されている。文禄四年七月の羽柴秀次事件ののち、家康・輝元・小早川隆景(一五三三〜九七)・利家・宇喜多秀家(一五七二〜一六五五)は、秀吉制定の「置目」への違反者について「糺明」と「成敗」にあたることになり、またこれに上杉景勝を加えた六人は、秀吉への訴訟において、六人での談合のうえで秀吉に取り次ぐ役割を担った。これがのちの「五大老」につながっていくことはいうまでもない。

六人のうち小早川隆景は慶長二年に死去したことで、「大老」は五人になった。そのうえで家康と利家は、「二大老」ともいうべく、他とは別格に扱われた。

利家はそうした役割により、慶長元年五月に権大納言に任官されて、名実ともに家康に次ぐ政治的地位を与えられている。利家は旧織田大名であったが、秀吉と複数の姻戚関係を形成する、有力な親類大名であった。その点でも、利家は家康に次ぐ存在であった。

両者は秀吉から諮問にあずかり、諸大名から二人で秀吉にはたらきかけることを期待されていた。両者の役割は、秀吉に直属する中枢機構として、広い職域にわたって活動が認められ、またそれを期待されたもの、とみなされている。いわば秀吉の政務における相談役というものであった。

文/黒田基樹

『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』 (朝日新書)

黒田 基樹

2023/3/13

935円

248ページ

ISBN:

978-4022952097

実は今川家の人質ではなく厚遇されていた! 嫡男と正妻を自死に追い込んだ信康事件の真相とは? 最新史料を駆使して「天下人」の真実に迫る。通説を覆す新解釈が目白押しの刺激的な一冊。"家康論"の真打ち登場! 大河ドラマ「どうする家康」をより深く楽しむために。

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