“豊臣家康”とは一体誰のことだ!? 死期を前に、秀忠と江を結婚、千姫と羽柴(豊臣)秀頼を婚約させた秀吉の切なる願いとは
集英社オンライン / 2023年8月27日 18時1分
羽柴(豊臣)秀吉に出仕し、「羽柴(豊臣)大名」となった家康。ともに歴史的に天下人と紹介される秀吉と家康、二人の関係性は実際どんなものだったのか。『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』 (朝日新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。
12歳徳川秀忠(長丸)と婚約した秀吉の養女・小姫(6歳)
小田原合戦開戦の直前の天正十八年(一五九〇)正月二十一日に、家康の三男で嫡男であった長丸(秀忠)が上洛し、秀吉に出仕するとともに、秀吉の取り成しによって、秀吉の養女となっていた織田信雄の娘・小姫(一五八五〜九一)と婚約した(『多聞院日記』同月二十八日条)。
長丸は天正七年生まれの一二歳、小姫は同十三年生まれの六歳であった。小姫は、二、三歳の時から秀吉の養女となっていたという。
秀吉の養女としては、それ以前に樹正院(いわゆる「豪姫」、前田利家の娘)がいたにすぎず、それは宇喜多秀家と結婚していた。小姫はそれに続く養女であり、それを家康嫡男の長丸と結婚させることにしたのであった。
そして秀吉は、北条家追討のうえで、関東で三ヶ国を長丸に与えることを決めたという。
これは長丸が、小姫の婿であることをもとに、家康嫡男というだけでなく、秀吉の娘婿として、別個に親類大名として取り立てられることを意味しよう。そうであれば家康が、小田原合戦後に関東七ヶ国という破格の領国を与えられたことには、このことが踏まえられていた可能性も想定される。
この婚約の直前にあたる正月十四日、家康正妻の朝日が四八歳で死去している。このことをみれば、長丸を秀吉養女と婚約させたのは、朝日死去にともなって断絶してしまう秀吉と家康の姻戚関係を、継続させるためであったと考えられる。
長丸の上洛・婚約については、家康から人質をとるため(片山正彦『豊臣政権の東国政策と徳川氏』など)、長丸妻の小姫を人質にするため(福田千鶴『江の生涯』)、などの見解が出されている。
秀吉にとって家康との姻戚関係の継続は必須
片山氏の見解については、福田氏が明快に否定している。家康正妻の朝日の死去が想定されていたなかでのことであったことは、間違いないとみられ、そのため小姫を朝日に代わる徳川家からの人質にするという、福田氏の見解は一理あるようにも思えるが、朝日・小姫ともに秀吉に近親にあたる存在であることからすると、一般の人質と同列には考えられないであろう。
むしろ秀吉と家康の関係は、朝日を介して義兄弟にあり、それに基づいて政権における家康の政治的地位が成り立っていたことからすれば、秀吉にとって家康との姻戚関係の継続は必須のことであったと思われる。
そのためこの婚約は、何よりも両者の姻戚関係の継続が目的であったと考えるのが妥当と思われる。
長丸は、小田原合戦後に再び上洛し(十一月と伝えられる)、十二月二十四日に従四位下(形式的には初め従五位下、同日に正五位下、次いで従四位下に叙された)・侍従に叙任され(口宣案の日付は二十九日)、公家成大名とされた。
そして翌天正十九年正月二十六日に元服し、秀吉から偏諱を与えられて、実名「秀忠」を名乗った。下字の「忠」字は、家康の出身になる安城松平氏の通字である。
すでに家康の下字「康」に秀吉の偏諱を冠した実名は、次男秀康が称していたので、秀忠には先祖の通字の「忠」字が採用されたとみなされる。そして羽柴苗字・豊臣姓・武蔵守を与えられ、「羽柴武蔵守秀忠」を称した。
羽柴(豊臣)政権における官位制に基づいた政治秩序において、従五位下・侍従の官位を与えられた大名は、昇殿が許され、公家成大名と称され、他の大名・直臣とは区別される地位におかれた。
当時、公家成大名になっていたのは、羽柴家一門はもちろん、織田家一門、羽柴家の親類衆、旧織田家家臣の有力者、旧戦国大名・国衆の有力者であった(拙著『羽柴を名乗った人々』)。
嫡男の立場で公家成されたのは、羽柴家一門と親類衆、旧戦国大名の有力者に限られていた。それに照らせば、秀忠が元服とともに公家成されたのは当然であった。
婚姻関係消滅後の好待遇を維持
ただ秀忠の政治的地位は、他の親類衆や旧戦国大名とは区別されていた。
同十九年十一月に近衛権少将を飛び越して参議・右近衛権中将に、文禄元年(一五九二)九月に従三位・権中納言に昇進している。その時点で中納言以上の官職にあったのは、羽柴家当主になっていた関白秀次、大納言の家康と、同じ中納言の羽柴秀保(秀長養嗣子、一五七九〜九五)・同秀俊(秀吉養子、のち小早川秀秋、一五八二〜一六〇二)だけであった。
これはすなわち、秀忠の政治的地位は、羽柴家一門衆と同等におかれていたことを示している。父家康は、秀吉の義弟ということで、一門衆と同等に位置付けられていた。秀忠もまた養女婿という立場をもとに、同様の扱いを受けていたことがわかる。
もっとも秀忠と婚約した小姫は、天正十九年七月九日に、わずか七歳で死去していた。
同時期に秀吉嫡男の鶴松も死去し、秀吉正妻の木下寧々(高台院、?〜一六二四)も病気に罹っているので、何らかの流行感染症によった可能性が高い(渡辺江美子「甘棠院殿桂林少夫人」柴裕之編『織田氏一門』所収)。
これにより秀吉と家康の姻戚関係は、完全に断絶した。秀吉義弟であった家康は、正妻朝日を失っており、秀吉養女婿であった秀忠も、婚約者小姫を失ったのである。
にもかかわらず、秀忠はその後も、参議・中将、中納言へと昇進し、むしろ羽柴家一門衆と完全に同等に位置付けられている。このことは秀吉が、家康・秀忠父子を重んじ、具体的な姻戚関係が消滅したあとにおいても、引き続いてその待遇を維持したことを示している。
実は豊臣家康だった
そして家康自身も、秀忠と同じく、羽柴苗字・豊臣姓を与えられた。
正確な時期は判明していないが、文禄三年(一五九四)九月二十一日付けで秀吉から家康に出された所領充行目録の宛名に、「羽柴江戸大納言」と記されていて、家康がそれ以前に羽柴苗字を与えられたことがわかる(堀新「豊臣秀吉と「豊臣」家康」など)。羽柴苗字を称しているから、それに対応して豊臣姓を称したことは確実である。
家康がかつて、永禄九年(一五六六)に徳川苗字への改称にともなって、本姓を源姓から藤原姓に改姓していたことについては、第二章で触れた。ところが秀吉に従属したあとの天正十五年十一月の遠江見付宣光寺の鐘銘(静8一九四一)、同十六年の「聚楽第行幸記」(『群書類従第三輯』)、同十九年十一月の寺社への寄進状(家康中九二ほか)で、源姓を称している。これにより家康が、秀吉への従属以降、源姓に戻していたことがわかる。
そのうえで羽柴苗字と豊臣姓を与えられたのであった。当時、公家成大名はすべて羽柴苗字・豊臣姓を称していたので、家康も例外ではなかったといえる。
ただし羽柴苗字・豊臣姓を与えられた時期は判明していない。
天正十六年四月の聚楽第行幸以降のこととみなされるが、その後において、家康は「駿河大納言」「武蔵(江戸)大納言」と称されるだけで、苗字を記された史料がみられないからである。
羽柴苗字が確認される文禄三年まで、六年もの空白がある。今後その間における関係史料の出現に期待するしかない。
なお旧戦国大名においては、政権内で羽柴苗字を使用する一方で、領国内では本苗字を使用していた事例があり、それを使い分けていた可能性が指摘されている(平野明夫「徳川家康はいかにして秀吉に臣従したのか」)。
そうした使い分けについては、上杉・最上・長宗我部・竜造寺各家で確認され、里見・宇都宮各家もその可能性がある(拙著『羽柴を名乗った人々』)。そうすると家康についても、同様であった可能性は高い。ただし秀忠については、羽柴苗字の使用しか確認されていない。秀忠はやはり、羽柴家一門衆に近い立場にあったということであろうか。
秀吉は、羽柴家の将来を徳川家の協力に託した
そしてその秀忠は、文禄四年九月(十七日とする所伝がある)に、またも秀吉の取り成しによって、秀吉の養女とされた浅井江(一五七三〜一六二六)と結婚する。
江の姉の茶々(一五六九〜一六一五)は、秀吉の別妻で、嫡男秀頼(当時は幼名拾、一五九三〜一六一五)の生母であった。
すなわち秀忠は、秀吉嫡男の母方叔母と結婚したのである。この時点で、秀吉には実子は秀頼しかいなかった。近親の一門衆・親類衆も、養子の小早川秀俊(木下寧々の甥)、養女婿の宇喜多秀家しかいなくなっていた。そうするとこれにより秀忠は、秀頼に最も近い親族の立場に位置付けられたことになる。
しかもこの結婚は、同年七月の秀次事件の直後にあたっていた。それにより羽柴家の後継者として、秀頼が確立されたのであった。秀吉はその秀頼に最も近い親族の位置に、秀忠をおいたことになる。
家康は依然として、親類大名の筆頭にして、かつ諸大名筆頭の立場にあった。秀忠はその嫡男であった。
これは秀吉が、秀頼の将来を、家康・秀忠父子の補佐に委ねようとするものであった、といってよい。そしてさらに、秀吉は死去に臨んで、秀忠長女の千と秀頼を婚約させるのであった。そうして秀吉は、羽柴家の将来を、徳川家の協力に託したのであった。
文/黒田基樹
『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』 (朝日新書)
黒田 基樹
2023/3/13
935円
248ページ
978-4022952097
実は今川家の人質ではなく厚遇されていた! 嫡男と正妻を自死に追い込んだ信康事件の真相とは? 最新史料を駆使して「天下人」の真実に迫る。通説を覆す新解釈が目白押しの刺激的な一冊。"家康論"の真打ち登場! 大河ドラマ「どうする家康」をより深く楽しむために。
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