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茶々と秀頼が家康に送った書状の中身…未だ謎が多い関ケ原合戦と、信長死去後の秀吉とそっくりの行動をとった徳川家康

集英社オンライン / 2023年10月8日 18時1分

江戸幕府を開き、天下人となった徳川家康。いかにして家康はのちに十五代に及ぶ覇権を確立させたのか。天下分け目の決戦・関ヶ原合戦ではいったい何があったのか。『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』 (朝日新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。

秀吉死去~関ヶ原合戦の政権の動向について、近年急速に解明

慶長三年(一五九八)八月十八日に、羽柴秀吉が死去した。

後継者の秀頼は、まだ六歳の年少であった。当然ながら政務を執ることはできないので、秀頼成人までのあいだの政務体制として、遺言により、いわゆる「五大老・五奉行制」が組織された。

家康は「五大老」の筆頭に位置した。また家康と前田利家(羽柴加賀大納言)は、それまでと変わらず、五人のなかでも別格の立場に位置した。そして家康は、秀次事件以来の東国統治に加えて、政権首都の伏見での「諸事御肝煎」を委ねられた。



かたや利家は、北国統治に加えて、羽柴家本拠の大坂での「惣廻御肝煎」を委ねられた(跡部前掲書)。

秀吉の死去は、朝鮮在陣の諸大名の軍勢が帰還するまでしばらく公表されず、年末に公表された。それをうけて翌慶長四年元旦、秀頼が羽柴家の家督を継承して、伏見城で諸大名から年頭挨拶をうけ、そのうえで十日に大坂城に移った。

秀頼補佐を担う利家は、それに同行した。以後、羽柴家の本拠は大坂城に移された。

秀吉死去から「五大老・五奉行」による政権運営がおこなわれるものの、すぐに内部分裂が展開され、各種の政変・事件が生じていく。その帰結が、同五年の関ヶ原合戦であり、それによって家康の政務体制が確立されることになる。

秀吉死去から関ヶ原合戦までにおける政権の動向については、近年、急速に、かつかなり詳細に解明がすすめられている。そのためそれらを総括するだけでも、大仕事になり、それだけでも数冊の分量を必要としよう。そのためここでは、それらの研究成果を参照しつつ、家康の動向と立場に焦点をあてて述べていくことにしたい。

参照すべき研究成果も極めて多数にのぼるが、ここでは叙述にあたって直接に依拠したもののみを紹介するにとどめざるをえない。

関ケ原前に実質的にはすでに「天下人」として存在

すでに慶長四年正月には、家康と、利家・四奉行(前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家)との政治対立が生じるようになっている。

そのうえで閏三月三日に利家が死去した。これを機に、福島正則(羽柴清須侍従)ら七将が三成討伐をはかるという、羽柴家譜代家臣の内部抗争が生じた。

事件は、家康・毛利輝元(羽柴安芸中納言)・上杉景勝(羽柴会津中納言)の三大老の協調によって処理された。その結果、三成は隠居し、奉行を罷免される。

その過程で、家康と輝元は「兄弟契約」を結んでいて、それは家康を兄、輝元を弟とする、家康上位のものであった。また家康は、景勝と縁組みを契約した。

これは実現されなかったが、のちに家康五男の信吉(一五八三〜一六〇三)が景勝の養嗣子になる話があがるので、この時もそれが想定されたのかもしれない。

事件解決後の閏三月十三日、家康は伏見城西の丸に入城した。これについて世間では家康が「天下殿」になったと評価した。

しかし実態は、家康は他の大老や四奉行と協調して政務にあたっていた。もっとも七月頃から、外交を管掌し、また国内の内乱(島津家領国での庄内の乱)への対応にあたるなど、政務担当の側面を強めるようになっている。

しかし大きく変化をみせるのは、同年九月の大坂城西の丸入城であった。そしてそれは「一種のクーデター」であった(谷徹也「秀吉死後の豊臣政権」)。

家康は大坂城西の丸入城にともなって、秀頼のためとして、新たに「御置目・法度」を定め、秀頼の後見人として天下統治をおこなうようになった、とみなされている。

そこでは秀吉制定の「御置目」「御掟」や遺言で禁じられていた、諸大名との起請文交換、諸大名への所領充行、さらには訴訟処理などがおこなわれた。

しかもそれらの政務は、三奉行(前田・増田・長束)によって遂行されたから、それらは紛れもなく羽柴政権としての政務であった。こうした家康の立場は、「天下人」不在のなか、実質的にそれを代行するものであった。家康が在城した大坂城西の丸には、同五年二月から三月にかけて、本丸天守に張り合うかのように天守が建築されもした。

家康は、なお羽柴家の「大老」という立場にありつつも、実質的にはすでに「天下人」として存在しつつあった、とみることができる。

秀吉とそっくりだった徳川家康

もっとも周囲は、家康をあくまでも「天下の家老」と認識し、「(天下の)主人」とみなしていたわけではなかった(福田千鶴『豊臣秀頼』)。

そのため家康は、自身の政務体制に反発する、ないしそれが想定される存在に対して、自身への屈服をすすめていくことになる。それはちょうど、羽柴秀吉が織田信長死去後の織田政権においてとった行動と、あたかも相似している。

そもそも大坂城西の丸入城にともなって、領国の加賀に在国していた「大老」前田利長(羽柴加賀中納言、一五六二〜一六一四)を政務から排除し、「大老」宇喜多秀家(羽柴備前中納言)の居所を大坂から伏見に変更させて、同じく政務から排除した。

さらに秀忠妻の江を、大坂から江戸に下向させている。それは政権への人質を回収したことを意味した(大西泰正『前田利家・利長』)。これにより徳川家は、実質的に羽柴家に人質を出さない存在になった。徳川家と羽柴家の関係の曖昧さが生み出される端緒と認識できる。

また大坂城西の丸入城後から、前田利長とのあいだに不穏な状況が生じた。通説では、家康は利長を追討する「加賀征伐」を企てた、とされているが、大西泰正氏の検討により、それは虚説であることが明らかになっている。

家康と利長は和解をすすめ、その際には家康五男信吉を利長の養子にする案も浮上したらしい。結局、慶長五年(一六〇〇)五月に、利長の母芳春院が江戸に下向し、徳川家への人質に出されたことで、利長の家康への従属が示された。

家康はどうして毛利・宇喜多を政務に復帰させたのか

ただし同時に、利長妻の玉泉院殿(信長娘、一五七四〜一六二三)と利長後継者の立場にあった弟の利政(羽柴能登侍従)を、大坂から加賀に帰国させている。これはこの時の前田家の政治的立場の転換を示していて重要である。

玉泉院殿は羽柴家への人質であったから、その帰国は前田家も、羽柴家に人質を出さない存在になったことを意味した。

また利政は、能登の領国大名であるとともに、大坂城の勤番衆であったが、その役目が解かれたことを意味した。それらは前田家が、徳川家に従属したことにともなって、羽柴家に奉公する存在でなくなったことを示した。

他方で家康は同年四月から、領国の陸奥会津領に在国している「大老」上杉景勝に、上洛を要求した。これももちろん家康への従属を求めたものになろう。

上杉景勝はこれを拒否し、そのため家康は「会津討伐」を企てる。そして諸大名に出陣を命じて、六月十六日に大坂城から伏見に移り、十八日に会津に向けて出陣することになる。

もっともそれに先立つ五月に、家康は残りの「大老」の毛利輝元・宇喜多秀家との三大老連署で、前年十二月からこの年四月までの日付で、羽柴家直臣と寺社への知行充行状を作成している(谷前掲論文)。

ただしその意味については、まだ明確になっていない。しかしこれは、それまで政務から排除していた毛利・宇喜多を、政務に復帰させたことになる。家康はその時点で、どうして両者を政務に復帰させたのか、この時期の政治情勢を分析するためにも重要であろう。

そうしたなか、七月十二日に政局が大転換する。元奉行・石田三成と羽柴家有力直臣・大谷吉継が家康討伐のために蜂起し、これに「大老」毛利・宇喜多と三奉行が同心したのである。

すなわち「関ヶ原合戦」の勃発である。

これにともなって各地では、家康の江戸方と毛利らの大坂方に二分した抗争が展開された。近年、各大名・各地域の動向が詳細に明らかにされるようになっている。さらに今後、ますます解明がすすめられていくことであろう。

同合戦の詳細については、それらの研究成果に委ねざるをえない。結果として家康は、「会津討伐」で率いていた軍勢をもとに、九月十五日の美濃関ヶ原合戦で大坂方に勝利し、それにより反対勢力の一掃を遂げるのである。

茶々と秀頼が家康に送った書状の中身

合戦後、家康は大坂に向けて進軍する。

二十二日に家康に代わって大坂城西の丸に在城して、大坂方総帥の立場にあった毛利輝元は、家康に従属を誓約し、二十五日に大坂城から退去した。

家康は二十七日にそれに代わって西の丸に入城し、さらに二の丸に嫡男秀忠を入れた。そしてその日、秀頼に対面した。

この対面について世間では、「家康と秀頼の和睦」と認識する向きもあった。そのあいだの十九日に木下寧々は京都新城から退去していて、二十一日に茶々と秀頼は家康に書状を出していた。書状の内容は判明していないが、家康支持を表明するものであったろう。

大坂城が大坂方の本拠になっていたから、それらは寧々・茶々・秀頼が大坂方に味方したととられることを懸念してのことであろう。

家康としても、いまだ各地に敵対勢力が残存していて、その追討の必要があったから、茶々・秀頼には穏便に対応し、秀頼との主従関係を解消することはなかった。

しかし十月から、敵対した大名領の収公、合戦で戦功のあった大名に新領国・所領の充行をすすめていった。

それは実質的に、それら大名との主従関係を形成したことを意味した。以後において家康は、天下統治を独自の裁量でおこなっていくことになる。図らずも反対勢力が一斉に蜂起し、それに軍事勝利したことで、家康の覇権は一気に確立したのであった。


文/黒田基樹

『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』 (朝日新書)

黒田 基樹

2023/3/13

935円

248ページ

ISBN:

978-4022952097

実は今川家の人質ではなく厚遇されていた! 嫡男と正妻を自死に追い込んだ信康事件の真相とは? 最新史料を駆使して「天下人」の真実に迫る。通説を覆す新解釈が目白押しの刺激的な一冊。"家康論"の真打ち登場! 大河ドラマ「どうする家康」をより深く楽しむために。

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