抗うつ薬がほとんど効かず、心理療法も効果なし…48歳男性の治らない”うつ病”に「隠された事情」とは?
集英社オンライン / 2023年9月5日 9時1分
うつ病と診断されて治療を受けても、なかなかよくなっていかない場合、診断やカウンセリングに重大な見落としがあることがある。そういうケースは患者の家族関係を細かく聞き取りすることで、「隠された事情」が見えてくることも。植原亮太氏の『ルポ 虐待サバイバー』より一部を抜粋、再構成してお届けする。
虐待の4つの分類
児童虐待防止法には、虐待が4つに分類されて定義されている。ここで、その中身について確認しておく。
身体的虐待:殴る、蹴る、叩く、激しく揺さぶる、縄などで拘束する
性的虐待 :子どもへの性的行為、性行為を見せる、ポルノグラフィの被写体にする
ネグレクト: 家に閉じ込める、食事を与えない、ひどく不衛生にする、車のなかに放置する、病気やけがでも病院に連れて行かない
心理的虐待: 言葉による脅し、きょうだい間の差別、無視、子どもの目の前で暴力を振るうなど、子どもに対して著しく拒否的な態度で「心的外傷を与える言動を行うこと」
以上が、各虐待の分類と、その大まかな定義である。
大概、これらの虐待は重複しながら起きている。身体的虐待があれば、その最中は罵っていることが多いし(心理的虐待が混在している)、性的虐待であれば、その被害に遭った子どもの痛みに気づくことなく、放置され続けている(ネグレクトが混在している)。
一方で、ネグレクトと心理的虐待は、それぞれが単独で起きていることも多い。
ネグレクトは、必要な世話がなされていない様子が比較的に見えやすい。それに対して心理的虐待だけが単独で起きている場合には、周囲も、本人も、それが心理的虐待であることに気づかないことがある。結果、心は静かに蝕まれていく。その心の傷は、大人になって目立つようになる。
きっかけは、うつ病と診断されて治療が開始されるときである。ところが、抗うつ薬がほとんど効かず、心理療法も効果が見られない。典型的なうつ病とは異なり、非常に強い緊張感と焦燥感と消耗感を抱えている。しかも、それらの症状はしつこく、なかなか軽快していかない。再発を繰り返すことも多い。
このような特徴のうつ病を患う人のなかには、虐待を受けてきた人が少なくない。次に紹介するのは、その一例である。
「うつ病」男性は、本当にうつ病だったのか
伊藤正樹(いとうまさき)さん(48歳)は、うつ病と診断されている。その経過は、とても長い。
彼がうつ病と最初に診断されたのは、働き盛りだった28歳のときだった。それから40歳、45歳と、それぞれうつ病で倒れている。再発を繰り返していた。
45歳のときの3度目のうつ病をきっかけにして、生活保護を受けることになった。
長年、通院し続けていても回復していかないうつ病に対して、「治療の仕方を変えたほうがいいんじゃないか?」と担当ケースワーカーが彼に話した。彼も同じように思っていたようだ。
うつ病がなかなかよくなっていかない場合、どこかに重大な見落としがあるはずだ。
彼がやってきた初回のカウンセリングで、私は彼の症状がどこからくるものなのか、なにか見落としているものはないか、などを念頭に置きながら成育歴を慎重に聞きとった。
次第にわかってきたことは、家族関係を細かく聞きとらなければ見えてこなかっただろう「隠された事情」だった。
治らないうつ病に「隠された事情」
伊藤さんは、父親、継母、継母の連れ子である弟との4人家族だった。父親の話によると、実母は彼が1歳のころに出て行ってしまったらしい。だから、実母の顔を知らなかった。
父親は小さな町工場を経営していた。従業員の雇用のために、よく働いていた。零細企業の下請けだった。その工場の会計を担当していたのが、継母だった。
継母は、変わった人だった。
「多分、僕のことはあんまり好きじゃなかったんだと思います。血がつながっていないですし」
彼は、やんわりと、意味ありげに継母との関係になにかあったことを匂わせた。
私は、なぜ継母が彼のことを好きではないと思ったのかを聞いた。
「いつも、僕と弟には扱いの差がありました。ご飯がないとか、物を買ってもらえないとか、そういうのはないですけど。態度が違うというか、とにかく、弟のことはかわいがっていました」
継母は血のつながっていない彼と、血のつながっている弟とのあいだで、あきらかな差をしていた。たとえば、学校のテストでいい点数がとれると、弟にはご褒美で好きなおもちゃを買い与えたり、外食に連れて行くなどしていたりしたが、彼にはない。真新しいおもちゃを手にして遊ぶ弟を、彼は見ていた。
食事の時間も、食事をとる場所も、彼だけ別だった。継母と弟は、たくさんの料理を食べた。テレビを観ながら食卓を囲んでいた。その一方で彼は、ふたりが食べ終わるまで待たされていた。継母と弟の食べ残しが彼の食事だった。おかわりは禁止されていた。すべては、父親が不在のときに行われていた。
「あなたは頭が悪いから」
やがて、彼が小学校中学年くらいになると、継母から家事をやらされるようになった。「あなたは頭が悪いから、勉強が必要でしょ? まずは家のことをやりなさい」という指示だった。頭が悪いという言葉を、継母は彼に対して頻繁につかっていた。
私が思わず、「そんなことが?」「それはひどいですね」と呟いていると、それに反応した彼が、「血がつながっていないと、こういうものじゃないんですかね? 僕は、それが普通だと思っていましたけど。自分も出来が悪いんで。継母の求めるレベルに達していなかったんでしょうね」と言った。
彼が高校生のとき、父親の経営する工場の業績が悪化した。原因は、会計を担当していた継母の私的流用だった。取引先に支払うためのお金にまで手をつけてしまっていた。工場は信用をなくしてしまった。
詰問する父親に対して継母は、
「あなたの子どもには、お金がかかるの!」と、暗に原因は彼にあると訴えていた。
――父親が自殺したのは、数年後のことだった。彼が高校3年生のときだった。通夜、葬儀などの手配は、すべて彼が行った。「あなたの父親でしょ」と継母に言われたからだ。
継母から彼への心理的虐待は日常的だった。この言葉が凶器になる虐待は、子どもの心を静かに蝕んでいく。
なんとなく、漠然と、いつも「自分が悪い」という自責感が心に巣くう。慢性的な生きづらさが、緩やかにひろがっていく。目立つ虐待を受けているものとは明確に異なる、心の傷の結果である。
心理的虐待を受けている人は、そのほかの虐待を受けている人にくらべて、その生きづらさの理由が虐待の結果による心の傷だとも、受けていたものが虐待だったとも自覚しにくい。
それを虐待だと伝えても、理解していくまでに時間を要することもある。多くの場合で、本当に「自分が悪い」と思っているし、それを信じている。逆を言うと、そう思うしか心あたりがない。
そんな子どもが大人になって、精神科を受診することになったり、貧困に陥ったりして、そこでやっと虐待の傷が見つかることがある。彼も、そのうちのひとりだった。
彼の症状はうつ病かもしれないが、根っこにあるのは虐待による心の傷である。それが、治らないうつ病に「隠された事情」だった。
#4
に続く
文/植原亮太 写真/shutterstock
『ルポ虐待サバイバー』
植原 亮太
2022年11月17日発売
1,045円(税込)
新書判/256ページ
978-4-08-721240-2
田中優子氏・茂木健一郎氏推薦!
第18回開高健ノンフィクション賞で議論を呼んだ、最終候補作
生活保護支援の現場で働いていた著者は、なぜか従来の福祉支援や治療が効果を発揮しにくい人たちが存在することに気づく。
重い精神疾患、社会的孤立、治らないうつ病…。
彼ら・彼女らに接し続けた結果、明らかになったのは根底にある幼児期の虐待経験だった。
虐待によって受けた”心の傷”が、その後も被害者たちの人生を呪い続けていたのだ。
「虐待サバイバー」たちの生きづらさの背景には何があるのか。
彼ら・彼女らにとって、真の回復とは何か。
そして、我々の社会が見落としているものの正体とは?
第18回開高健ノンフィクション賞の最終選考会で議論を呼んだ衝撃のルポルタージュ、待望の新書化!
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