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なぜ「ソロ活」は流行して「ぼっち」は嫌われるのか。友だちがいないのはさみしい人なのか? 脳科学者が紐解く「さみしさの正体」とは?

集英社オンライン / 2023年9月24日 10時1分

ソロ活はトレンドワードになるのに、ぼっちはなぜか侘しさを感じたり、友だちがいないとさみしい人と思われたりしてしまうのか……。さみしさがネガディブに捉えられることについて、脳科学者・中野信子氏の著書『人は、なぜさみしさに苦しむのか?』(アスコム)より、一部抜粋・再構成してお届けする。

なぜ「ソロ活」は流行し、「ぼっち」は忌み嫌われるのか

なぜさみしいことを悪いことであるかのように捉えてしまうのか、ひとりでいるときにさみしいと感じる人と、感じない人とはなにが違うのか、その社会的な要因を探ってみたいと思います。
いま孤独が社会的な問題になる一方で、「ひとり焼肉」「ソロキャンプ」といったソロ活動がとても人気です。


コロナ禍によって友だちを誘いにくくなり、集団での活動が制限されたこともソロ活動が活発になった要因であると推測できます。しかし、ひとりで自分の時間を自由気ままに楽しむことの魅力にあらためて気づいたという人も、おそらくとても多いのだと思います。

「ソロ活動の楽しみ方」といった特集を組むメディアが増え、旅行パンフレットを見ても、「おひとり様ツアー」「おひとり様ゴルフ」など、ひとりで余暇を楽しみたいというニーズを取り込もうとする企画をよく目にするようになりました。
わたし自身ひとりで過ごすことが好きな性格なので、数日間の休暇が取れたら、ひとりでスキューバダイビングに行ってしまうようなタイプです。どちらかといえば、〝ソロ活動派″なのでしょう。

ひとむかし前は、ひとりで焼肉を食べに行ったり、ひとりでキャンプをしたりすることはあまり一般的でなかったように思います。ところがいまではすっかり市民権を得て、ポジティブなイメージさえ持たれています。

一方で、「ぼっち」という言葉には、ややネガティブなイメージがつきまといます。それは、なぜでしょうか?

ひとりになったときのさみしさは社会脳が働いているから

そこには、ひとりである状態を、「自分自身で選択したのかどうか」という点が大きく影響していると考えられます。

ソロ活の場合は、積極的にひとりになることを選んでいる意味合いが強いのですが、ぼっちは、「気づいたらそういう状況になってしまった」「本来はひとりで過ごすことを想定しておらず、むしろひとりでいたくないにもかかわらず、不本意ながらひとりでいることを強いられている」という、望ましくない状態をイメージさせるのではないかと思います。

また、自分自身に対して、ぼっちという言葉を使って卑下してしまう場合もあります。
例えば、さっきまでたくさんの友だちと騒いでいたのに、みんな帰ってしまいひとり自宅に取り残されてしまったとき。

あるいは、ふと「誰かと話したい」「誰かに会いたい」と思ったときにまわりに誰もいなかったり、連絡をしても誰も応答してくれなかったりしたときに、「ぼっちでさみしい」という感情になることもあるでしょう。

でも、人間は本来、24時間、四六時中誰かと過ごすことのほうが少ないはずで、誰しもひとりになる時間は必ずあります。そうであるにもかかわらず、「自分だけがひとりになってしまった」と感じて、ぼっちだと認識してしまう。

ひとりになってから、友だちと過ごしたり会話をしたりした楽しい時間を思い出したとき、その時間が失われただけでなく、つながりまでも失ったかのように感じてしまう。
そんな強いさみしさを感じる場合は、脳が「集団から排除されるかもしれない」「共同体を失うかもしれない」というアラートを作動させ、自身にストレスを与えているのかもしれません。脳がこうしたストレスを与えるのも、人の進化の過程では、集団や共同体から排除されないことがとても重要だったからです。

つまり、その状態は社会脳(脳の前頭葉にある、空気を読んだり相手の気持ちを推し量ったりする、他人とのコミュニケーションを司る機能)が正常に働いているともいえます。


ですが、さみしさを紛らわせるために、友だちやパートナーなどにしつこく連絡をしてしまうと、逆に疎ましく思われてしまうこともあるので気をつけたいものです。
「さっきまで過ごした楽しい時間」が終わりを迎えても、友だちや共同体を失くしたわけではありません。しばらく会えなかったとしても、大事なつながりが消えてしまったわけではありません。

「わたしはひとりぼっちなのではないか?」という不安が湧いてきたら、「つながりは簡単には消えない」「ひとりの時間も大事」というメッセージを、ぜひ自分自身に届けてあげてください。

社会が生み出す「ぼっち」へのネガティブな先入観

ぼっちには、前項で述べた「ひとりでいたくないにもかかわらず、不本意ながらひとりでいることを強いられている」ということ以外にも、ニュアンスの違った意味があります。そこに、ぼっちという言葉が嫌われる、また別の理由があるのではないかと思うことがあります。
ぼっちとは、「ひとりぼっち」を略した言葉です。
漢字で書くと「独法師」で、「宗派に属さない単独のお坊さん」のこと。由来となった言葉それ自体には、もともとはネガティブな意味はなかったと思いますが、時代を経て、組織・集団に属せないためにひとりである状態を選択せざるを得ないという、孤立させられているかのような暗さを伴うイメージがついたと考えられます。

いわば、好き好んでぼっちを選んでいるのではなく、やむを得ずぼっちでいる状態といえるでしょうか。
自分自身が「ぼっちの状態を望んでいない」から、同じようにひとりでいる人に対して、あたかも「誰にも受け入れてもらえない社会性のない人」として、無意識的に同情するような視線を向けてしまうのかもしれません。

「ぼっちはイタイ」「ぼっちはみじめ」という言葉には、ひとりでいる人はなにか問題がある人で、排除された人であり、自分はそうは思われたくないという強い拒絶の意志が組み込まれているのではないでしょうか。

ぼっちに限らず、「人付き合いが下手」もしくは「人嫌い」といった言葉は、どこか本人に落ち度があるような、ネガティブな言い回しとして使われてしまっています。
そして、一度でもそのようにみなされると、まわりの人たちはその人をあたかも触れてはならないケガレのように扱い、積極的に集団や共同体から排除するか、社会的ヒエラルキーの下層に位置づけようとします。それゆえに、ぼっちやさみしい人に対して、誰しもが受け入れがたいニュアンスを感じてしまうのでしょう。

独身でいる人に対して、つい最近まで、社会不適合者かのように捉える風潮が実際にありました。あくまでも結婚するのが当然であり、ひとりでいる人は、「結婚したくない人」というよりも、「結婚ができない人」「誰かと生活ができない人」というレッテルを貼られていたような状況です。
もっと遡れば、「独り者のままでは出世できない」といわれていた時代もあったほどです。

しかし一説によると、日本では2024年に独身者が人口の5割となり、既婚者は3割に過ぎなくなるともいわれています。もはや、高齢者よりも独身者が多い〝ソロ国家″になると想定されているのです。その理由には、自分が結婚したいと思う相手が見つからないことに加え、離婚の増加も挙げられますが、それだけでなく、「選択的な独身」も多く含まれるはずです。

自分はひとりでいるのが好きで、自らの意志で、ひとりでいることを選んでいても、社会的に、ぼっちと規定されるのは、また別の話なのです。これはつまり、ぼっちに対するネガティブな先入観が社会のなかに存在するということであり、そこには、一筋縄ではいかない根深さが含まれているということでもあるのです。

「友だちがいないのは悪」という刷り込み

ぼっちをもっとも強く意識させられ、生きづらさを感じさせられる場所が、学校ではないでしょうか。特にそう思わせられるのは、小学校・中学校時代かもしれません。

なぜなら、親や先生たちのぼっちへの見方が固定されていることに加え、人の流動性が低く、自分が所属している場所を移動・変更することが非常に困難な環境だからです。
学校生活のなかでは、友だちが多いことがいいとされ、友だちがいないことはまるで悪いように扱われる場合が多いかと思います。

自宅でも学校でも、大人たちから「友だちと仲良くしなさい」「友だちをたくさんつくりましょう」といわれ、事あるごとに「友だちできた?」「友だちと仲良くできている?」「いま一番仲のいい友だちは誰?」といった質問を何度も受けて育ちます。

こうした「友だちありき」の一問一答をくり返すことで、多くの子どもたちの脳内にそれが刷り込まれ、「友だちがいないとダメなのだ」「友だちがいないと親や先生を不安にさせるのだ」と思い込むようになります。
高学年になり、ひとりで過ごすことが平気になっても、ひとりで本を静かに読んだり、ひとりでお弁当を食べたりしているだけで、まわりから「友だちがいないのは、みんなから嫌われているからでは」と疑われてしまうこともあります。

集団で活動し、共同作業のなかで協力し合って問題を解決することは社会生活に必要なことであり、学校生活をとおして身につけていくべきスキルだとは思います。

しかし、友だちをたくさんつくることは学校生活の本来の目的なのでしょうか? これは、議論の余地があるかもしれません。

学校生活の中での無意識に刷り込まれる

社会人になってからは、友だちという存在をそれほど強く意識させられることは少ないでしょうが、学校生活のなかでは、友だちの有無が突然クローズアップされることがあります。とても面倒な瞬間ですよね。

例えばそれは、学校行事や体育の時間、また具合の悪くなったときなどであることでしょう。先生から、「ふたり一組でペアを組みなさい」「好きな人同士でグループになりなさい」「保健室(もしくは自宅)にいる〇〇さんに、一番仲のいい人がプリントや荷物を持っていってあげて」などと指示されるシーンがあるでしょう。そんなとき、わたしがそうだったように「仲のいい友だちがいない」場合は、ちょっと面倒なことになります。

まあ、大して困りはしないのですが、先生が荷物やプリントを保健室に届けてくれたり、「余った人同士でペアを組みなさい」という指示に従ったりするという解決策がとられることになり、やや気まずい。

こうした出来事が繰り返されると、「友だちのいない人=人に迷惑をかけるやつ」「余りものはやっかい者だ」とみられてしまうというわけです。
学校は、友だちという社会関係資本の多寡に重きを置いてヒエラルキーをつけようとする、非常にアンフェアな環境と考えることもできます。

学校生活において無意識のうちにそのような価値観が刷り込まれ、それが固定されてしまった人がいるのなら、とても残念なことです。学校は、数多く存在する集団のうちのたったひとつでしかなく、そこでの基準が全世界に通用する基準ではないからです。

『人は、なぜさみしさに苦しむのか?』(アスコム)

中野 信子

2023年8月31日

1,397円(税込)

新書 ‏ : ‎ 284ページ

ISBN:

4776212692

さみしさは心の弱さではない。生き延びるための本能-。
人類は、なぜ「さみしい」という感情を持つのか?
あなたの知らないあなたの心を脳科学が解き明かす!

「ひとりでいるのがつらい」「誰といても満たされない」
集団をつくり、社会生活を営むわたしたち人類のなかで、さみしい・孤独だと一度たりとも感じたことがない人は、おそらくいないのではないでしょうか。
集団をつくる生物は、孤立すればより危険が増すため、さみしさを感じる機能をデフォルトで備えているはずだからです。さみしさは人類が生き延びるための本能であり、心の弱さではありません。それなのになぜ、私たちは、「さみしいのは、よくないことだ」「ひとりぼっちは、みじめだ」などと考えてしまうのでしょうか。
そこには、さみしさという感情を捉える際に起こりがちな、さまざまな思い込みや刷り込み、偏見が隠れています。
本書では、脳科学的、生物学的な視点から、なぜ、さみしいという感情が生じるのかという問いに焦点をあてていきます。また、なぜ、さみしいという感情をネガティブなものと捉えてしまうのか、その科学的要因、社会的要因からも考察していきます。
すべての感情には、意味があるはずです。であれば、さみしいという感情が生じたときにも、無理に抑え付けたり、なかったことにしたりするのではなく、
「そこにはどんな意味があるのか」を考え、理解していくほうが、この感情をスムーズに扱えるのではないでしょうか。さみしさの扱い方に慣れ、その生じる仕組みを理解することで、さみしさを必要以上におそれることなく、振り回されることもなく、上手に付き合いながら、長い人生をより豊かに、穏やかな気持ちで過ごしていくことができるようになるはずです。

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