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公営競技と暴力団…かつて社会問題となった八百長レースの実態とノミ屋の興隆から衰退にいたるまで

集英社オンライン / 2023年10月8日 12時1分

公営競技とは、地方自治体などが主催する競馬・競輪・オートレース・ボートレースの四競技のことを指す。競技名を聞くと「暴力団」や「反社」などを想起する人もいるかもしれない。いったいそのイメージはどこから来たのか、またその実情はどうなのかに迫った。『公営競技史 競馬・競輪・オートレース・ボートレース』 (角川新書) より、一部抜粋、再構成してお届けする。

#2

映画『仁義なき戦い』と公営競技

年輩の人たちのなかには競輪や競馬にいかがわしいイメージをもつ人もいるだろう。

主演・菅原文太、監督・深作欣二の大ヒット映画『仁義なき戦い』が封切られたのは1973年1月だ。飯干晃一原作のノンフィクションの映画化で実録ヤクザ映画の代表作である。



第一作のヒットでシリーズ化され、74年の「完結編」まで5作が公開された。このシリーズには二つの公営競技場が登場する。

競馬場や競輪場が映画やドラマの背景に登場することは珍しくないが、『仁義なき戦い』で公営競技場は登場人物の活動に直接関わっている。

ひとつは広島競輪場、もうひとつはボートレース宮島(当時の名称は宮島競艇場)だ。どちらも映画の中ではいずれも山守組組長山守義雄 の「正業」の場だ。

映画内で山守組が警備を請け負っている競輪場で、大友組の大友勝利が嫌がらせにダイナマイトを爆発させる。また山守は競艇の施設会社の社長で、抗争中の子分たちが親分の山守に「競艇の社長をやってカネを持ってるのだから抗争資金を出せ」と迫るシーンがある。

金子信雄演じる山守義雄親分のモデルは山村辰雄という実在の人物だ。

山村は54年に設立された施設会社の宮島競艇株式会社の取締役に就任している。宮島競艇は57年に社名を大栄産業に変更し、59年には元宮島町長の梅林義一社長ら設立時の主要役員が退陣し山村が社長になっている。

64年2月、脱税容疑で大栄産業に広島県警の捜査がはいり山村は7月に起訴される。ちょうど同じ頃、警察は暴力団の壊滅をめざし第一次頂上作戦に乗り出している。

山村組が実際に競輪場の警備を請け負っていたかどうかは不明だが、騒擾事件が頻発する50年代から60年代前半、騒ぎをしかける側も収める側も、そうした人たちが多く関与していた。

開催地の場内整理は地元の顔役が取り仕切るのが当然の時代だったから、ダイナマイト事件はともかく山村組が場内警備を請け負っていたことは十分考えられる。

「反社」とは社会的位置づけが全く異なる「必要悪」の存在

そもそも当時の地域社会では、顔役とか親分衆とよばれる人たちは公然と社会の一翼を担っており、ある種の「必要悪」としてその存在が社会的に認知されていた。

現在のいわゆる「反社」とは社会的位置づけが全く異なっているのだ。利権のあるところには必ずそうした人々が関わっていた。彼らからすれば、公営競技は「バクチ」で「興行」だ。そもそも国や自治体が自分たちの「縄張り」に食い込んできたという感覚だったかもしれない。

『平成元年版警察白書』によると、「暴力団」という言葉が社会に定着したのは昭和30年代だという。第一次頂上作戦の頃だ。

第二次世界大戦前から存在する博徒や的(テキ)屋と、戦後の混乱期に発生した愚連隊を出発点とする組織の総称を白書では暴力団としている。暴力団という言葉には「堅気の」市民社会との切断が意図されている。暴力団の資金源には合法的なものもあれば非合法的なものもあり、合法的な企業活動を非合法的に牛耳ることもある。

公営競技についていえば、ノミ行為、コーチ屋(強引に客に予想を売りつける商売)、八百長レースなどは非合法の活動だし、予想屋などは合法な活動だ。合法な活動であっても、縄張りを主張し、ショバ代などの利権を手中に収めることもある。

日本中央競馬会は早くから場内の予想屋(場立ち予想屋)を締め出していた(ただし70年代後半には競馬場の外で営業していた)が、他の公営競技では現在も場立ち予想屋は存在する。

さすがに現在の場立ち予想屋は暴力団を含むいわゆる「反社」との関係はない。

中央競馬以外の主催・施行者は地元自治体だ。地域社会に深く根付いた暴力団と全く無縁でいられるわけはない。

とはいえ、暴力団に対する社会の目は厳しくなる。競技を円滑に運営するために地元の親分衆とは良好な関係はつくっておきたいが、行政が表だって彼らと接触することはできない。そこで民間組織を立ち上げ対応させるということもあった。

八百長レースとプロ野球「黒い霧事件」

八百長レースとノミ行為は明確な犯罪行為だ。競輪では、自転車競技法第六〇条で、選手が賄賂をもらって、不正な行為をおこなったり、逆に、当然おこなうべき行為をおこなわないと五年以下の懲役と規定されている。他の公営競技法でも同様の趣旨の条文と罰則が規定されている。

公営競技で違法な八百長とされるのは、本人(騎手、選手など)が他から利益を与えられることの見返りにレースに関する不正をおこなうことだ。

騎手や選手は競走開催期間中、外部との接触が極力制限される。選手宿舎などでは携帯電話なども使えない。そうした環境に慣れるため、現在の競輪選手養成所では入所時に携帯電話などは取り上げられ、休日の外出時などにしか返してもらえない。

入所した選手候補生は、入所期間中は所内の公衆電話で外部と通信する。世の中からすっかり消えたと思っていたテレホンカードがここではまだ生きている。

公正確保は公営競技の生命線だ。日本中央競馬会はアメリカの競馬制度にならい、警察OBなどを雇用した「競馬保安協会」を設立しているし、競輪でも頻発する不正に対応するため、1954年に当時の自転車振興会連合会審査部で警察OBを専門調査員として雇用した。

日自振(日本自転車振興会)で長年不正競走の撲滅にあたった源城恒人による『サインの報酬』をみると、八百長レースは暴力団の資金稼ぎの組織的犯行というよりは構成員の小遣い稼ぎ的なものだった。

摘発された八百長レースの実行犯には暴力団員が多いが、これは警察が暴力団対策として目を光らせていたこともあるだろう。

公営競技の不正レースが他に波及し、大きな社会問題となったのが、1968年のオートレースにおける八百長レースの発覚だ。

69年9月、警視庁捜査四課が錦政会(現在の指定暴力団・稲川会の前身)幹部と5人のオートレース選手を逮捕する。この事件の取り調べの過程で八百長グループにはプロ野球選手が多数関係していることが発覚し、野球賭博の問題と絡み、オートレース選手、プロ野球選手、暴力団関係者など30名を超える逮捕者を出す大きな事件となった。

暴力団員とプロ野球選手との交流が公になり、プロ野球の「黒い霧事件」として国会でも取り上げられる大事件となった。この事件では当時西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)のエースだった池永正明もプロ野球から永久追放された。池永は終始八百長をおこなっていないと主張しており、2005年になってようやく処分が解除され復権した。

日動振は、この事件を契機に、警察出身者を調査員とする調査室を発足させた。

八百長レースは競技の信頼性を損なう行為だが、公営競技に限らずあらゆるスポーツで選手の不正はおこりうる。実際のところ、八百長事件が発覚しても、公営競技の売上が著しく低下することはなかった。

だが、公営競技のイメージを著しく損なうことは確かだし、かつてはそうしたことが廃止論に火を付ける可能性もあった。残念なことだが、八百長事件は現在もなお発生し新聞沙汰になることがある。

ノミ屋の興隆と衰退

八百長レースが発覚するきっかけのひとつは不自然な投票券の売れ方だ。ある発売所で特定の買い目に不自然に大きな買いが入ることで発覚する(前掲『サインの報酬』)。

語弊のある言い方かもしれないが、八百長レースでも馬券や車券の売上は主催者・施行者にはいる。そうした意味で、八百長レースは競技のイメージを損ない、その発生抑制にコストを要するから大局的にみれば許しがたい行為だが、短期的・局所的には売上に直接響くものではない。

だが、ノミ行為は主催者・施行者の得るべき利益を侵害すると同時に、暴力団の組織的な資金獲得手段となってきた。

歴年の警察白書の暴力団のノミ行為に関する記述をみると、1975年版では、公営競技の大衆化を背景にノミ行為が年々増加しているとある。

74年6月、札幌西署は賭け金数億円を動かしていたノミ屋を逮捕した。このノミ屋は元々スナック経営者らが始めたもので、口コミで徐々に顧客が増え、当初活動の拠点だった自宅マンションが手狭になり、別のマンションに専用事務所を構えるまでになっていたという(北海タイムス社『北海道の競馬』)。

同書によると、北海道警察の74年のノミ行為検挙者数は112人でその7割が暴力団員だとしている。

なかには、競馬場の指定席に招待し、その場でノミ行為をおこない摘発された事例さえある。客には弁当やビールが振る舞われ、さらに混雑する窓口に行かなくてもいい。ノミ行為は違法だが主催・施行者以外の「被害者」のいない犯罪だ。客も罪の意識が薄かった。

吉国意見書で場外発売所設置の容認や電話投票の活用に言及したのにはこうした背景がある。札幌のススキノは日本中央競馬会がまっさきに場外発売所を開設した場所のひとつだ。

75年には暴力団の壊滅を目指す警察の第三次頂上作戦がはじまっていた。

中央競馬の場外発売所の開設が続くなか、ノミ行為の摘発件数、検挙者数は78年の2703件、9827人(うち暴力団員5709人)をピークに減少に転じる。

その理由は、78年から79年にかけておこなわれた山口組と稲川会に対する集中取り締まりの影響もあるだろうが、ノミ屋の最大のマーケットだった中央競馬の場外発売が拡がったことも大きいだろう。

『八四年版警察白書』には「電話の自動転送装置や自動車電話等を利用してノミ受け場所を隠ぺいするなど悪質化、巧妙化している」とあり、ノミ屋もハイテク化していることがわかる。

山口組の跡目相続をめぐり84年から始まった山口組と一和会の抗争事件などを契機に、全国的に暴力団の事務所や暴力団の諸行事が地域から締め出されるようになる。全国すべての公営競技場で暴力団員の入場が拒否される。

92年には暴対法が施行され、バブル崩壊以降には、公営競技の売上全体が落ち、マーケット自体も縮小する。さらに20世紀末からは電話投票・インターネット投票が普及し、ノミ屋のマーケットはさらに縮小する。

ノミ行為の摘発件数は減少の一途を辿たどり、2016年度には摘発件数は8件と一桁になり、21年度には摘発件数はついにゼロとなった。摘発件数ゼロということと、ノミ行為がなくなったということは同義ではないが、暴力団そのものも衰退し、資金源としてのノミ行為もほとんど意味をなさなくなったということだろう。

文/古林英一

『公営競技史 競馬・競輪・オートレース・ボートレース』 (角川新書)

古林 英一 (著)

2023/8/10

¥1,100

320ページ

ISBN:

978-4040824697

「公害」から「エンタメ」へ 7兆5000億円の巨大市場へいたる興隆史

世界に類をみない独自のギャンブル産業はいかに生まれ、存続してきたのか。戦後、復興と地方財政の健全化を目的に公営競技は誕生した。高度経済成長期やバブル期には爆発的に売上が増大するも、さまざまな社会問題を引き起こし、幾度も危機を迎える。さらに低迷期を経たが、7兆5000億円市場に再生した。各競技の前史からV字回復の要因、今後の課題までを、地域経済の関わりから研究してきた第一人者が分析する。

【目次】
序章 活況に沸く公営競技界
第一章 夜明け前――競馬、自転車、オートバイの誕生 一八六二~一九四五年
第二章 公営競技の誕生――戦後の混沌で 一九四五~五五年
第三章 「戦後」からの脱却――騒擾事件と存廃問題 一九五五~六二年
第四章 高度成長期の膨張と桎梏――「ギャンブル公害」の時代 一九六二~七四年
第五章 低成長からバブルへ――「公害」からの脱却 一九七四~九一年
第六章 バブル崩壊後の縮小と拡張――売上減から過去最大の活況へ 一九九一年~
終章 公営競技の明日
あとがき
参考・引用文献一覧

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