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東京都区部の17.5倍以上、世界一の人口密度を誇った「軍艦島」の今は? 日本最古の鉄筋コンクリート高層アパートは築107年。海底炭坑の歴史を伝える世界遺産

集英社オンライン / 2023年10月3日 18時1分

長崎県の端島、通称「軍艦島」は2015年に世界文化遺産登録された。現在は整備された見学通路に限り、観光客も上陸し見学できるようになっている。今回は明治から昭和にかけ、海底炭坑で栄えた島の現在の様子を、ツアーに参加した筆者がその歴史とともにお伝えする。

日本最古の鉄筋コンクリート高層アパートの「余命」はあと数年

明治から昭和にかけ、海底炭坑の島として栄えた「軍艦島」は1974年の閉山後に無人島となった。当時の坑夫や家族が住んだ痕跡はそのまま残されており、日本最古の鉄筋コンクリート高層アパート「30号棟」もある。しかし、このアパートは崩落が進んでおり、専門家の予測によれば、階全体崩落までの「余命」はあと数年とも言われている。


坑内のトロッコ人車に乗り作業現場へ向かう作業員たち

閉山後は立ち入りが禁止されており、現在は軍艦島への上陸は、数社が運営するいずれかの船でのツアーに参加する必要がある。

目指すは長崎市沖合の小さな島。ツアーを事前予約し、いざ出航できても、当日の天候や波の高さにより、上陸できるかどうかはわからない。波が高くて接岸が危険と判断されたら周囲を船で回るだけ、もっと海上が荒れれば、欠航になることもある。

果たして当日、上陸できるのだろうか。しかも、あるネット情報だと「船酔い必至」。そして島には屋根もトイレもないらしい……。だが、さまざまな私の心配は杞憂に終わり、有難くも凪の日に上陸できた。現地レポートの前に、まずは軍艦島の歴史を紹介しておこう。

名前の由来は、日本海軍の戦艦「土佐」

長崎県の端島が「軍艦島」と呼ばれるようになったのは、大正期。

元々は大きな岩礁と周囲に点在する瀬から成る小さな島だったが、明治から昭和にかけて7回の埋め立て工事で南北約480m、東西約160mに拡張された。

その姿が日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして、大正期に新聞が「軍艦島」と報じ、以来島外の人からその通称で呼ばれるようになったらしい。

1890(明治23)年に三菱が買収、本格的な石炭採掘が始まり、島は著しい発展をとげていく。

1974年の閉山まで行われ、日本一の品質を誇ったといわれる石炭の採掘作業は海面下1000m以上の地点にまで及んだ。坑内は勾配がきつく、気温30℃湿度95%という悪条件と、可燃性ガスの噴出など常に危険と隣り合わせの過酷な環境だった。

軍艦島の石炭は日本一の品質を誇った

1960年代には人口約5300人に。
東京23区の17.5倍以上、世界一の人口密度だった

周囲約1200mというこの小さな島で採炭を進めるため、大正5(1916)年に日本初の鉄筋コンクリート高層アパート30号棟が建造されて以来、昭和30年代にかけ、坑員と家族のための住宅や学校が建て続けられた。

1960年代には人口約5300人、当時の東京都区部の17.5倍以上、世界一の人口密度に達した。

57号棟の間から端島神社へ通じる長くて複雑な階段は、途中で息切れすることから「地獄段」と呼ばれ、端島中学校のマラソンコースにもなっていた

人口が激増したのは終戦後で、小さな島の暮らしは賑わいを見せてゆく。住宅はもちろん、学校や病院、商店のほか、映画館やパチンコホールなど娯楽施設も揃っていた。

大人たちは今日と同様、飲酒、パチンコ、麻雀、ビリヤード、囲碁、将棋、釣り、ショッピングなどを楽しんだ。また、毎年祭りや運動会、文化祭が開かれ、島の住民は一つの家族のようだったという。

買い物にも便利で、生活必需品に困ることはなかった。「端島銀座」には青空市場が開き、仮設店舗が並び、行き交う多くの人で賑わった。

青空市場も立つ、島いちばんの目抜き通り「端島銀座」

1958年当時、坑員の給料は高く、各家庭のテレビ所有率はほぼ100%で、それは日本一(全国のテレビ普及率の平均は10%)だった。

建物群が朽ちゆくまま立ち並ぶ、物言わぬ無人島

さて、ここからは実際の上陸レポートをお届けしたい。

上陸ツアーを実施する5社の中で私が選んだのは「軍艦島コンシェルジュ」というツアーだ。
島内の見学コースは限られた場所のみで、安全上の観点から炭坑内はもちろん、建物内なども立ち入り禁止。

この「軍艦島コンシェルジュ」は、その立ち入り禁止エリア内の様子をVRやスクリーンで紹介する「軍艦島デジタルミュージアム」の見学とセットになっている。今では見られない内部や当時の歴史、生活を乗船前後に予習復習できるメリットがあるのだ。

実際私も乗船前に、ミュージアムで当時の映像などを見てから軍艦島に上陸したことで、島が住民で賑わった海上都市の時代にタイムスリップしたような感覚のまま、ツアーを楽しむことができた。

クルーズの乗船場所は、大浦天主堂から坂を下りた大浦海岸通りに面する常盤ターミナル。出航すると、左手にグラバー園、右手に長崎三菱造船所などを眺めながら、船は長崎港内を進んでいく。船内ではガイドさんが、映像とともに歴史や当時の解説をしてくれる。

出航から35分程経った頃、長崎港から南西18kmの沖合に、いよいよ軍艦島が見えてきた。100年以上前から人が暮らした建物群が朽ちゆくまま立ち並ぶ、物言わぬ無人島の姿に胸を打たれる。

クルーズ中、長崎港南西18キロの沖合に見えてきた軍艦島(筆者撮影)

ここから船は、島を周遊してくれる。上陸する東側には、右端から端島病院・隔離病棟、島最大のマンモスアパート65号棟、端島小中学校などが、中ほど高台には端島神社に残った祠が見える。

そして船はこの周遊でのみ見られる、高層住宅群が密集する西側へ。右手には崩落が進み、骨組みが見えつつある最古の30号棟、その左手に防潮壁の役割も果たしていた31号棟、神社の祠の手前には、屋上に青空農園を作り、島に緑をもたらした18号棟、19号棟などが並ぶ。

クルーズの軍艦島周遊だけで見られる、西側の風景(筆写撮影)

周遊を終えたら、東側のドルフィン桟橋からいよいよ上陸だ。

崩落し続ける最古のアパート30号棟など、まるで古代遺跡

元島民用トンネルを抜け、見学通路(全長220m)を通って第1見学所へ。

石炭を運んでいたベルトコンベアの支柱や、高給職員住宅3号棟が残るこのエリアの様子はまるで、古代遺跡を見るかのようだ。

第1見学所。右手には石炭を運んでいたベルトコンベアの支柱だけが残り、左手上方からは高給職員住宅3号棟が見下ろしている(筆写撮影)

次の第2見学所は、坑員が働いていたというエリア中心部。赤いレンガの総合事務所跡、地下606m下まで降りるケージへ向かう階段などが見られる。ここではガイドさんが、命がけで働いていた当時の炭坑マンの様子や、悲しい事故で命を落とした歴史を詳しく話してくれる。

第2見学所での見学風景。左手赤レンガの壁の裏手が総合事務所、右手には地下606m下まで降りるケージへ向かう階段などが見える

上陸ツアー最後の第3見学所は、最古の鉄筋コンクリート高層アパート30号棟が見える、居住区見学エリアだ。建物に近づくことはできないが、100年以上立ち続け、寿命が近いと言われる30号棟に目を凝らせば、どこかに行き交う大人や子どもたちの人影が見えるのではないかという錯覚にとらわれる。

第3見学所では、崩落し続ける最古のアパート30号棟が見られる

島が一つの家族のように、賑やかで充実した暮らしだったと伝えられる高度成長期の一面だけでなく、外国人をはじめ、過酷な条件で働いたり、繰り返す事故によって命を落としたりした、主に戦前・戦中の坑員たちの苦労あってこその日本の近代化だったのだと、心に刻む。

無人島となったかつての海上都市の周辺海域は今では水が澄み、釣り人たちにとっては魚の宝庫だ。

興味と機会がある方はツアーに参加し、かつて71もの建物が立ち、5000人を超える人が暮らした軍艦島に降り立ってみて欲しい。そこに確かにあった人々の息づかいを感じるのも、荒々しい自然を目の当たりにするのも、日本の近代化とは何だったのかを考えてみるのもよし。あなたの想像の翼はここできっと、広がることだろう。

取材・文/中島早苗 取材協力・画像提供/軍艦島コンシェルジュ https://www.gunkanjima-concierge.com/

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