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睡眠中の身体を這い回ったり、半開きの口の中を覗き込むかもしれない? 人類に忌み嫌われているゴギブリに感じる恐怖の正体とは

集英社オンライン / 2023年10月21日 17時1分

集合体恐怖症や、先端恐怖症といった生理的嫌悪から、死への恐怖などあらゆる「恐怖」の正体を解き明かした春日武彦氏の書籍『恐怖の正体――トラウマ・恐怖症からホラーまで』。その中から、まさに恐怖の象徴とも言えるゴキブリについて記された章を一部抜粋・編集して紹介する。おそらく「彼」を愛する人はこの世にはほぼいないだろう。人類に忌み嫌われているゴギブリの恐怖の正体とは。

ゴキブリの件

ゴキブリは不快害虫と呼ばれるくらいだから、忌み嫌う人は多い。いや、嫌いでない人なんて、ゴキブリの生態を研究する学者でもない限りかなり稀だろう。

たとえ腕っ節の強そうな男性であろうと、夜中に部屋の電気を点けたら床にゴキブリが1匹いた、といったシチュエーションでたちまち恐怖に駆られる人が結構いるようだ。



さすがに悲鳴は上げないものの、息を呑んだまま凍り付くらしい。わたしはそこまでの反応には至らないが、確かに怖い。その怖さは決して表層的なものではなく、それこそ立方体の幾何学的空間の中でわたしと1匹のゴキブリとが対峙しているというまことに抽象的な状況から生み出される何か根源的なもののように直感される。

だから翌日になってわたしはしばしば(本気になって)思い返すのである、「あの感情体験はいったいどのようなことだったのだろう」と。

床の上のゴキブリは、ちっぽけであるにもかかわらず、真っ白いシャツに跳ねた1滴の黒い飛沫のような強いマイナスイメージを伴った存在感を与えてくる。目にした途端、どこか取り返しのつかない気分がわたしの中に生じ、図々しい闖入者といった腹立ちもまた生ずる。

ゴキブリなんて、所詮はゴミを漁るような汚らしく低劣な生き物である。そのくせ、3億年前から地球上に棲息している。なりふり構わぬ生命力を携えた昆虫の姿は、文明という病に感染しその結果として脆弱な存在と化してしまった当方を嘲笑うかのようでもある。

ゴキブリと遭遇した刹那、わたしも向こうも互いに動きは止まる。でもそれはほんの一瞬で、たちまちゴキブリはこそこそ逃げようとする。一直線に視界から立ち去ろうとするなら、まだ理解は可能だ。しかし奴は真っ直ぐに逃げない。あちこちデタラメに高速で這い回り、それはパニックを起こしているようにも、さもなければこちらを挑発しているようにも映る。

さすがにこちらへ向かってかさこそと走って来られると身が竦む。奴は、ときには凄いスピードで壁を這い上りさえする。下手をしたら天井まで走り登り、わたしの頭の上や、シャツの後ろ襟と背中の空隙へ狙い定めたように落下してくる危険すらありそうだ。これは想像しただけで顔色が変わる。

いったいゴキブリは当方に敵意や悪意を持っているのか、逆にこちらを恐れ自暴自棄な動きをしているだけなのか、それすらも判然としないのが薄気味悪い。結局、奴の動きはまったく予想がつかない。

死の観念ないしは死を恐れる感覚が欠落している

目の前に姿を現したゴキブリは、ひとつのメッセージを携えている。お前の住む部屋は、もはや安全やプライバシーの確保された心地好い空間ではない、既にゴキブリが出入りしたり、それのみならずどこか見えない隙間でゴキブリが増殖したりするような不衛生で無防備な空間に堕してしまったのだ、と。

どれだけのゴキブリが隠れ潜んでいるのか、それは決して確認ができない。電気を消して眠りに就いた途端、ゴキブリは再び姿を現すだろう。おそらく複数で。睡眠中のわたしの身体を這い回ったり、半開きの口の中を覗き込むかもしれない。

床も壁も(ひょっとしたら天井も)家具も蒲団も食器も、ことごとく不潔な奴らに汚染されている可能性が高い。いつの間にかわたしの住処は事実上乗っ取られ、清潔で安全な感覚を剥奪されてしまった。

人間は肉体がタマシイを包み込む構造になっていて、さらに住居が第2の皮膚となって日々を暮らしている。でも今や第2の皮膚の下をゴキブリが右往左往している。それは「おぞましい」としか形容の言葉がない状態だ。その「おぞましさ」がみるみるドミノ倒しのように広がり、遂にわたしは恐怖に捕らえられる。

タマシイを包む「層」の一部へ、生きたゴキブリが混入してしまったという不快感、いや絶望感はわたしを打ちのめす。その感触は、あたかも世界が変容して自分がまったく油断のならないそれこそ太古のジャングルへ放り込まれたようなものだろう。

しかもわたしは、ゴキブリにはおそらく死の観念ないしは死を恐れる感覚が欠落していると信じている(逃げるのは、ただの反射的振る舞いでしかない)。ああいった生き物は旺盛な繁殖力を持ち、数で勝負といった性質がある。

個々別々でなく、無数の集合によって1つの生命体を成しているようなところがある。したがって自分が死んでもそんなことには頓着しない、自身の代替はいくらでもある。そういった意味では不老不死に近いニュアンスがあり、そんな死生不知かつ圧倒的な生命力を前にしたわたしは自分が無力のカタマリでしかないことを思い知らされる。これが恐怖でなくて何であろう。

粘り気のある時間

わたしが夜中の室内でゴキブリと出会ったとき、時間の流れは一瞬ストップし、それからしばらくは非常にゆっくりと時間が流れ、自分が恐怖に囚われていたと明瞭に気づいた時点でやっと時間は再び通常の速度で流れ始めた。記憶を辿ると、そうとしか思えない。

時間の流れが減速しているとき、わたしはゴキブリの姿をしげしげと眺め、それどころか詳細に観察していた。たまらなく不快であるにもかかわらず。かつて海岸で見掛けたフナムシも相当に気持ちが悪かったが、あれはゴキブリと近縁の生物なのだろうか。

後ろ向きにゴキブリが進むところを見たことがないが、それは構造的に不可能だからなのだろうか。雄と雌とを見分ける外観的な特徴はあるのだろうか。などと、取り留めのないことをあれこれ考えていた。同時に、床の幾何学模様をあらためて認識したり、視界の隅に映っているダイニングテーブルの脚が今まで漠然と思っていたよりも細いことに意外性を感じていたりもした。そんな調子で思考や感覚がへんに微視的になっていた刹那、ゴキブリが不意に動いてなおさら驚愕に圧倒されたのだった。

恐怖に心を奪われているとき(だがその最中には、かえって恐怖は感じない)、それまではさらさらと流れていた時間は急に粘り気を増し、そのため時間はゆっくりと濃密に流れ始めるような気がしてならない。

T・ジェファーソン・パーカーの『レッド・ボイス』といういささかアバンギャルドな警察小説がある(七搦理美子訳、早川書房)。この本の冒頭で、サンディエゴ市警の刑事ロビー・ブラウンローは火事の起きたホテルの6階の窓から投げ出され、墜落をする。落ちていくロビーの様子を一部引用してみる。


〈落下の速度がしだいに増していった。これほどのスピードを肌で感じるのは生まれて初めてだった。ほかのどんなものにもたとえようがなかった。速度がさらに増すと、仰向けのまま両腕を広げて宙をつかもうとした。灰色の空をバックにホテルの屋上が視界に入り、落下の勢いで耳たぶが上向きに曲がるのがわかった。

今やこの命は自分よりずっと大きな何かの手に委ねられたことを悟った――人の命が何かの手に委ねられているとすればだが。(中略)上空の雲がぐんぐん遠ざかるのを見ながら、あとどれくらいで地面に達するか計算しようとした。秒速16フィートとすればどれくらい?〉


いやに悠長にロビー刑事はあれこれ感じたり考えている。あと数秒で地面に叩きつけられてしまうというのに(実は1階の店舗の赤い日除けでワンバウンドして、命は助かるのだが)。落下の勢いで耳たぶが上向きに曲がるのをはっきりと意識するあたりは、べつに高所から墜落した体験など当方にはないものの、いかにもありそうなエピソードの気がする。

いずれにせよ恐怖の渦中にあるべき場面で、ロビー・ブラウンロー刑事の主観的時間は落下速度と反比例するかのように減速している。しかも恐怖の感覚そのものは麻痺しているかのようだ。そのように描写されて小説はリアリティーを獲得している。

フィクションだけでは信憑性に欠けるので、スイスの地質学者アルベルト・ハイムが若い頃に登山で落下した体験を紹介しておく。著名な精神病理学者であった島崎敏樹(1912~1975)の『心で見る世界』(岩波新書)に載っていたハイムの回想である。


〈……墜落のあいだに、考えが洪水のようにはじまった。5秒か10秒ぐらいの間に私が考えたこと感じたことは、50分100分かかっても話せまい。まずはじめに、私は自分の運命のさまざまの可能性私が墜落した結果、あとに遺された者がどうなるかを概観した。

それから少々離れた距離にある舞台の上で演じているように、私の過去の全生涯がたくさんの場面となって演じられるのが見えた。私は自分がそこで主役の役をしているのを見た。何もかも神々しい光で輝くようで、あらゆるものが美しく、苦痛も不安も苦悩もなかった。

崇高な青い空が、ばら色や淡い紫の雲をうかべてだんだんと私をとりまいた。私は苦しみもなくおだやかにその空のなかへうかび上っていった。客観的考察と思考と主観的感情が同時に相並んで進んでいった。それから私はぶつかる鈍い音をきき、これで墜落が終った。〉


なお、サンディエゴ市警の刑事においても、アルベルト・ハイムと同様のパノラマ体験があったことを作者のT・ジェファーソン・パーカーは後段でそつなく書き添えている。

回想によって反芻される恐怖

落下とは異なるが、ここで当方の「粘り気のある時間」に関する経験をひとつ披露したい。20年近く前に民間のFM放送に出演したことがある。ウィークデイの昼間であった。司会をしている若い男がわたしの著書に絡めて精神医学に関する話題を振ってくるのだが、どことなく人を馬鹿にしているかのような態度が伝わってくる。質問内容もゲスでくだらない。

外見も喋りもまことに軽薄な男で、当方としては自著の宣伝になるだろうといった下心があったからとはいえ、こんな人物と顔を突き合わせているのが心の底から情けなく、不愉快になってきた。

番組が終わりかけてきたが、まだスタジオから出て行くわけにはいかない。でも、もう嫌だ。はるばる渋谷まで来たのだから、せめて帰る途中であそこのレコード屋に寄って行こうかなどと頭の中で算段を始めていた。とにかくこの場から立ち去りたかったのだ。

ところがその軽薄男がいきなりわたしに向かって言うのである。

「では最後のまとめを、本日のゲストである春日さんにお願いしましょう!」

まさに不意打ちである。もう自分は発言せずに終わると思っていたのに。しかも、既に帰途での買い物を考えていた最中なのである。突然には思考を切り替えられない。俗に言う「頭の中が真っ白」になった。絶句したまま言葉が浮かんでこない。おまけに今は生放送の真っ最中なのである。

絶句した状態というものは、瞬時を置かず周囲はそれを察知するものらしい。司会の男もアシスタントの女性アナウンサーもプロデューサーも、全員の表情がぎょっとなり、たちまちのうちに身を強張らせ緊張していくのがはっきりと分かった。まさに手に取るように分かる。

スタジオ内の空気は異様に澄み渡って透明度が増し、精密で高価そうな放送機材が細かなディテールまでくっきりと見える。すべてが他人事のように感じられ、高速度撮影の画面を眺めているかのように感知された。

おそらくせいぜい1、2秒しか経過していない筈だ。しかし10秒以上には感じられた。そしてぎりぎりのタイミングで、自分でも意識せずに「最後のまとめ」が口からすらすらと出てきた。危ないところであった。まさに間一髪としか表現しようがない。

絶句した瞬間、わたしは「ヤバい!」と思い血の気が引いた。次の瞬間からはもはや恐怖と呼んで差し支えない感情が急速に心を覆い尽くしつつあった。だが同時にわたしの五感は研ぎ澄まされ、恐怖の感覚は麻痺し、それこそ「落下の勢いで耳たぶが上向きに曲がる」のを自覚するかのような悠長さすらも、焦り慌てる気持ちと共存させていたのだった。さすがにパノラマ体験までは生じなかったが。

こうして詳細に思い返してみると、わたしはまぎれもなくあのスタジオで恐怖を体験したにもかかわらず、その体験の中核においては恐怖感が透明なラップにでも包まれて生々しさを封印されていたような気がするのである。

恐怖は加速度の中に宿っており、一定の速度にまで達したとき(そのとき、相対的に現実の時間の流れはゆっくりとなっているだろう)にはかえって恐怖は感じにくくなっているそんな印象があるのだ。回想によって反芻される恐怖のほうがよほどリアルで恐ろしい。

文/春日武彦
写真/©shutterstock

恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで(中央公論新社刊)

春日 武彦

2023年9月1日発行

¥1,012

261ページ

ISBN:

978-4121027726

うじゃうじゃと蠢く虫の群れ、おぞましいほど密集したブツブツの集合体、刺されば激痛が走りそうな尖端、高所や閉所、人形、ピエロ、屍体――。なぜ人は「それ」に恐怖を感じるのか。人間心理の根源的な謎に、精神科医・作家ととして活躍する著者が迫る。恐怖に駆られている間、なぜ時間が止まったように感じるのか。グロテスクな描写から目が離せなくなる理由とは。死の恐怖をいかに克服するか等々、「得体の知れない何か」の正体に肉薄する。

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