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今すぐ「何者か」になりたいZ世代がヲタ活にはまるワケ…自分がオタクであると発信することはアイデンティティを発信することと同義なのか

集英社オンライン / 2023年10月19日 10時1分

「みんなが好きなモノ」を消費する時代から、「自分が好きなモノ」を消費する時代になった現在、「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉は、モノやコンテンツをコミュニケーションの“きっかけ”や“手段”ととらえている節があるという。果たしてそれがタイパ追求の目的だと本当に言えるのだろうか。『タイパの経済学』 (幻冬舎新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。

#1

今すぐ「何者か」になりたい

タイパを追求したコンテンツ消費を通じて、「何者か」になりたいと考える若者もいる。

SHIBUYA109 lab.「Z世代のヲタ活に関する意識調査」によると、Z世代の82.1%が「推しがいる/ヲタ活をしている」と回答している(図3)。



ヲタ活(オタ活)はオタク活動のこと。推し活はオタ活の一環で、自分が推しているアイドルや俳優、キャラクターなどを愛でたり応援したりする活動のことを指す。Z世代の8割が何かしらのオタクであると自身を認識しているわけだ。

図3 あなたには推しがいますか?もしくはヲタ活をしていますか?『タイパの経済学』より

オタクという言葉に抵抗感を抱く読者もいるかもしれないが、この言葉が「マニア」や「コレクター」という意味を含むことから、それ以前の世代が持つようなネガティブなイメージをZ世代は抱いていない。

むしろ、何かしらの対象や趣味に熱中している人というポジティブな印象が持たれているらしく、自身がオタクであるということを積極的にアピールしているようだ。

SHIBUYA109 lab.によると、若者の言うオタクという語は、「ファン」と「お金や時間をたくさん費やしているもの」という2つの意味で使われているという。

前者の「ファン」は人を指しており、コンテンツ嗜好者群を指していたオタク本来の意味合いと同様の使われ方がされている。一方、後者の「お金や時間をたくさん費やしているもの」は興味対象そのものを指しており、「趣味」と同じ意味で用いられている。

そこから転じて、オタクという言葉がアイデンティティと同義で使用されており、趣味に対して時間やお金を消費する「オタ活」を通して、自身のアイデンティティを充足したり、発信しているわけだ。

一方で、電通ギャルラボ「第2回#女子タグ調査2017」によると、調査対象である12〜39歳女性の81.8%が何かしらのジャンルのオタクであり、一人あたり平均5.1個のジャンルにおいてオタク的資質を持ち合わせていたという。

若者はさまざまな対象に興味があり、興味を持っているというモチベーション自体をオタク的と考える。そのため、一つのコンテンツに対する愛情が一貫しているわけではなく、その場そのときで自身のアイデンティティ(何が好きか)も変化するのである。

このような背景から、興味対象を消費する際に、自分にとって特別なモノに消費をするという意気込みを「オタ活」という言葉を通して発信していると筆者は考えている。

若者にとって、自身がオタクであると発信することは、自分自身が何者であるか=アイデンティティを発信することと同じ。

日常生活におけるプライオリティは高くなり、人間関係の構築においても、「自分が何のオタクか」「自分は何オタクと見られれば円滑なコミュニケーションをとれるのか」「他人から自分は何オタクと思われているのか」「自分は何のオタク=どのようなアイデンティティを持つ人と交友関係を築きたいのか」ということが重要になるのである。

居場所はSNSにあればいい

従来は大衆的に消費されるコンテンツがあった。しかしインターネットやSNSの普及により、人々が一様に同じ関心を向ける社会から、それぞれの感性に従って消費行動を決定する社会へと変化し、人々の嗜好はより「個」の追求へと移行していった。

ざっくり言えば、みんなが好きなモノを消費する時代から、自分が好きなモノを消費する時代になったわけだ。

もちろん昔から「好きだから」消費をするのは当たり前のことなのだが、好きなモノの選択肢が「大衆に消費されているモノ」という枠のなかにあった。

だから、メインストリームで消費されていないモノを嗜好しているとそれはサブカルチャーとしてとらえられたり、奇妙な趣味を持つ人と見られてしまう傾向があったのだ。

しかし、前述した通り、例えばテレビで放送されているコンテンツという枠組みのなかで消費者が趣味の幅を広げて好きなモノを探求していた時代や、特定のセグメントが消費するモノを想定して内容が構成される雑誌のようなものからトレンドを収集していた時代は過去のものとなった。

消費者は本当に好きなモノをインターネットを通じて消費するようになり、趣味や嗜好は本当の意味で十人十色の時代に変化していったのだ。

あわせて、コミュニティの変化も大きな要因だ。

SNSの普及によってバーチャルなつながりを持つことが大衆化し、仮に現実社会で自身を肯定してくれる人がいなくても、SNS上で自分を理解してくれる人がいればそれでいいと考える者も増えている。

前述した通り、テレビなどのマスメディアが情報や交流のフックとなるコミュニケーションツールだったころは、大衆的に消費されるモノが存在するからこそ、仲間内で話を合わせるために消費を行うことで帰属意識を高めていた。

ところがSNSのつながり(趣味のつながり)が生まれたことで、わざわざ現実社会の知人に自分を理解してもらわなくてもよいと考えるようになったのだ。

ニッチな嗜好、人に言いづらい趣味を持っていても、現実世界の人間関係に理解を求めたり、現実社会の人間に配慮しなくても、ネット上でそのニッチな消費対象を嗜好している他の消費者を見つけ、そのコミュニティに身を置くことが可能なのである。

就業(会社)そのものは趣味を行ううえでのプロセスという価値観しか見出せない

そのような価値観のなかで、推し活やオタ活のように好きなことを消費すること自体が自身の精神的充足につながるのならば、生活におけるプライオリティは「趣味」に置かれ、「趣味の時間」と「趣味をするために仕方ないけど働かなくてはいけない時間」とに分断される。

就業(会社)そのものは趣味を行ううえでのプロセスという価値観しか見出すことができないため、会社に対してモチベーションややりがい、目的を持つことなどますます困難になる。

長い時間拘束されず、お金がもらえればそれだけで十分。それなのに、給与も発生せずに会社の人たちと終業後の飲み会で顔を合わせていなくてはならない。

上司陣からしたら家に帰ってもやることはないし、自分の話を聞かせることができる最高の場なのかもしれないが、若者からしたら苦痛以外の何物でもない。

このように、現実社会における共通意識(身を置くコミュニティ)に対するプライオリティが低いと、そこでの人間関係の親密度を深めることは難しく、人間関係が淡泊に見えてしまうわけだ。

一方で、SNSにおける趣味を媒介としたコミュニティや共通意識は自身のプライオリティの高いものであり、つながり自体も強度も、自分の嗜好に合わせて、身を置くコミュニティや、個々でつながりたい仲間を選択できるのである(SNSの趣味アカウントを作るのも、ハッシュタグで同じ趣味を持つ消費者を探すのも、他の消費者にリプライやDMをすることも、どれも自発的に行われていることだ)。

そのため、趣味のコミュニティに高いプライオリティを置く者にとっては、SNSでの人間関係そのものが「好きなモノを消費していいんだ」「好きなモノを認めてくれる人がここにはいる」といったように、自己肯定感を高めてくれる場所となるのである。

そのような側面から見ても、SNSの存在はオタクというアイデンティティを形成、維持するために重要な場といえるだろう。

あわせて、SNSはさまざまな多様性が可視化され、人々の権利や訴えが主張される場、そしてそれが認められる場として成立している。

大衆に埋もれることなく、個の価値観が大事にされるようになったことで、今まで以上に自分自身の価値観が何なのか、他人を見たときに自分は何者なのかと意識させられることも増えたような気がする。

むしろ、他人の動向がSNSによって視覚化されてしまったことで、より自分のアイデンティティを意識するようになったともいえるかもしれない(「夢が実現した」という他人の投稿、趣味を全力で楽しむ他人の投稿などを見たときに、自分の現状と比較してなんともいえない気持ちになったことはないだろうか)。

そのような背景からも、自分の趣味=アイデンティティを表層化させ、自分が何者であるかを他人に示したい、そのアイデンティティをフックに人間関係を構築したいという心理が生まれていると筆者は考える。

ここまでをざっくり整理すると、オタクになることがアイデンティティにつながるのでオタクになりたい若者もおり、それ自体が若者がオタクを自称する理由になっているということだ。

誰に「オタク」と思われたい?

では、実際に若者は誰にオタクと思われたいのだろうか。

現実社会においては、他人からの「○○は映画に詳しいよ」「音楽について聞くなら○○だよ」という評価によって、実社会の交友関係のなかでオタクであると思われたいという承認欲求がそこにはあるだろう。

ネット(SNS)のコミュニティにおいては、例えば映画が趣味だから、SNSで他の映画ファンとつながって盛り上がりたいという欲求が生まれた場合、他のオタクと交流を持つためには、まず自分自身がオタクだと思われる必要がある。

コミュニティでのコミュニケーションのためにオタク=自分が何者かを示す必要があるのだ。

また、自身は現実社会ではオタクだと思われているけれども、それを保証(証明)してくれるものはないから、他のオタクから認めてもらうことで自信につなげたいと考える者もいるだろう。

このような背景から、最短で「何者か=オタク」になりたいと考える者もいるようだ。しかし、コミュニケーションに重点を置いた個性はなんでもいいわけではなく、それについて興味がある人が多く、その個性に需要があるほうが、話題としてもコミュニケーションツールとしても価値が大きくなる(趣味に優劣があるという意味ではなく、あくまでもツールとして見た場合)。

コミュニケーションツールとしての個性として、高い需要があるのが映画界隈なのだろう。Twitterでは「映画オタクはじめました」「映画オタクになるにはどうすればいいか」といったツイートが散見されるが、ステータスとしてのオタクが欲しい(オタクになりたい)若者にとっては、いかに最短距離で、いかに手間をかけずにオタクになるかがタイパを追求する動機そのものになるわけだ。

だからこそ、ファスト映画を視聴したり、動画のスキップ機能を利用したり、ネタバレサイトを見たり、Twitterに溢れる猛者たちの論考や雑学をあたかも自分のオリジナルかのように引用し、知った気になったりする。

映画鑑賞の醍醐味ともいえる「初回の感動」を放棄するという非合理的な行動をとったとしても、彼らにとっては、時間をかけてその醍醐味を味わうこと自体が非合理的であり、とにかく省けるものを省いたほうが合理的なのである。

「何者かになりたい」層がコンテンツを消費する目的は、本当にオタクなることなのか?

しかし、従来のオタク議論を援用するのならば、オタクはある種のレッテルの側面がある。

筆者はオタクの専門家として10年以上オタクを研究している。さまざまな領域で研究されている点や、オタクという言葉が使われる機会によって持つ意味が異なるため、オタクは定義づけが大変困難である。

そのなかで、筆者はオタクの消費性とオタクの成立の仕方の2つに着目し、以下のようにオタクを定義している。

①自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見出した興味対象に対して、時間やお金を過度に消費し、精神的充足を目指す人

②オタクとレッテルを貼られた人このうち

①は、彼らの消費性とコンテンツに対する依存性を考慮に入れた側面である。オタクと呼ばれる消費者は、熱心に消費している点、特定のモノに熱中している点が他の消費者と異なり、その特質的な消費行動がオタク的と認識されている。言い換えれば、オタク的と認識されている特質的な消費行動を行う者のことを「オタク」と呼ぶわけだ。

その消費が特質的な消費なのかどうか判断をするのは他人であり、他人がオタクであると認識したときに、そこにオタクは生まれるのである。

もともと、オタクという言葉は「お宅」という二人称からきており、同じコンテンツを嗜好する消費者を呼びかけたり、声をかける際に使われるようになったといわれている。

「お宅も○○が好きなんですか?」「お宅もあのイベント参加しました?」といったように、相手の人となりはわからないが、たぶん自分と同じものが好きなんだろうな、というときに使い勝手がよかったわけだ。

「オタク」という言葉には呼称の側面があったのだ。また、若者の間では、オタクは自称として定着しているが、オタクのコミュニティには「にわか」や「ライトオタク」などオタクになりきれていない消費者への呼称が存在し、自分がどれに当たるかは他人からの評価で成立するのである。

「Aさんは(自分よりは)オタク」「Bさんは知識がないから(オタクじゃなくて)にわかだ」といった議論は、どのカテゴリーのオタクのコミュニティにおいても聞かれる話だ。

ここまで論じてきた通り、オタクがそこにいると認識される背景には、「消費者がコンテンツに熱中する⇒その熱量が他人に認知される⇒他人が自身の消費行動をオタク的であると認識することでオタクと呼ぶ(評価する)ようになる」といった流れが存在する。

そのため、本来好きが高じて(他人から特質的な消費行動が認知されて)オタク(と呼ばれるよう)になるのに、オタクを自称する層や、オタクという評価が欲しい=何者かになりたい層は、オタクになりたいがためにコンテンツを消費していることになる。

しかし、ここで疑問が生まれる。「何者かになりたい」層がコンテンツを消費する目的は、本当にオタクになることなのだろうか?

ここまで、タイパを追求したコンテンツ消費がされる理由として、①実社会、オンラインにかかわらず、消費が前提でコミュニケーションがとられるから、②オタク=何者かになりたいから、が挙げられると論じてきた。

果たしてこの2つは、タイパ追求の目的と言えるのだろうか。

文/廣瀬 涼 写真/shutterstock

『タイパの経済学』 (幻冬舎新書)

廣瀬 涼 (著)

2023/9/27

¥1,056

232ページ

ISBN:

978-4344987081

なぜ異常なまでに時間に囚われるのか?

●動画はとにかく「短く」
●スポーツ・映画は観ない
●スキマ時間がなくなった
●いますぐ「何者か」になりたい
●居場所はSNSにあればいい
●同時に4人以上と連絡をとり、1週間以内にデートの約束
●所有しなくてもサブスク、シェア、メルカリで十分
●大学生の生活費が30年で4分の1に
●「やったつもり」になれる市場の拡大
●「オタク」は付け替え自在な“タグ”になった

……「とにかく失敗したくない」Z世代の消費行動のナゾを解く!


Z世代など若者を中心に、コスパならぬ「タイパ」(時間対効果)を重視する価値観が当たり前となった。
時短とは異なり、「限られた時間でより多く」「手間をかけずに観た(経験した)状態になりたい」という欲求が特徴で、モノやコンテンツをコミュニケーションの“きっかけ”や“手段”ととらえているという。
その背景にはサブスクの普及、動画のショート化、不景気などの環境変化と、「時間を無駄にしたくない」「いますぐ詳しく(=オタクに)なりたい」といった意識の変化がある。
もはや彼らは純粋に消費を楽しむことはできないのか?
一見不合理なタイパ追求の現実を、気鋭の研究者がタイパよく論じる。

第1章 タイパの正体
第2章 「消費」されるコンテンツ
第3章 Z世代の「欲望」を読み解く
第4章 タイパ化するマーケット
第5章 タイパ追求の果てに

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