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故安倍総理、幻の“インパール演説”「従軍看護婦の英雄的献身に感謝の言葉」/葬儀での昭恵夫人の謝辞も掲載

集英社オンライン / 2023年10月23日 9時1分

安倍政権時代、内閣審議官、内閣官房参与として総理のスピーチライターを務めていた谷口智彦氏が明かす、いつか安倍総理にインドで読んでもらいたかった一本の草稿とは。安倍晋三氏の葬儀で安倍昭恵夫人が披露した謝辞とあわせて紹介する。『安倍総理のスピーチ』 (文春新書)より、一部抜粋、再構成してお届けする。

幻となったインパール演説

いまわたしの手元には、いつか安倍総理にインドで読んでいただくつもりだった、一本の草稿がある。

2019年の暮れ、安倍総理は首脳間定期相互訪問のローテーションで訪印するはずだった。ほかならぬインパールへ行き、往時を偲ぶ短い発言をなさる予定だった。これが流れてしまったことを、安倍総理はかえすがえす、残念に思っていたに違いない。



同年の6月、インパール作戦の激戦地マニプールに、日本財団の支援によって「インパール平和資料館」が竣工していた。12月には、そこにモディ首相とともに行く約束となっていたのだ。

実現せずじまいとなったのは、同年の10月以降、マニプールを含むインド東北地方に「市民権法」改正に反対する大規模な抗議行動が起き、一時的に治安が悪化したためだ。

新型コロナウイルスの第一号患者は、そのころ中国・武漢で発生していた。中国政府は初動を誤り、恐るべき疫病が世界に広がるのを放置したから、訪印は無期延期になった。

そして2020年の9月16日には、寛解していたはずの潰瘍性大腸炎を再び悪化させてしまった安倍総理が、政権を去った。

「また今度がある」と思っていたインパールの訪問はついに実現せず、そしていま、永遠に、できないこととは、あいなってしまった。

幻となった”インパール演説”の未定稿

以下に掲げるのは、総理の決裁を得る以前の未定稿である。もっとも、安倍総理の目に一度触れてはいる。

ここインパールに立ち、いまや遥かなる往時を偲ぶことは、私にとって、長年、いつかはと、自らに念じてきた課題でした。昭和から平成、令和へと、時代が移るにつれ、思いはむしろ、強くなるばかりでありました。

いま、畏友ナレンドラ・モディ首相のご配慮を得て、実現したことに、感懐、ひとしおなるものを覚えます。

いましがた見た平和資料館は、戦争中の当地で起きたことを静かに訴えて、後世の私どもの、魂を揺すります。完成に力を尽くされた皆さまのご努力に、深甚の敬意を表します。

全滅に次ぐ、全滅。熾烈というも、無惨な戦場でした。弾薬なく、糧食尽きて、クスリの一粒、包帯の一片とてない。雨水に湿ったマッチは、容易に火を起こさなかったでしょう。

あたら、若い命が、火線を仮に生きのびたとしても、マラリヤで、デング熱で、赤痢、果てはペストで没していった。

ここに立つことは、それら将兵や、あるいは彼らを助けようとして自ら斃れた看護婦たちや、無数の人々のかそけき声に、せめて心をしずかにし、耳を澄まそうとすることでなければなりません。

ここから、ミャンマー、雲南省にかけての一帯は、さもなければ平和な地であったに違いないのに、戦争は、一方的に当地の人々を襲い、数知れぬ、悲劇を引き起こしました。

いまさら私がこうべを垂れたとしても、過ぎ去った時、失われた命と財産に、戻って来るものはありません。

だとしても、私はここに、日本国民を代表し、しばし瞑目します。当地にあった、無辜の、無名の、無数の民のため、また、もとより、干戈を交わし合った、連合軍、インド国民軍、日本軍、すべての人々のために、鎮魂と、哀悼の、誠を捧げます。

あれから三四半世紀、日本は、平和を尊び、人の命を重んじて、国内はもとより、遠い、異国の地にあっても、一人、一人の、人間の力を養い、自由と、民主主義を培っては、それを確かなものとする営みに、営々、尽くしてまいりました。

幸い、努力は、日本に対する評価となって、実を結んでいます。このことを、当地に斃れた人々は、せめてもの慰めと、受け取ってくれるでしょうか。そうであってほしいと、私は念じ、これまでの歩みは、この先とも、揺るぎのないことを、お誓い申し上げたいと思うのであります。

鉄兜の、錆びた一片、朽ち果てた、軍刀の欠片。どんな手掛かりが、残っているのでしょう。日本兵のご遺骨は、まだそのあまりにも多くが、かえりみられることなく、当地のあちら、こちらに、散らばったまま、かなわぬ帰国を待っています。

私は、戦後ごく早いうちから、遺骨の収集にお力を貸してくださった、この地域の人々に、衷心から、御礼を申し上げます。このたび、インド政府の寛大なご理解を得て、向後三年、ご遺骨収集に、一層力を傾注していく運びとなりました。心から、嬉しく存じます。関係する方々すべてに、御礼を申し上げます。

鎮魂と、慰霊の旅を、モディ首相は実現させてくださいました。そのことに対して私はモディ首相に、もう一度、感謝を申し上げます。モディ首相、有難うございました。

戦後の総理たちは、果たして従軍看護婦の英雄的献身に感謝の言葉を述べたことがあっただろうか。このスピーチが、最初の一例となればよいと思っていた。

安倍総理は果たしてこの原稿にどんな指摘をし、インパールでどのように語りかけたことだっただろう。もはや、想像してみることしかできない。

昭恵さんの「謝辞」

本書の最後に紹介する安倍昭恵夫人の言葉だ。

令和4年7月12日、安倍家が芝・増上寺で営んだ葬儀で、麻生太郎元総理・友人代表の弔辞を受けて、昭恵さんが話した「謝辞」(喪主挨拶)である。このたび許しを得て、筆者が録音から書き起こしたところをおおやけにしたい。

7月9日、筆者は、安倍氏夫妻が二階、実母の安倍洋子氏がその上、三階に住む渋谷区富ヶ谷の共同住宅に行き、奈良県立医科大学附属病院から帰宅するご遺体と、昭恵夫人を、他の人々に交じって迎えた。

自邸ガレージの天井高との関係で、到着したのは車高の低いメルセデスの寝台車だったが、覚悟のうえ準備して向かったのであろう、黒一色の出で立ちでクルマから現れ、われわれ一人ひとりを見て一礼した昭恵さんの様子は一生忘れられまい。涙の涸れた人の顔というものを、初めて見た気がした。

それからわずかに三日後の葬儀で、昭恵さんが手元に一枚の紙も置かずに話した謝辞を、以下に再現する。

それは冒頭、ほとんど聞き取れないくらいの小さな、吐息のような声で始まった。

昨日も、それから、本日の告別式、岸田総理はじめ、みなさまがた、お忙しい中、またお暑い中、ご参列をいただきまして、ほんとうに、ありがとうございました。

また、いま、麻生総理からは、心温まる弔辞をいただきました。主人は、麻生先生のことをほんとうに憧れていたので、喜んでいることと思います。

あんまりにも突然のことで、わたくしも、まだ夢を見ているような、そんな気がしています。

あの朝は、安倍の母のところで、一緒に朝食をとって、そして八時ごろ「行ってきます」と、元気に家を出て行きました。

一一時半ごろ、事務所から電話がかかってきて、「代議士が撃たれました」。

「えぇー」、と、大きな声を上げてしまいましたが、「まだ詳細がわからないので、洋子夫人には言わないでください」ということで、わたしは目の前にいた母の手前、冷静を装いましたけれども、そのあとテレビですぐ報道がありましたので、急いで支度をして奈良に向かいました。

新幹線に乗って、京都で乗り換えて、駅からすごく渋滞をしていたので、病院に着いたのが五時少し前ぐらいになってました。

院長はじめ、先生方から、ご説明があり、あぁこれはもうむずかしいんだろうなという覚悟はありましたけれども、主人の顔を見ると、……なんだか笑っているような、穏やかな顔で、手を握ると、そして、わたしが耳元で声を掛けると、ほんの少しだけ、手を握り返して、くれたような気がいたしました。

わたしのことをきっと、待っててくれたんだろうなというふうに思い、そしてそれまで何時間も心臓マッサージをしていた先生に、「もう結構です」と、いうふうに言いまして、五時三分に息を引き取ることになりました。

今年わたしたちは結婚をして三五年を迎えました。結婚してすぐに安倍の父が発病をして、そしてその後他界をいたしまして、わたしたちは山口県下関市に住所を移しまして、来る日も来る日も、後援会の方たちの中を回る日々でございました。

後援会の方たちに、ほんとうにお支えをいただき、おかげさまで連続当選をさせていただいてまいりましたけれども、その間、持病の潰瘍性大腸炎を何度も発症して、長期入院したこともあり、政治家としてはもうむずかしいのではないかなあというふうに思ったこともありましたけれども、けっして、主人はやめるということは言いませんでした。

そしてみなさまがたご存知のように、どんどん偉くなっていきました。どんな立場になっても、けっして主人は偉そうな態度をとることもひとに偉そうなことを言うことも、ない人だったのではないかなというふうに思っています。いつもひとに囲まれて、ユーモアをまじえた話をして、ひとに笑ってもらうのが、大好きな主人でした。

たいへんなことも、たくさんありましたけれども、いつもいつもわたしをかばってくれて守ってくれて、ほんとにいい主人でした。

主人と結婚したおかげで、できないような経験をたくさんさせてもらって、わたしはほんとに、感謝をしています。

もちろん、政治家として、まだまだやり残したこともあったと思いますけれども、多くの人に囲まれることが好きだった主人にとりましては、これだけ、世界中の方に惜しまれて、悲しまれて、旅立つことができることを、きっと、主人も最後、喜んでいるのではないかなというふうに思います。

六七歳。ほんとにまだまだ、一〇〇歳の時代、若いと思いますけれども、安倍の父が亡くなったのも同じ六七歳でした。

父が亡くなったあとに主人は追悼文を書いておりまして、その中で、山口県の吉田松陰先生の留魂録を引用しておりました。

吉田松陰は、ご存知のように三〇前で若くして亡くなっていますけれども、「一〇歳には一〇歳の、おのずからの春夏秋冬、季節がある。二〇歳には二〇歳の、三〇歳には三〇歳の、五〇歳には五〇歳の、そして一〇〇歳には一〇〇歳の、それぞれの人生に、おのずからの春夏秋冬、季節がある。安倍晋太郎は総理を目前として亡くなり、志半ばで残念だとひとは思うかもしれないけれども、きっと父の人生は春夏秋冬があったのだろう。いい人生だったに違いない」というようなことを書いていたように記憶しています。

主人の六七年も、きっと、彩り豊かな、ほんとにすばらしい春夏秋冬で、大きな大きな実をつけて、そして冬になったのだろうと、わたしは、思いたいと思います。

そして、その種がたくさん分かれて、春になればいろんなところから芽吹いてくることを、きっと主人は楽しみに、これから見るのではないかというふうに思っています。

安倍の母は、先月、九四歳になりました。ほんとに主人は、母親思いのやさしい息子で、しょっちゅう一緒にお散歩をしたり、昔住んでいた辺りをドライブしたり、母のことを思って、いつもいろいろなことをしていたので、年老いた母を残して、逝ってしまうことは、心残りのひとつなんではないかなと思います。

わたし自身も、あまりにも突然のことで、これからの将来のことを考えると不安でいっぱいですけれども、またみなさまがたにお頼りすることもあると思います。どうぞよろしくお願いを申し上げるところでございます。

主人はいつも、自分の人生があるのは、たくさんの方に支えていただいているおかげだというふうに言っておりました。主人に代わりまして、改めて、お世話になりましたすべてのみなさまがたに感謝を申し上げまして、ご挨拶とさせていただきたいと思います。ほんとにありがとうございました。

話し手と聴き手に強い情念の結合ができるほど、すばらしいスピーチはない。上に掲げた昭恵夫人の謝辞をもって締めくくれることを、本書に与えられた僥倖と考えたい。

***
安倍晋三氏は、もはや帰らぬ人だ。筆者がまずささげるべきは感謝の言葉であろう。その御霊が永遠の安らぎを得たことを、せめてもの喜びとしたい。もし誰かに転生して此岸に戻ってきてくれるなら、わたし(とわたしの妻)の生物学的生命が残っている間にしていただけると嬉しい。

文/谷口智彦 写真/shutterstock

『安倍総理のスピーチ』 (文春新書)

谷口 智彦 (著)

2022/9/20

¥990

304ページ

ISBN:

978-4166613823

アメリカ議会演説、戦後70年談話、ヒロシマと真珠湾で交わした和解スピーチ、全国戦没者追悼式式辞――「総理のスピーチライター」が明かす安倍外交の軌跡。米議会演説前には寝室、総理専用機、そしてアメリカの迎賓館でもスピーチの練習を続ける総理の姿が。演説草稿の作成過程で、総理がこだわったキーワードとは? 総理と一体となり、言葉を紡いだ著者にしか書けない「安倍さんの肉声」。昭恵夫人による喪主挨拶も掲載。

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