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関ケ原の戦いの陰に潜む女のバトル「淀殿にくっついているやつなんかに味方するんじゃないよ」秀吉の正室・北政所が徳川側についてみせた意地

集英社オンライン / 2023年10月29日 18時1分

現代においては、企業や組織で活躍する女性も数多くいるが、歴史上に名を残すほどの活躍をした女性も存在する。今回は、その中でも天下の分け目・関ケ原の戦いの勝敗に関わっていたとされる、秀吉の正室、北政所(高台院)について紹介しよう。『決定版・日本史[女性編] 』(扶桑社新書)より、一部抜粋、再構成してお届けする。

#2

北政所(きたのまんどころ 1548~1624)
幼名はおね。高台院。豊臣秀吉の正室。14歳で秀吉の木下藤吉郎時代に嫁ぎ、夫の立身出世をサポート。子供に恵まれず、加藤清正や福島正則たちの親代わりを務める。秀吉が関白就任後は北政所と呼ばれる。後に側室淀君が大坂城に入ると、京都に移り住む。関ケ原の戦いで徳川側についたため、終生家康から厚遇を得た。


前田利家をソデにして秀吉を伴侶に選ぶ

北政所とは豊臣秀吉の正室のおねのことである。尾張織田家の足軽・杉原定利の次女で、母は木下家利の娘である。織田信長の家来の浅野長勝に養女として育てられた。

養父の浅野長勝と親しかった前田利家が「おねを嫁にくれ」と申し出たが、どういうものか長勝は承知してくれない。

困った利家は、「なぜ自分の願いを長勝は受け入れないのか。自分はどうしたらいいだろうか」と今度は木下藤吉郎時代の秀吉に尋ねた。

すると秀吉は「おねには約束した者がいるからだ」と聞き捨てならないことを言う。

利家が気色ばんで「そいつは誰だ?」と聞くと、「実は拙者だ」と返した。みんな秀吉の噓であった。だが、利家はそれを真に受けて、「それでは拙者が仲人になろう」と申し出たのだった。

結局、おねは前田利家をソデにして秀吉を選んだ。二人の結婚は盟友柴田勝家から信長へ伝えられ、信長から許された。秀吉25歳、おね14歳であった。

貧しかった秀吉は、新婦をスノコの上に藁を敷いて迎え、欠けた茶碗で固めの盃を執り行った。おねは結婚後、秀吉によく仕えよく耐えたが、秀吉の女好きが度を越した時には「スノコの上で、欠け茶碗で式を挙げたことを忘れなさるな」と釘を刺していたといわれている。

天正十三年(一五八五)、秀吉が関白の位を得ると、おねは北政所と呼ばれ、最後には三后に準じて従一位となる。太皇太后、皇太后、皇后を三后というが、三后に準じる従一位だから、女性としてはもうこれ以上の位はない。秀吉亡き後、北政所は京都で尼となり、秀吉の冥福を祈りながら亡くなった。

淀君に嫉妬

秀吉とおねの二人は尾張弁で喋り合うので、常に怒鳴り合っているような感じで、周囲には夫婦喧嘩をしているように聞こえたらしい。ひとたび本物の夫婦喧嘩になれば、それは凄まじい怒鳴り合いとなったという。

夫の秀吉は、家康とは反対に、身分の高い女性に関心を抱いていた。出世するにつれ、加賀の局(利家の三女)、三の丸(信長の五女)、松の丸(京極高吉の長女)、姫路の局(信長の姪)、三条の方(蒲生氏郷の妹)、淀殿(浅井長政の長女)など多くの側室をもつようになった。

北政所(おね)にももちろん嫉妬心もあって、若い頃は信長に愚痴をぶつけたこともあったようだ。そんな北政所に、信長はこんな手紙を送っている。

「ハゲネズミ(秀吉)には、あなたのようないい女房が二度と現れることはないから、奥方らしく、落ち着いてすごすように」

ただ、この夫婦には子供がいなかった。

従って、北政所は秀吉の子供を産んだ淀殿には嫉妬したのではないだろうか。最初、秀吉は浅井長政の長女茶々を淀城に入れていたが(それで彼女は淀君とか淀殿と呼ばれるようになった)、淀殿が男子を連れて大坂城に移ってくると、北政所は大坂城を出て京都に移り、高台院に入ってしまった。

彼女にしてみれば、淀殿や秀頼が中心となる豊臣家の行く末にはあまり関心がなかったのかもしれない。豊臣家の天下保持よりも淀君に対する反感のほうが勝っていたのではないかと思われる。

関ケ原の戦いの命運を分けた女の意地

北政所が女として内に秘めていたものが現れたのが、天下分け目の関ケ原の戦いの時であった。

大物武将となっていた加藤清正や福島正則たちは皆尾張の出身で、小僧時代から北政所に面倒をみてもらった連中であり、彼らは北政所にはまったく頭が上がらない。

それはちょうど広域暴力団山口組の物語などを読むと、山口組の幹部が下っ端の頃に世話になった姉御には非常に恩義を感じていることが語られているが、それと同じような状況があったかと思う。

淀君のほうについたのは、石田三成を筆頭に、秀吉がかなり出世してから家臣となった連中であった。彼らが淀君についたことが、高台院(北政所)としては面白くなかった。そこで女の意地を見せた。

かたや、秀吉亡き後、徳川家康は北政所に対して常に格段に丁重に扱ってくれていた。関ケ原の戦いは、家康としては、別に豊臣家を討つという意味ではなかった。

要するに、三成が兵を挙げたから三成を討つという建前であり、豊臣家を討つとは言っていない。さすがに豊臣家を討つと言えば、高台院も豊臣家恩顧の者たちすべてに戦えと命じたと思う。

しかし、ニュートラルな視線で情勢を見れば、家康が天下を取りそうな形勢であるし、そうなった時にはどう身を処するのかという気持ちも動いたかもしれない。

とにかく、豊臣家を討つというわけでなく、石田三成を討つのであれば、「あんた方、淀殿にくっついているやつなんかに味方するんじゃないよ」とひとこと言えば、高台院に恩義ある連中は従わざるを得なかった。

加藤清正は関ケ原には参加しなかったし、福島正則は家康側について関ケ原の戦いの動きを左右した。これらはすべて高台院のおかげであると家康は思ったのではないか。その証左に、家康はその後も、高台院に対しては、徹底的に篤く遇している。

たとえば沐浴料(風呂に入る代金)として河内の国一万六千石を与えている。また、高台寺を建て、そこに五百石をつけた。さらに身寄りの者には三千石も与えた。

豊臣家の勃興から滅亡のすべてを見届けた高台院は76歳でその生涯を閉じた。


文/渡部昇一

『決定版・日本史[女性編] 』(扶桑社新書)

渡部 昇一 (著)

2023/11/1

¥1,078

208ページ

ISBN:

978-4594095994

古代から現代まで、社会、政治、文化分野などから女性30人を選び、その業績や影響などについて解説。「強さと優しさ」を備えた輝く女性たちを通して歴史を捉える。


◎神宮皇后=「三韓征伐」の伝説を残す“和歌三神”と称された絶世の美女
◎松下禅尼=第5代執権・北条時頼に倹約精神を教えた賢母
◎日野富子=抜群のビジネスセンスで蓄財、義政の道楽を支えた妻
◎加賀千代=江戸デモクラシーを象徴する俳人
◎皇女和宮=徳川家存続のために尽力した江戸城無血開城の真の立役者
◎昭憲皇太后=国民の敬愛を集め女子教育に力を注いだ才女
◎与謝野晶子=反戦思想でしか語られない歌詠みの真の姿とは
◎クーデンホーフ光子=「全欧に輝く日本女性、汎ヨーロッパの母」
ほか合計30人。
*2009年6月発行の『なでしこ日本史』を改題。

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