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総理大臣の愛妾の芸者が日露戦争を勝利に導いた…明治の元勲・桂太郎を盛り立てた天下の〝あげまん“お鯉が命を狙われた理由

集英社オンライン / 2023年10月29日 18時1分

古代から現代まで、社会、政治、文化といった分野で活躍してきた女性はたくさんいるが、その業績をあまり知られていない者も少なからずいる。今回紹介するのは、日露戦争時代に当時の総理大臣・桂太郎の愛妾となり、激動の時代を強く生き抜いた芸者・お鯉を紹介する。『決定版・日本史[女性編] 』(扶桑社新書)より、一部抜粋、再構成してお届けする。

#1

お鯉(おこい 1880~1948)
本名安藤照。お鯉は芸者名。歌舞伎役者の市村羽左衛門と結婚するが、すぐに離婚。日露戦争の最中、山県有朋らの計らいで、時の総理大臣桂太郎の愛妾となる。ポーツマス条約の結果を受けて桂が民衆から一斉糾弾されると、お鯉も国賊として暴徒の標的となった。桂の死後も、桂の落胤の面倒を一身に引き受ける。晩年は尼僧妙照尼となり、目黒の羅漢寺の面倒をみる。


伊藤博文や山県有朋が“天下のあげまん”を総理大臣に紹介

お鯉は芸者名で、本名は安藤照という。お鯉を愛妾としたのは明治の元勲桂太郎であった。

日露戦争が始まった時の総理大臣であり、軍人出身の桂は日清戦争において師団長として大きな手柄を立てた男である。だが、その桂にして日露戦争の最高責任者の任は重く、憔悴の毎日だった。

それで桂に女性をつけてリラックスさせようと、山県有朋や伊藤博文が一計を案じた。昔のことだから、話のわかる人がいっぱいいたということだ。山県たちは、当時、美人かつ気っぷのよさで新橋一と評判のお鯉を選んだ。

お鯉は明治十三年(1880)、東京四谷の裕福な漆器問屋に生まれる。実家が左前となると、花柳界へ入り、新橋芸者となる。一度歌舞伎役者と結婚したが破局、再び新橋芸者に戻った。

それでお鯉と桂太郎を引き合わせたのが陸軍大将児玉源太郎であった。一緒に暮らすようになると、周囲の思惑どおり、桂はみるみる元気になってきた。日露戦争にも勝利した。お鯉は天下のあげまんだったわけである。

日露戦争続行に反対した桂

日露戦争終盤、児玉源太郎大将は同じ長州閥の伊藤博文に、もうこれ以上は戦えないと打ち明けた。

「いくら戦地に兵隊を送っても駄目です。進めと指揮する将校がほとんど死んでいますから」

将校は武士出身だから、当時は指揮者として最初に突っ込んでいったから、死ぬ確率がもっとも高いわけである。

「だから、戦いを早くやめてください」と悲痛に訴える児玉の申し入れを伊藤博文は受け入れ、桂に伝えた。

ところが当時の世論は、もうロシアに勝った勝ったとおおいに盛り上がっていた。

実際、日本海海戦は大勝利を収めていたし、陸の戦いにおいても、難攻不落の旅順を陥落させ、奉天会戦でも大勝し、このままどんどん進めというムードだったから、ここで戦いをやめることは世論を敵に回すことに等しかった。当然、伊藤は閣議でも猛反対を食らった。

一方の桂も、世論の戦争続行の声に憔悴し切っていた。

夏の夜、閣議から帰宅した桂が蚊帳の中で講和条約に関する書類を読んでいると、来訪者があった。ほかならぬ伊藤博文であった。

伊藤から「戦争をやめることにようやくみんなを説得したぞ」と伝えられると、二人は手を取り合い、涙を流して喜んだ。その時に蚊帳が大きく揺れ動き、蚊帳に蠟燭の火がついて、それを揉み消すために自分は火傷を負ったと、後年、お鯉が書き残している。

その時に早速天皇陛下にご報告に行かねばならない。夜だから大礼服でなく、お鯉は桂に袴を着せた。非常のこともあるかもと思い、自分は桂の新しい袴を用意していたけれど、その袴をはかせることができたとも自慢している。

桂太郎は陸軍師団長として各地を回っていた時に、何人かの子供をもうけている。当時の師団は二県か三県に一つしか編成されなかったから、考えようによっては県知事よりも権威があった。

当時は、師団長が妾に子供を産ませた場合は、県知事経由で金銭解決するのが一般的で、女性側もそれで了承していた。

ただし、自分の父親が総理大臣になったとなると話は別のようで、子供が二人名乗り出てきて、スキャンダルに発展した。だが、お鯉はこの二人を引き取ってきちんと育て上げている。

大正二年(1913)、桂太郎が没する。お鯉の将来を案じた桂は8万円を渡そうとしていたが、桂家のゴタゴタで5万円程度に減じられたという。だが、それでも大金である。

ところが、お鯉はやはり気っぷがいい。桂が地方に残した娘にカネを送ったり、自分のところに呼んで行儀作法を躾けたりした。結婚する時は、自分がもらった5万円から1万円をつけて立派な青年に嫁にやった。

「お鯉を殺せ」という怒号

日露戦争の話に戻る。戦争をやめ、日露講和条約の締結が決まると、世論は桂内閣を一斉に攻撃し始めた。

新聞で桂の意見に賛成だったのは徳富蘇峰の新聞『国民新聞』一紙のみであった。

徳富蘇峰は政府最上部と親しく、内情を知っていたからだった。その徳富蘇峰の新聞社が襲われる。彼とその社員は刀とピストルで3日間も応戦し、新聞社を守った。

その後、小村寿太郎が全権大使として臨んだポーツマス条約の内容が期待に反して日本側に不利であったことから、民衆や右翼団体が怒り、日比谷焼き討ち事件が起きた。

「国賊桂の妾お鯉を倒せ」ということで、暴徒化した群集が赤坂の桂邸に押し寄せた。

お鯉は使用人を皆帰してから、今度は自分の行き先を探すが、「お鯉を殺せ」という怒号が聞こえるなか、誰も引き受けてくれない。

それでも出入りの植木屋の若い職人が縄梯子を作って持ってきてくれた。暴漢が押しかけてきた時、崖の上の家から縄梯子を伝い、下の家でその夜は過ごさせてもらった。翌朝家に戻ってみると、家の中は鉄砲の穴だらけであったという。

しかし、お鯉には他に行くあてがない。家の雨戸を全部閉めて、植木屋がこっそりと届けてくれる食料と新聞で凌いだ。明かりもつけられない生活が20日も続いた。

そんな危険な時期が続いている時、外出がままならない桂の代理人が訪ねてきて、1万円の手切れ金を持ってきた。お鯉は代理人に突っ返した。

「桂から直接もらうならともかく、代理のあなたからもらうわけにはいかない」

すると、桂から丁寧な手紙が届いた。結局、その時はカネはもらわなかったが、手紙は嬉しかったと、後年のお鯉は綴っている。

こうして振り返ってみると、お鯉の行動は実に筋が通っているし、感激させられることも多い。

ここで私が言い添えておきたいのは、幕末から明治維新にかけて活躍した人たちのお金の問題や女性問題に対して、現代の我々があまり目くじらを立てても仕方がないということである。全然感覚が違うのだ。

たとえば、高杉晋作は維新の原動力となった一人であったが、武器を買うために千両持って長崎に行き、その全額を丸山の女郎屋で浪費している。西郷隆盛にしても、流刑先の徳之島で女性に子供を産ませている。

維新の英雄たちにしても、だいたい皆離婚している。伊藤博文の妻も芸者であった。彼女については、お鯉も頭が下がるほど立派な人だったと言っている。

以上のように、今の感覚でお金に汚いとか、女にだらしないと糾弾したら、立派な人は一人もいなくなる時代だった。

そんな時代だったのである。


文/渡部昇一

『決定版・日本史[女性編] 』(扶桑社新書)

渡部 昇一 (著)

2023/11/1

¥1,078

208ページ

ISBN:

978-4594095994

古代から現代まで、社会、政治、文化分野などから女性30人を選び、その業績や影響などについて解説。「強さと優しさ」を備えた輝く女性たちを通して歴史を捉える。


◎神宮皇后=「三韓征伐」の伝説を残す“和歌三神”と称された絶世の美女
◎松下禅尼=第5代執権・北条時頼に倹約精神を教えた賢母
◎日野富子=抜群のビジネスセンスで蓄財、義政の道楽を支えた妻
◎加賀千代=江戸デモクラシーを象徴する俳人
◎皇女和宮=徳川家存続のために尽力した江戸城無血開城の真の立役者
◎昭憲皇太后=国民の敬愛を集め女子教育に力を注いだ才女
◎与謝野晶子=反戦思想でしか語られない歌詠みの真の姿とは
◎クーデンホーフ光子=「全欧に輝く日本女性、汎ヨーロッパの母」
ほか合計30人。
*2009年6月発行の『なでしこ日本史』を改題。

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