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江戸時代にビールを飲んだ日本人の感想は「殊外悪敷物(ことのほかあしきもの)」。ラグビー王者も楽しんだ世界一の味を誇る日本のビール誕生秘話

集英社オンライン / 2023年11月10日 11時1分

ラグビーW杯優勝後、南アフリカの選手たちがお寿司と共に日本のビールを飲みながら、喜びにひたる様子が話題になったが、日本のビールがいかにして誕生したかをご存知だろうか? 日本のビール産業の歴史を紹介する。『日本のビールは世界一うまい! ――酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書) より、一部抜粋・再構成してお届けする。

オランダ人から供された〝ヒイル〞は、どうやらひどい飲み物だった

ワインを初めて飲んだ日本人は、織田信長と伝えられている(薩摩の守護大名だった島津貴久であったなど諸説あり)。持ち込んだのはイエズス会の、フランシスコ・ザビエルだったとされている。いずれにせよ16世紀の話である。

では、ワインと同じ醸造酒であるビールを最初に飲んだ日本人は、一体誰なのか。そして、いつだったのか。



はっきりとした文献も資料も残ってはいない。ただ、江戸の八代将軍だった徳川吉宗の時代、1724年(享保9年)に幕府の役人である通詞(通訳)が著した『和蘭問答』という書物に、オランダ商館の一行が江戸を訪れたとき、投宿先の夕食にて同席した日本人がビールを飲んだという記述がある。

「殊外悪敷物(ことのほかあしきもの)にて、何のあぢはひ(味わい)も無御座候(ござなきそうろう)。名をヒイル(ビール)と申候(もうしそうろう)」と、当時の日本人にとって、オランダ人から供された〝ヒイル〞は、どうやらひどい飲み物だったようだ。

いずれにせよ、ビール伝来はワインから150年くらいは遅れていたと言えよう。

日本のビール醸造の発祥は、横浜!

では、日本人で最初にビールを造ったのは誰かと言えば、幕末の蘭学者である川本幸民では、と推測されている。

幸民はドイツの農芸化学者、ユリウス・A・シュテックハルト『Die Schule der Chemie(直訳すれば、化学の学校)』のオランダ語版を『化学新書』と題して、日本語に重訳した。

このなかで、ビールの醸造方法が詳しく解説されていた。本当にビールを造ったのかどうかは不明だが、実験を好んだ幸民の性格から、詳細な記述をもとに試醸をしたのではないかとされる。

さて、日本のビール醸造の発祥は、横浜である。幕末から明治初期にかけて、横浜の外国人居留地にて外国人経営によるビール醸造所(ブルワリー)が相次いで誕生していく。

1859年(安政6年)開港の横浜港は、幕末に江戸幕府が貿易港としてつくった。58年の日米修好通商条約締結に絡んで、外国奉行・岩瀬忠震が建設を主導した。西高東低だった日本国内の経済格差を、貿易により是正しようとする江戸幕府の狙いが、横浜港建設には込められていた。

横浜港開港後に、幕府が造成した居留地は山下居留地と、明治改元の前年に拓いた山手居留地の二つ。横浜の居留地に住み始めた外国人は、軍人や外交官、宣教師、貿易商など。

彼らがビールを求めたのだが、誕生したビール醸造所のほとんどは経営が行き詰まり、短命に終わった。

ちなみに、日本初の醸造所は、山手に1869年(明治2年)に開設した「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」である。最初の経営者はユダヤ人のローゼンフェルト。島根の松江藩も出資したが、1874年(明治7年)に閉鎖された。

日本初となるビアガーデンを併設したスプリングバレー・ブルワリー

こうしたなか、頭角を現したのが、アメリカ国籍のノルウェー人、ウイリアム・コープランド。コープランドは、1870年に山手でビール醸造を開始した。醸造所の名前は「スプリングバレー・ブルワリー」。

この場所は、居留地となる以前は天沼と呼ばれていた。ビール造りに適した湧水が豊富な土地であり、湧水を動力として水車をまわし、麦芽の粉砕に使ったそうだ。

コープランドはもともとビール醸造技師だった。横浜在留の外国人の間で彼が造るビールは評判となり、東京や長崎、函館などにも出荷する。

やがて日本人も飲むようになっていったばかりか、上海や香港にも輸出した。さらに、1875年(明治8年)頃には、日本初となるビアガーデンをブルワリーに併設してオープンする。

技術者だったコープランドは、日本人の弟子たちに惜しげもなく自分のもっている技術を教えた。人種による差別をしなかったのだ。その結果、弟子、さらに孫弟子たちは、この後全国各地につくられるブルワリーで必要とされ、活躍していくこととなる。

人を育て輩出したという点で、国産ビール産業の勃興におけるコープランドの役割と貢献は、大きい。しかし、良き時代は長くは続かなかった。

1884年(明治17年)、スプリングバレー・ブルワリーは倒産してしまう。経営が傾いた原因は、ビールの善し悪しではなく、内紛にあった。コープランドは、途中から共同経営者になったドイツ生まれのアメリカ人醸造家エミール・ヴィーガントと対立してしまったのだ。

どうやらヴィーガントは、トラブルメーカーだったようだ。

ヴィーガントはジャパン・ヨコハマ・ブルワリーの初代醸造技師だったが、ここでも経営者と衝突して9カ月で職を辞していた。次に勤めた山手のヘフトブルワリーという会社でも、オランダ人社長と喧嘩して辞めていた。

スプリングバレー・ブルワリーのコープランドとの衝突は、裁判沙汰にまでなった。

もっとも、ビールの歴史のない東洋の国で、ビールを造ろうとした人物たちは、もともと個性的で変わり者が多かったのではないだろうか。なので衝突は不可避だったのかもしれない。

グラバーがつないだ財閥の重鎮

スプリングバレー・ブルワリーが倒産した翌年の1885年(明治18年)7月、その跡地に設立したのが「ジャパン・ブルワリー」である。

出資したのは横浜在住の外国人が多く、英字新聞の社主をはじめ、金融ブローカーらだった。初代チェアマンはイギリス人が務め、香港法人としてスタートを切った。香港に本社をおく、いまでいう外資系であった。

香港法人だったのは、日本の会社法がまだ制定されていないこと、日本がまだ不平等条約下にあって日本の法人では経営基盤が脆弱になることなどを考慮してのことだった、とみられる。

有力な出資者にイギリス人のトマス・グラバーがいた。長崎の名所である旧グラバー邸のグラバーと表現した方がわかりやすいだろう。

幕末にはジャーディン・マセソン商会の代理人として武器や弾薬を輸入販売。グラバーは、坂本龍馬が率いた亀山社中とも取引があった。維新後、グラバーは炭鉱開発など行った後、三菱財閥の相談役となった。

この縁で、日本人で唯一ジャパン・ブルワリーの株主になったのが三菱社長・岩崎弥之助だった。三菱をつくった岩崎弥太郎の弟であり、小岩井農場を創設した三人のうちの一人としても知られる。なお、弥太郎はこの1885年2月に急逝していた。

1886年、ジャパン・ブルワリーは増資されるが、日本の有力財界人がオールキャストで顔を揃えていく。日本資本主義の父と謳われた渋沢栄一、三菱の番頭の荘田平五郎、三井物産社長の益田孝、帝国ホテルをはじめ後の東京経済大学をつくった大倉喜八郎、土佐藩出身で逓信大臣を務めた後藤象二郎など、錚々たる面々がジャパン・ブルワリーにかかわった。

醸造技師は当初からドイツ人の専門家を雇い入れることが決まっていた。

明治10年代の半ばまで、輸入ビールでは英国風の「エール(上面発酵)」ビールもそれなりにあったものの、ドイツ風の「ラガー(下面発酵)」ビールの需要が大きくなっていく。

このため、機械設備をドイツから輸入する。さらに、麦芽やホップなどの原料、瓶までをドイツから輸入し、ドイツ人醸造技師のヘルマン・ヘッケルトを招聘した。

発売当初のキリンビールのラベルは不評だった

ヘッケルトが着任した翌年である1888年(明治21年)2月23日、ジャパン・ブルワリーでは第一回の仕込みが行われた。ただし、ここで大きな問題に直面する。

当時は、原則として外国人の行動が居留地内に限られ、自由に外へ出ることは許されなかった。そのためジャパン・ブルワリーは、日本人が経営する代理店を通じての販売体制をつくらなければならなかったのだ。

ちなみにコープランドのスプリングバレー・ブルワリーでは、代理店に当たる日本人が東京などで一手に販売していた(生産量がわずかだったので、扱いやすかったということもあったが)。

ジャパン・ブルワリーの代理店として、名乗りを上げたのは磯野計が設立したばかりの明治屋だった。ジャパン・ブルワリー設立に関わり、取締役に就いたグラバーが推したという説もある。が、定かではない。

津山藩士の次男として生まれた磯野は、東京大学を卒業。三菱財閥の給費留学生となりイギリスに留学する。ここが磯野と三菱との最初の接点だった。1880年(明治13年)10月に日本を出発し、84年に帰国した。留学といっても、学術ではなく、ロンドンの廻船仲立業者で働き、実務を学ぶものだった。

磯野は帰国後一時三菱で働き、三菱財閥の日本郵船相手に、船舶に食料や雑貨を納入する会社を興して共同経営者となった。さらに独立して、1886年2月に明治屋を設立する。磯野の明治屋は三菱の仕事を多く手掛けた。その結果、独立後から2年近く経た87年暮れに、留学費用の4800円は「返済無用」と岩崎弥之助から言われる。

1888年5月、ジャパン・ブルワリーは明治屋と総代理店契約を結ぶ。輸出と、外国人居留地を除く全国でのビール販売を明治屋が担うことになったのだ。契約には明治屋が代金回収の責任を負うことが定められていた。しかし、磯野には財力がなかったため、岩崎弥之助が個人保証を引き受けた。このとき、磯野は30歳だった。

磯野が販売するビールの名前は「キリンビール」に決まる。発案したのは、ジャパン・ブルワリーの株主の一人であり三菱の番頭だった荘田平五郎。荘田が「西洋のビールには狼や猫など動物が用いられているので、東洋の霊獣「麒麟」を商標にしよう」と主張したと言われる。

こうして「キリンビール」は1888年5月に発売される。だが、キリンビールのラベルは不評だった。ラベル中央に描かれた麒麟のイラストは小さく、馬のようにも見えて判然としない。しかも、「キリン」の文字が中央のメインラベルにない。

そこで発売翌年の89年、グラバーの進言によってラベルデザインが変更された。新ラベルは横長の楕円形になり、疾走する麒麟が中央に描かれ、下部には「KIRIN」の文字がしっかり入っている。ほとんど現在のラベルと変わらぬ図柄ができあがる。このラベル変更がきっかけとなって国内で人気を博したキリンビールは、ブランドとなっていく。

なお、磯野計は、キリンビールが発売された9年後の1897年(明治30年)、39歳の若さで急逝した。明治屋の経営は、遠縁の米井源治郎が磯野の一人娘の後見人となり、引き継がれていった。

日露戦争後、ジャパン・ブルワリーが日本法人に移行

日清戦争(1894〜95年)に勝利した日本は、1897年に金本位制に移行した。すでに世界各国は金本位制を採用していて、世界的な銀増産もあって、銀の価値は下落していった。

香港ドル(銀貨)建て資本金を設定していたジャパン・ブルワリーは、為替差損などの不利が生じ、資本金を円建てに改めようと動く。香港政府が円建て資本金への転換を認めなかったため、1899年に香港法人のジャパン・ブルワリーをいったん解散し、新会社「ザ・ジャパンブルワリー・カンパニー」(正式には、「ゼ・ジャパン・ブリュワリー・コムパニー」)を設立する。

円建て資本金の日本法人に移行したのだ。

ただし、本店は相変わらず香港に置き、支店を横浜市山手とした。「The」を社名に冠したのは、新旧を区別するためだった。

文/永井隆 写真/Shutterstock

『日本のビールは世界一うまい! ――酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)

永井 隆 (著)

2023/7/6

¥990

256ページ

ISBN:

978-4480075628

西のアサヒ、東のサッポロと言われた理由とは。キリンはなぜ独立を保てたのか。サントリーはどのようにビール市場に参入したのか。バブル期にドライはなぜ売れたのか。20世紀末の日本を席巻した「ドライ戦争」とは、どのようなものだったのか。そもそもラガーとエールの違いとは。麦芽の割合で何が変わる? 世界一うまいと絶賛される日本のビール。商品開発、市場開拓、価格など、熾烈な競争の背後にある発展史を一望して見えてきた秘訣とは。

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