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90分のアニメを200人で1年かけて作っていた時代に、30分のアニメを年間52本作ろうとした手塚治虫。「日本初のテレビアニメは鉄腕アトムではなかった」

集英社オンライン / 2023年11月17日 17時1分

日本の一大産業である、テレビアニメ。いまや老若男女を魅了するこの巨大エンタメカルチャーには、さまざまな思惑や利権がからみ、テレビ・出版界の野心に憑かれた人びとの熾烈で常軌を逸した行動をも喚起した。それらが生み出したものは何だったのか。1963年『鉄腕アトム』に始まるテレビアニメ黎明期を、話題の『アニメ大国 建国紀 1963-1973テレビアニメを築いた先駆者たち』から紐解く。

不可能な数字

手塚治虫のアトムシリーズ第1作となる『アトム大使』は、光文社の「少年」1951年4月号から連載が始まった。まだ「SF」という言葉になじみがないので、「長編科学冒険漫画」と銘打たれていた。

舞台は「50年後の東京」、つまり21世紀初頭という未来だ。当初は具体的な年月日は特定されていないが、後に2003年4月7日にアトムは誕生したことになる。いずれにしろ、1950年代の子どもにとっては、遠い未来だった。



天才科学者・天馬博士はひとり息子のトビオを交通事故で亡くし、その子そっくりのロボットを作った。しかしロボットなので成長しないことで憎むようになり、サーカスに売り飛ばしてしまったという設定だ。『アトム大使』でのアトムは、地球とそっくりの天体から来た地球人そっくりの宇宙人と、地球人との交渉役として活躍した。

『アトム大使』は単独の作品のつもりで描かれていたが、アトムの人気が出てきたので、52年4月号から『鉄腕アトム』として、改めて連載が始まった。以後、数回でひとつの第5章『鉄腕アトム』革命前夜──エピソードが完結する形式で、連載が続いていた。1962年の時点で12年目になる。

アトムは外見は10歳くらいの男の子で、7つの力が備わっていた。
①電子頭脳はどんな計算も1秒で正解を出せる。
②ジェット推進器で空を自在に飛べる。
③耳の力を1000倍にまでできる。
④世界60か国語(100か国語、160か国語の設定もある)で会話ができ宇宙人とも話せる。
⑤暗がりでは目がサーチライトとなる。
⑥10万馬力のパワー。
⑦お尻からはマシンガンを発射できる──この7つの力を駆使して、アトムはさまざまな事件を解決し、さまざまな敵と闘ってきた。

そのアトムの活躍ぶりを動く絵にして、テレビで見せるのだ。子どもたちが喜ばないはずがない。

東映は出遅れた

『鉄腕アトム』をテレビ用アニメーションにしようという坂本雄作の思いつきは、手塚治虫の「やりましょう」の一言で、現実化していく。

とはいえ、まだ「やる」ということだけしか決まっていない。虫プロダクションは前例のないことをやろうとしているのだ。どういう規模でどういう内容のものをどういうサイクルで作るのか。そのためにはどれくらいの人員が必要なのか。

テレビ番組とするのであれば、週に1本のペースで作らなければならない。子ども向けのテレビ番組の一般的な単位は30分だ。アメリカ製のアニメーションで10分、15分ものもあったが、それはギャグ・アニメで、『鉄腕アトム』はストーリーのあるアニメーションを目指す。となれば、30分だ。

東映動画は200人以上のスタッフで、90分前後の長編アニメを年に1本作るのがやっとだ。手塚も関係した『西遊記』は88分で、原画1万2198枚、動画7万8758枚を必要とした。30分としたらその3分の1なので、単純に3で割れば、原画約4000枚、動画約2万5000枚を毎週描かなければならない。

別の観点から数字を見れば、映画は1秒24コマなので、30分番組で実質25分だとしても1500秒となり、動画は3万6000枚が必要となる。もっとも、アニメーションの場合、同じ絵を2コマ撮ることもあるので、そうすれば半分ですむが、それでも1万8000枚だ。

東映動画では1961年から、原画5人、第2原画10人、動画30人、トレース10〜15人、色彩30人、合計85〜90人で年に90分前後の長編1作を作る体制を敷いていた。単純計算では、30分ものならば年に3本作れる。しかし毎週1本ということは年に52本作らなければならないのだ。

「30分もののテレビアニメ」については、東映の大川博社長もNET開局時に、東映動画に指示したことがある。しかし、山本早苗が「できるわけない」と一蹴し、この話はなくなった。一応、試算してみたところ、3000人のスタッフがいなければ不可能という数字が出て、とてもそんなに雇えないので、以後は話題にも上らなかった。

大きな組織によくあることだが、一度「できない」と結論が出たものは、よほどのことがないと再検討されることはない。東映動画では、そして東映でもNETでも、テレビ用アニメーションが企画されることはないまま、1962年を迎えていた。

かくして日本最大のアニメーション・スタジオでありながら、東映動画は出遅れる。

実はおとぎプロが持つ「初」の栄誉

『鉄腕アトム』は「日本初の連続テレビアニメ」と称されるが、正確には「日本初」ではない。内容も規模も異なるが、「日本初の連続テレビアニメ制作者」の栄誉は、横山隆一のおとぎプロダクションが持つ。

手塚治虫がアニメーション作りに乗り出したころ、1961年5月1日に始まった『インスタント・ヒストリー』こそが、「国産テレビアニメ第1作」だった。フジテレビで毎日17時47分から50分までの3分間の番組で、そのなかの1分間がアニメで、1日ごとにその日に起きた歴史的な出来事を紹介する内容だった。

鈴木伸一はじめ7人のアニメーターがひとりで1週間に1本ずつ作り、62年2月24日まで1年半にわたり放映された(放映時間は、変動する)。その後、62年6月25日からTBSに移り、『おとぎマンガカレンダー』と改題して1年間作られ、2年目は再放送して、番組そのものは64年7月4日まで2年間続いた。演出・作画・美術として横山隆一の他に、鈴木伸一、町山充弘らの名も挙がっている。

並行して作っていたのが『プラス50000年』という9分の短編だ。アメーバーから爬虫類、猿から人間へ、そして人間はどこまで進化していくのか、進化論をアニメーションで描くもので、鈴木伸一が構成・演出・動画を担った。1961年10月に完成し、フランスのトゥール国際短編映画祭で上映され好評だったが、劇場公開の機会はない。日本での上映は64年3月になる。

1962年8月25日、「総天然色長編漫画」として『おとぎの世界旅行』が東宝系で封切られた。1960年に完成していながら、公開の機会がなかったものだ。東宝の特撮怪獣映画『キングコング対ゴジラ』が11日に封切られ、当初はザ・ピーナッツ主演『私と私』との2本立てだったがヒットしたのでロングランとなり、3週目の25日から『おとぎの世界旅行』との2本立てになった。

『おとぎの世界旅行』は「総天然色長編漫画」とあるようにカラーで76分、東映動画の長編に匹敵する規模の作品で、横山隆一が制作・原作・監督を担った。もともとは7つの短編だったが、作画作業に入る前に、配給する東宝から「短編だとおまけみたいなので繫いで1本の長編にしてくれ」との要請があったので、7つから5つに減らし、長編に仕立てた。

ソーラン老人とオケサ青年、チョイナ少年の3人が手製の蒸気自動車に乗り、世界一周してそれぞれの地で漫画映画を上映するという入れ子構造のオムニバスだ。制作順としては『おとぎの世界旅行』が先で、その後にテレビの『インスタント・ヒストリー』、短編『プラス50000年』となる。

さらに1963年、『鉄腕アトム』が放映開始になった年には、『宇宙少年トンダー』という5分もののテレビ用アニメを13本作ったが、スポンサーが付かず、放映されなかった。

人気マンガ家で、私財を投じてアニメーション・スタジオを作った点で、横山隆一と手塚治虫は同じだった。横山隆一は手塚治虫にとってお手本であり、反面教師でもあった。

東映動画からの人材流出とフリーランス事情

手塚治虫はテレビアニメに乗り出すと決めてからも、虫プロのスタッフたちに、「どう思うか」と訊いていた。「いいですね」「やりたいですね」との答えを得ると、喜んだ。「やりたい」思いがあれば、「やれる」。この天才はそう考える。これまでもそうやってきた。月刊誌10誌に連載を持つという、誰もやったことのないことを平然とこなしてきた。もちろん、締切を守れないので編集者たちは苦労したが、原稿を落とすことはなかった。

虫プロは映画部とテレビ部に分けられ、映画部は山本暎一がチーフで『ある街角の物語』を、テレビ部は坂本雄作がチーフで『鉄腕アトム』を作ることになった。

4月には新設のスタジオが完成し、人員も増えていく。

テレビ部に配属された杉井ギサブローは、東映動画の同僚だった林重行を勧誘して虫プロに入れた。のちに林は「りんたろう」と名乗る。林重行は映画監督志望だったが、すでに映画会社の助監督試験は大卒でなければ受験もできなかった。

映像の仕事に関わりたく、テレビCFのアニメーション制作会社に入ったものの、その会社が倒産したのでTCJに入り、経験を積んだうえで1958年に東映動画に入った。大塚康生、楠部大吉郎らの1年あとになる。東映動画に入っても原画や動画の仕事には興味がなく、演出をしたかったのだが、演出部には大学を卒業していないと配属されない。やる気をなくしていたところ、杉井に誘われた。虫プロならば、大卒であるかどうかは関係なく、演出に就ける。

さらにスタッフを増やさなければならない。坂本と杉井は古巣の東映動画の知人に声をかけまくった。前後して、東映動画で原画を描いていた石井元明、中村和子らも入ってくる。みな、1期生で『白蛇伝』から関わっているメンバーだ。

中村和子は満州で生まれ、12歳で敗戦となり、山口県に引き揚げた。画家を目指し、山口県立宇部高等学校から女子美術大学洋画科に進学した。アニメーションとの出会いは、フランスの長編アニメーション『やぶにらみの暴君』(ポール・グリモア監督、1952年)だった。

画家になれないときのために教員免許を取っていたが、1957年に東映動画の募集広告を見て応募し、採用された。1期生のひとりで、『白蛇伝』では第2原画となり、ヒロインの白娘と小青というキャラクターを描き、以後も女性キャラクターを担当することが多かった。中村は「和子」の名から「ワコ」と呼ばれていた。

中村も『安寿と厨子王丸』制作中に、会社への不満から辞めていた。その後は実験アニメーションを作っていた久里洋二らの「アニメーション三人の会」の仕事を手伝っていたが、坂本に誘われて、5月に虫プロに入った。

東映動画在職中に、中村は広告代理店の萬年社に勤務する穴見薫と結婚していたので、戸籍名は「穴見和子」となるが、クレジットなどにはその後も「中村和子」で出ているので、本書でも中村和子とする。中村は虫プロに入ると『ある街角の物語』の班に入った。

中村和子の夫、穴見薫は、もう少し戦争が続いていたら特攻隊員として死んでいたという経歴を持つ。21歳で敗戦を迎え、演劇青年だったので新劇の俳優座で制作の仕事をしていたこともあった。大阪の広告代理店萬年社に入り、東京支社企画部主任課長となっていた。

穴見は広告代理店の社員でありながら、アニメーションに藝術としての可能性を感じていた。そこで東映動画の白川大作と楠部大吉郎を食事に誘い、力を貸してくれと頼んだこともあった。

どういう体制で作ろうとしていたのかはよく分からないが、白川たちに東映動画を辞めて萬年社に入らないかというような話だったらしい。白川と楠部は辞める気はないからと断った。それなら誰か他にいないかと訊かれたので、辞めたばかりの中村和子を楠部が紹介した。穴見は中村にアニメーションを作らないかと持ちかけ、それがきっかけで結婚した。

東映動画には『安寿と厨子王丸』に不満を抱いて退社した者がそれなりにいた。さらに労働組合が強くなり、それについていけないと思う者もいた。テレビCFでのアニメーションは増え続け、小さなスタジオがいくつも生まれていた。フリーランスになっても仕事があった。

労働組合の役員だった高畑勲と宮崎駿

かくして東映動画から人材が流出した。一般の業界では最大手の正社員が給料も一番高く、小さな企業や下請け、フリーランスになると収入が減るものだが、アニメーションの世界では最大手の東映動画にいるよりもフリーランスになったほうが収入が上がる現象が起きていた。

大塚康生には手塚治虫が自らアプローチした。大塚は後に『太陽の王子ホルスの大冒険』や『ルパン三世』の作画監督として知られる。大塚は島根県で生まれ、8歳の年に山口県に転居し、山口県立山口工業学校土木科を卒業した。山口県庁の総務部統計課に就職したが、政治漫画家志望で、山口新聞に掲載されたこともある。

漫画家になるには東京へ行かなければと、厚生省の採用試験を受けて合格し、1952年に上京した。厚生省では麻薬取締官事務所に配属されたが、麻薬取締官になったのではなく事務の仕事をしていた。働きながら絵の勉強をし、近藤日出造や清水崑が結成していた新漫画派集団の事務所に行き、弟子にしてくれと頼んだが相手にされなかった。

大塚のアニメーションとの出会いは、山口時代にソ連の『せむしのこうま』を見たときで、こういう仕事をしたいと漠然と思った。上京してから見たのが『やぶにらみの暴君』だった。中村和子、高畑勲、宮崎駿らもこのフランスのアニメーション映画に感銘を受けている。ディズニーに心酔する手塚系のアニメーターとは、原点からして異なるのだ。大塚は図書館へ行き、アニメーションの技法の本を読んで独学していた。

1956年6月27日、大塚は「東京タイムズ」芸能欄で「漫画映画『白蛇伝』東映で制作決定」の記事を見て、新宿区若松町時代の日本動画社を訪れた。東映に買収されると決まっていたが、正式にはまだ日動だった時期だ。

山本早苗、藪下泰司が応対してくれ、大塚が25歳を超えていたので、「いまから学ぶのは苦労が多いから止めたほうがいい」とも助言してくれた。それでも試験として動画を描かせると、予想以上にうまかったので、ときどき練習に来るようにと言ってくれた。

12月に東映動画としての採用試験があり、大塚は日動の推薦ということで、臨時採用された。初任給は6500円で厚生省時代の3分の1になった。長編第1作の『白蛇伝』から動画スタッフになり、制作中に第2原画、第1原画と昇格した。第3作『西遊記』でも原画のひとりだった。一方、1962年には労働組合の書記長になった。労組の役員としてともに闘うのが、高畑勲や宮崎駿だ。

手塚治虫は大塚を虫プロにスカウトしようと、自宅に花束を持って頼みに行った。しかし大塚は断った。組合の書記長をしていたこともあるが、虫プロが標榜する「作家集団」という考え方になじめないのもその理由だった。

坂本たちが知り合いに声をかけて勧誘するだけでは間に合わないので、虫プロは3月に、新聞に求人広告を出した。300名近くが応募し、7名が採用された。

文/中川右介
写真/shutterstock

アニメ大国 建国紀 1963-1973
テレビアニメを築いた先駆者たち

著者:中川 右介

2023年10月20日発売

1,265円(税込)

文庫判/576ページ

ISBN:

978-4-08-744583-1

『鉄腕アトム』から『宇宙戦艦ヤマト』まで世界を魅了する日本アニメ
その礎を築いた人々を描く群像劇

90人が1年をかけて90分のアニメ映画を作っていたとき、20人ほどで毎週30分のテレビアニメを作ろうとしたマンガ家がいた。その無謀な挑戦は成功し、キャラクター商品が売れに売れ、多くの追随者を生んで一大産業になる。テレビ・出版界の野心に憑かれた人びとの熾烈で常軌を逸した行動は何を生んだのか。1963年の『鉄腕アトム』に始まるテレビアニメ黎明期を、手塚治虫を中心に描く歴史巨編。

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