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テレビアニメの大ヒットが皮肉にも、人気漫画家と漫画誌との蜜月終了のきっかけに。「マジンガーZ」がジャンプからテレビマガジンに移籍した背景

集英社オンライン / 2023年11月19日 12時1分

今では当たり前のように認知されている漫画家と漫画誌の専属制度だが、1973年当時にはまだすべての漫画家が専属契約を結んでいるわけではなかった。そんななか、ライバル雑誌に人気漫画の連載が移るきっかけとなった背景には、テレビアニメ『マジンガーZ』の大ヒットがあった。

松本零士登場

瑞鷹エンタープライズの高橋茂人は『宇宙戦艦ヤマト』について、小野耕世のインタビューでこう語っている。

〈あの企画そのものは西崎義展氏がズイヨーの役員だったとき、彼が企画していました。キャラクターは何人かに頼んで断られたあと、松本零士氏が描いたもので、それで決定した。はじめは帆船のようなものを描いてきて、船の名は、武蔵そのほかいろいろ出ていましたね。雑談のなかで「戦艦を飛ばしたら?ヤマトなんかはまだ日本人の思い出のなかに大きく残ってるよ」と話したのを覚えています。



結局「宇宙戦艦ヤマト」になった。当時、ズイヨーは、「ハイジ」をフジテレビから放映中で、道義上そのまったく裏の時間帯に「ヤマト」を日本テレビで放映するわけにはいかない。それで西崎は別会社の形をとって、そこでこの企画を進めた。西崎がズイヨーを退社するときに「ヤマト」と「ワンサくん」は彼の所有としたので、ズイヨーとのあいだに問題はないが、松本氏とのあいだに争いがあったようですね。〉

高橋の言うことが正しいかも検証が必要だが、この証言から西崎が瑞鷹エンタープライズを離れた理由のひとつがうかがえる。

松本零士はこの本の最初に登場している。1943年、5歳の年に手塚治虫と同じ映画館でアニメーション映画『くもとちゅうりっぷ』を見ていた子だ。

松本零士は手塚の10歳下で石森章太郎と生年月日が同じだった。福岡県で生まれ、父は下士官から叩き上げで陸軍少佐にまでなった軍人だ。アニメもマンガも好きな少年となり、高校時代、石森と同じ1954年に「漫画少年」にデビューしていた。手塚治虫が締切に追われて福岡へ来たときは、呼び出されてアシスタントをしたこともある。

1957年に松本零士は上京し、石森や赤塚不二夫同様に、少女マンガを描いていた。当初は「松本あきら」名義で、61年に「松本零士」とし、講談社の「ぼくら」にSF冒険活劇『電光オズマ』を連載する。こうして少年誌にも本格的に描くようになり、68年には集英社の「少年ブック」に『光速エスパー』を連載した。

『鉄腕アトム』のテレビアニメが放映開始となった1963年、松本はマンガ家としてデビューしていたが、ヒット作はなかった。テレビアニメになる作品もなく、知名度は低かった。『宇宙戦艦ヤマト』のおかげで、広く知られるようになる。

1971年から「週刊少年マガジン」に連載した4畳半もの『男おいどん』と、「週刊少年サンデー」に73年から載った「戦場まんがシリーズ」がヒットして、松本のマンガファンの間での知名度は高まった。

『宇宙戦艦ヤマト』に松本零士がいつから加わったかは、本人を含めて関係者の証言が食い違うが、ある程度、骨格ができてからというのは共通する。

『宇宙戦艦ヤマト』の企画が動き出すのは『ワンサくん』が始まった1973年4月前後から虫プロ倒産の11月までの間だ。74年1月からは『アルプスの少女ハイジ』の放映が始まる。『ヤマト』のパイロット・フィルムは74年8月に完成し、10月からよみうりテレビ(日本テレビ系)での放映と決まる。それが『アルプスの少女ハイジ』と同じ時間帯だったので、西崎は瑞鷹エンタープライズを出たというのが、高橋の説明だ。

パイロット・フィルムは、西崎が自分の会社であるオフィス・アカデミーに作らせている。同社はアニメのスタジオではないので、虫プロにいた野崎欣宏が中心となって、虫プロのスタッフを集めていく。富野由悠季や安彦良和も絵コンテを描いた。

『デビルマン』のラストスパート、
『マジンガーZ』の移籍

アニメ『デビルマン』は、放映開始から9か月後の1973年3月31日が最終回だった。

アニメが終わると知った「週刊少年マガジン」編集部は、連載も3月で終えてくれと通告してきた。その通告は2月にあり、あと2か月もない。マンガ版とアニメ版とはまったく別のストーリーとなっていて、マンガ版は人間と悪魔との最終決戦という壮大なスケールに発展していた。永井豪としてはあと1年くらいかけて、じっくりと描くつもりだった。

その1年分の構想を、2か月分の枚数に圧縮するのはとても無理なので、どうにかさらに2か月、5月までの延長を頼み、受け入れられた。

『デビルマン』のラストスパートに集中するため、「少年サンデー」の『まろ』と、人気絶頂の「週刊少年チャンピオン」での『あばしり一家』の連載を3月で終えた。これで『マジンガーZ』との2本だけになった。「少年サンデー」と「少年チャンピオン」には、『デビルマン』が終わったあと、73年9月から、『ドロロンえん魔くん』と『キューティーハニー』を連載する。

一方、『マジンガーZ』は絶好調だった。アニメは視聴率も高く、延長される。しかし、その人気が仇となった。『マジンガーZ』を連載している「少年ジャンプ」は、小学3年生から中学生が読者層の中心で、この年齢だと玩具はそれほど買ってくれない。

そこで、玩具の主要顧客である幼稚園児から小学校低学年を対象とする雑誌への連載も求められた。小学館ならば「幼稚園」や「よいこ」、「小学1年生」があるが、集英社には該当する雑誌がない。一方、『仮面ライダー』シリーズの幼年向けコミカライズのために創刊された、講談社の「テレビマガジン」は、ライダー・シリーズの人気に勢いがなくなり、部数が減っていた。そこで永井豪に、『マジンガーZ』を連載できないかと打診してきた。まさに、両者の思惑は一致した。

ところが、それを知った「少年ジャンプ」編集長・長野規が、『マジンガーZ』の連載を打ち切ると通告した。長野にとって、ライバル会社である講談社の雑誌と掛け持ちで、同じタイトルのマンガを連載することは容認できなかった。これで大ヒット作『ハレンチ学園』以来の「ジャンプ」と永井豪の関係が切れた。「ジャンプ」での『マジンガーZ』の最終回は8月13日号で、9月発売の「テレビマガジン」10月号から、新たに連載が始まった。


文/中川右介
写真/shutterstock

アニメ大国 建国紀 1963-1973
テレビアニメを築いた先駆者たち

著者:中川 右介

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ISBN:

978-4-08-744583-1

『鉄腕アトム』から『宇宙戦艦ヤマト』まで世界を魅了する日本アニメ
その礎を築いた人々を描く群像劇

90人が1年をかけて90分のアニメ映画を作っていたとき、20人ほどで毎週30分のテレビアニメを作ろうとしたマンガ家がいた。その無謀な挑戦は成功し、キャラクター商品が売れに売れ、多くの追随者を生んで一大産業になる。テレビ・出版界の野心に憑かれた人びとの熾烈で常軌を逸した行動は何を生んだのか。1963年の『鉄腕アトム』に始まるテレビアニメ黎明期を、手塚治虫を中心に描く歴史巨編。

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