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もしもモグラが土を掘り続けることに疑問を持ったら…ドリアン助川が追及する「モグラの限界状況」

集英社オンライン / 2023年11月21日 11時1分

毎日、土を掘ってミミズを食べるだけの単調な日々な疑問を抱くモグラのおじさん。「限界状況」に陥った彼を救ったのは、妻のなにげないひと言だった――ドリアン助川、構想50年の渾身作。人間の心を揺さぶってやまない『動物哲学物語 確かなリスの不確かさ』から「モグラの限界状況」を一部編集してお届けする。

主役は、一匹のモグラのおじさん

心の危機は、越えられそうもない壁に直面したときに訪れるのでしょうか。それとも、平凡な日常から、ふいにやってくるのでしょうか。

これからお話しするのは、みなさんが歩かれている地面の下の、まっ暗な迷路の世界で起きたできごとです。主役は、一匹のモグラのおじさんです。名前をユーさんといいます。



青空がまぶしい秋の日の昼下がりのことです。街はずれの公園では、池のまわりを飛び交うアキアカネを追いかけ、捕虫網を持った子どもたちが走り回っていました。実にのどかな光景です。しかしその直下では、モグラのユーさんがシャベル代わりの手を腰に当て、トンネルのまん中で突っぷしていました。もちろん、真上の公園とは対照的に、陽の差さない地下世界ではなにも見えません。一年を通じて変わらない土の匂いと湿気のなかで、ユーさんは茫然としていたのです。

絵/溝上幾久子

ふだんは、土があれば掘らずにはいられないユーさんです。なぜ、心ここにあらずといった様子で動きを止めていたのでしょう。それは、ユーさんの耳が偶然に捉えた音、おそらくはニンゲンの声が原因でした。

トンネルの壁に体を擦りつけながら移動するモグラは、円筒形の体をしています。耳も飛び出していません。滑らかな毛が覆う頭部に二つの孔があいているだけです。ただ、その感度はバツグンです。しかもトンネル内は、空気振動が拡散せずに伝わるので、ミミズのダンスやオケラの演奏だけではなく、地表のニンゲンの生活音も聞こえてしまうのです。金属の伝声管を通すように、すこし離れた場所のニンゲンの言葉もはっきりと聞こえます。

「ヘイ、ユー!相変わらず、つまんねえことしてんな!」

ユーさんが聞いてしまったのは、下町のあんちゃんが友人をからかうような、どこかに親しみのこもった声でした。気にする必要はなかったのかもしれません。しかしユーさんの胸に、この声はぐさりと刺さりました。「つまんねえ」という言葉が、体の奥までめりこんでしまったのです。

ちょっと待った。ニンゲンの言葉をモグラが理解できるのか?と疑問を持たれた方もいらっしゃるでしょう。そこのところは……よくわかりません。ただ、野山や田畑だけではなく、ニンゲンが暮らしている街の地下にも、モグラたちは迷路の世界を造りあげています。モグラは原始時代からずっと、ニンゲンの言葉を耳にしてきました。それに気づいていないのは、我々ニンゲンの方なのです。

私は、つまらないことをしているのだろうか。

さて、ユーさんです。このモグラのおじさんは自分の行動に対して、つまるとかつまらないとかの判断を下したことがありませんでした。価値観の定規というものをいっさい持たずにこれまで生きてきたのです。

物心ついた頃から、ユーさんは土を掘り続けてきました。なんのために掘るのか、なんて考えたこともありません。掘らなければ食事にありつけないのですから、食べるため、生きていくためだと解釈することはできます。

でも、それよりもなによりも、ご先祖様から受け継いだトンネルが目の前にある以上、体が反応してしまうのです。前方が土でふさがっていれば、手は勝手に動きます。巣から子どもたちが出ていったあとも、ユーさんは土掘りを休んだことがありませんでした。

「つまんねえって……失礼じゃないか。だれだ?」

闇に向かって、ユーさんは抗議の声をあげました。トンネルのなかですから、「だれだ?だれだ?だれだ?」とその声はこだまします。しかし、だれからも、どこからも返事はありませんでした。それがいっそうユーさんをみじめな気分にさせました。

私は、つまらないことをしているのだろうか。ユーさんは、シャベルにしか見えない手をそっと胸に当てました。土くれがぽろぽろと足下に落ちていきます。

あらためて考えてみれば、土を掘るという行為自体にはなんのおかしみもないとユーさんは思いました。掘りながら笑ったことは一度もありません。それでも、闇のなかでずっと掘り続けてきたのです。つまらないと言われてしまえば、本当につまらない人生、というかモグラ生だったのです。しかもモグラである以上、今後もずっと掘り続けるのでしょう。

ユーさんは、自分の体がいきなり重くなったように感じました。まるで、黄鉄鉱を含む岩のようです。立っていられなくなって、へなへなと座りこんでしまいました。

つまらないことをしている私は、つまらないモグラなのだろうか。もしつまらないモグラなのだとしたら、生きている意味があるのだろうか。

考えても、答えは出てきません。今日はもう土を掘るのをやめて、巣に戻ろうとユーさんは思いました。子どもたちが巣立ったあと、口をきくこともなくなった奥さんが待っているだけですが、それでもトンネルでうめいているよりはましだろうと思ったのです。ユーさんは重い体を引きずるようにして、暗い迷路を引き返しました。すると、分岐するトンネルの奥がぼんやりと明るくなっていることに気づきました。カリカリとものを擦るような音も聞こえてきます。

はて、なんだろう? ユーさんは吸い寄せられるようにして、そちらへ近づいていきました。どうやら、木の根に沿ってだれかの巣があるようなのです。明るさの正体は、根と地面のわずかな隙間からこぼれ落ちている陽光でした。その光のなかに、頭頂部が薄毛となった一匹のモグラが浮かびあがりました。彼はシャベルの手で鉄クギを握り、木の根にカリカリとなにか書きつけているところでした。

アズマモグラの旦那の日記に書かれていたこと

「なにをしているのですか?」

ユーさんが問いかけると、薄毛のモグラがゆっくりとした動作で振り向きました。

「見ればわかるだろう。日記をつけているのだよ」

言葉遣いでわかりました。ユーさんと同じ、東日本に棲息するアズマモグラの旦那です。

「ここは光が差しこむから、過ぎていく一日がわかる。毎日なにをしたかを記録すれば、単調になりがちな、つまらない我らの生活に、日々の記憶という彩りが与えられる」

おお!と、ユーさんは思わず爪先立ちになりました。克服すべき対象として、「つまらない」という言葉が放たれたのです。しかも反意語として躍り出た「彩り」があまりに魅力的で、ユーさんの胸のなかで虹色のあぶくが弾けました。

求めていたものはこれだったのです。つまらない日常でも、行為を書き留めることで色づけられる!

「あなたの日記を、見てもいいですか?」

「おいおい、人に見せるために書いているのではないよ。まあ、しかし、どうしても、というのなら」

薄毛の旦那は苦笑しながら、シャベルの手でカモンカモンと誘ってくれました。ユーさんは腰を低くして、日記が書かれた木の根に歩み寄りました。

某月某日土を掘った。ミミズを食った。三十四。

某月某日土を掘った。ミミズを食った。二十八。

某月某日土を掘った。ミミズを食った。四十六。

某月某日土を掘った。ミミズを食った。三十七。♪。

生涯を通じての地下生活のせいで、モグラの視力は極端に落ちています。ユーさんは何度も目を擦り、薄毛のモグラの日記を読もうと努めました。

「土を掘って、ミミズを食べるだけの毎日ですか?」

「もちろんだよ。モグラなんだから」

「でも、先ほど、日記を書けば、彩りが与えられるって言いましたよね。いったいどこが、その彩りなんですか?」

オッホン、と薄毛の旦那が咳払いをしました。

「毎日きちんと数字が記されているだろう。これは、その日に食べたミミズの数だ。この数字を見ることによって、どんな一日だったかが思い出せる」

「この ♪ は?」

「よくぞ聞いてくれた。これこそが彩りだ。これはな、食いついた瞬間に、ミミズがどんな声を出して息絶えたのか。その音を表したものだ」

しばらく日記の前に佇んでいたユーさんは、薄毛の旦那に「どうも」と頭を下げ、その場所をあとにしました。本当は、「つまらない日記ですね」と言いたかったのですが、もちろんそんな無礼なことは口にしませんでした。

ユーさんの体は再び重たくなりました。モグラはつまらない生き物だという思いが、より強くなったのです。

関西モグラが口にした、ニンゲンの哲学者の名前

そのユーさんに声がかかったのは、迷路の分岐をいくつか過ぎたあとでした。だれかの巣のなかから、「しけた足取りしとんなあ。一杯、飲んでけや!」と呼び止められたのです。あたりには酒の匂いがぷんぷん漂っていました。

まっ暗ですから、相手の顔は見えません。でも、言葉遣いから、最近勢力を伸ばしてきたコウベモグラだということがわかりました。関西からやってきた彼にも、ユーさんの足音はよほど頼りなく、哀しげに聞こえたのでしょう。

「なにを悩んどうねん?」

酒の飲みすぎなのか、関西モグラはブルージーな掠れ声の持ち主でした。「さあ、飲んでや」と、彼はユーさんのシャベルの手にドングリの盃を持たせました。ユーさんはあとで奥さんに𠮟られるかもしれないと考え、すこし迷いましたが、なんだかもうどうでもいい気分になり、その盃に口をつけました。なにかの根っこを発酵させた酒なのでしょう。ピリッとくる味わいは、ニンゲンが飲む芋焼酎に似たものでした。

「落ちこんどうときは、飲むのが一番や」暗闇のなかで、関西モグラが酒を注いできます。酔いが回ってきたユーさんは、つい愚痴り酒になってしまいました。

「飲まないとやってられないですよね。トンネルのなかで土を掘って、ミミズを食べるだけの毎日です。そうやって一生が過ぎていく。我々モグラは、なんでこんなにつまらない生活をしなければいけないのですか?」

「わあ、なんや、あんた。ちょっとした精神的危機ゆうやつやな。はい、まあ、飲みーな」

関西モグラは自分でもごくりと咽を鳴らし、酒を呷りました。掠れ声が大きくなります。

「わしかて、悩んだことがあるねん。わしらは、生涯暗闇のなかや。しかも代わり映えせえへん生活が永々と続く。それを考えると、どうにもしんどかった」

「本当ですよ。この命になんの意味があるんだろうって考えちゃう」

ユーさんはもう涙目です。うんうん、と関西モグラがうなずきました。

「わしなあ、ごっつい悩んどった頃、大学の教室の地下にねぐらを構えとったんや。ただ寝とうだけで、講義の声が聞こえてくるねん。ほんで、いろいろと勉強した。苦悩に立ち向かうには、哲学しかないと思ったこともあるで。そやけど、ニンゲンやって、考えることの試行錯誤を繰り返しとうだけやとわかった。万能の答えゆうもんはあらへんねん。たとえば、ドイツのヤスパースや」

関西モグラがニンゲンの哲学者の名を口にしました。ユーさんは思わぬ展開に驚き、ドングリの盃を胸に抱きました。

モグラにとっての限界状況

「ヤスパースはのう、死やの罪やの、どうにもならへん壁に出くわすことを、『限界状況に直面する』と表現したんや。そのときわしらの心は初めて、壁を越えた向こう側の、ごっつい存在を意識するようになるねん。それが、生きる、ゆうことの一つの意味やってヤスさんは言うねん。わしはその講義を聴いて、このちっこい目からウロコが落ちたような気分になった。すなわち、しょうもない生活も、ご先祖様から受け継いだトンネルの壁も、わしらモグラにとっての限界状況なんやろうと思うたわけや。それやったら、そこからやってくる苦痛は、えらい気づきをわしらに与えるためのお膳立てゆうことになるんちゃうか。わしは、そう思った」

おお!とユーさんはうなりました。自分が求めているものが近づいてきているような気がしたのです。

「そやからわしは、壁の向こうのごっつい存在に、気が遠くなるまで祈りを捧げたんや。生きとうことが楽しくなる喜びをくださいとな。その結果……」

「その結果?」

答えを早く聞きたくて、ユーさんは身を乗りだしました。

「状況はなにも変わらへんかった。土を掘るだけの生活も、わしの心も、まったく変わらへん。わしは気づいた。わしらは生活のなかで限界状況に直面しとったのではない。もともと、わしらそのものが限界状況の化身やったんや。それやったら、どんな哲学を持ちだしても救いようがあらへん」

ユーさんの口から、「え?」と息が漏れました。

「その代わり、わしはこれに出会った。酒や。酒さえ飲んどったら、気持ちが明るうなる。なに一つ解決せんでも、脳が夢を見るんやからな。いとも簡単に限界状況をぶち破ることができるわけや。つまり、壁の向こうのごっつい存在は、唯一の答えとして、酒を差しだしてくれたゆうわけや。さあ、飲め飲め飲め!酔って、すべてを越えんかい!」

ユーさんはドングリの盃を足下に置きました。「どうも」と短く礼を言い、関西モグラを刺激しないようにそっと後ずさりしました。トンネルのなかに、「飲め飲め飲め!」という掠れ声がこだまします。ユーさんはシャベルの手で耳をふさぎ、座りこんでしまいました。

結局、なにをどうしたところで、つまらない生活から抜けだすことはできないのだとわかってしまったからです。暗闇で土を掘り、ミミズを食べ続けるだけの一生なのです。

「朝から晩まで掘り続けな。そうしたら、悩みは消えるさ」

迷路をどう辿って巣に戻ったのか、ユーさんは覚えていません。「モグラとしての生」に、それくらい絶望してしまったのです。ふと我に返ったのは、「酒臭いよ、あんた」と奥さんに言われたときでした。

「私だって、飲みたいときはあるんだよ」

ユーさんは珍しく奥さんに口答えをしました。暗闇のなかでしたが、奥さんの表情が変わったのがユーさんにはわかりました。

「なんだって?」

「私だって、悩むことはあるんだよ。毎日土を掘るだけの生活だ。子どもたちが巣立ってからは、ここに帰ってきてもなんの喜びもない。酒くらい飲んだっていいじゃないか」

「バカ言ってるんじゃないよ!」

奥さんの声が鋼のように強ばりました。

「たらたら土掘りをして、ぼんやりした時間を作るから悩みってものがやってくるのさ。酒なんかでごまかしてないで、朝から晩まで掘り続けな。そうしたら、悩みは消えるさ」

なんという鬼嫁だろうと、ユーさんは息が詰まりそうでした。酔いも手伝ったのでしょう。ユーさんは仁王立ちになると、「おお、やってやるよ!掘り続けてやるよ!」と叫びました。巣の壁に突進し、猛然と掘り始めたのです。

ぶち切れる、とはこのことでした。やめさせようとする奥さんの声が聞こえたような気もしましたが、ユーさんはシャベルの手を爆発的に動かしました。巣の壁にはすぐに新しいトンネルができました。ユーさんはそのなかに入りこみ、腕よ壊れろとばかり掘り続けました。
もう、まっすぐに掘っているのか、曲がっているのか、どちらに向かっているのか、いっさいがわかりません。

ときおり現れるミミズに咬みつきながら、ユーさんは掘って掘って掘り続けました。すると、薄らいでいく意識のなかで、ユーさんはふと、なにかが見えたような気がしたのです。それは土から生まれ、土に戻っていく自分でした。今はただ、モグラという生き物として暗闇に出現していますが、本来はこの星の、土そのものだったのです。いえ、星そのものだったのです。

どれくらい掘り続けたのでしょう。気づいたとき、ユーさんはまた巣に戻っていました。酔って掘りだしたせいか、トンネルが曲がっていたのです。つまりユーさんは、巨大な円を描くトンネルを掘って帰還したのでした。

そのことを知っているのは、戻ってきたユーさんを喝采で迎えた奥さんと、壁の向こうの大いなる存在だけでした。

「ヘイ、ユー!でかいマルを描くなんてしゃれてるぜ!」

ユーさんは夢うつつのなかで、どこか遠くからの声を聞いたような気がしました。

文/ドリアン助川 写真/shutterstock

動物哲学物語 確かなリスの不確かさ

著者:ドリアン 助川

2023年10月26日発売

2,000円(税込)

四六判/304ページ

ISBN:

978-4-7976-7437-8

動物の生態に哲学のひとさじ。
映画化された世界的ベストセラー『あん』のドリアン助川、構想50年の渾身作!
動物の叫びが心を揺さぶり、涙が止まらない21の物語。
哲学の入門書よりやさしく、感動的なストーリー。
どんぐりの落下と発芽から「ここに在る」ことを問うリスの青年。衰弱した弟との「間柄」から、ニワトリを襲うキツネのお姉さん。洞窟から光の世界へ飛び出し、「存在の本質」を探すコウモリの男子。土を掘ってミミズを食べる毎日で、「限界状況」に陥ったモグラのおじさん。日本や南米の生き物が見た「世界」とは?
ベストセラー『あん』の作家が描いたのは、動物の生態に哲学のひとさじを加えた物語21篇。その中で動物のつぶやき、ため息、嘆き、叫びに出遭ったとき、私たち人間の心は揺れ動き、涙があふれ、明日を「生きる」意味や理由が見えてくる!

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