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『ゴジラ-1.0』はなぜ大ヒットしたのか? 『シン・ゴジラ』と対照的すぎる「民間のヒーローたち」を主人公に据えた山崎貴監督の思惑

集英社オンライン / 2023年11月23日 12時1分

公開からわずか3日間で興行収入10億円を突破し、2023年の実写邦画1位の座に迫る勢いの映画『ゴジラ-1.0』。監督は、『ALWAYS 三丁目の夕日』『STAND BY MEドラえもん』など、巧みなVFXに定評のある山崎貴監督。庵野秀明・樋口真嗣監督で話題を呼んだ『シン・ゴジラ』(2016)とはさまざまな面で対照的な本作が、大ヒットした要因を紐解く。

『ゴジラ-1.0』は『シン・ゴジラ』への返歌のようだ

公開2週間で興行収入21億円を突破し、2023年の興行収入ランキングで実写邦画1位の座も近い。山崎貴監督による『ゴジラ-1.0』は、戦後すぐ、日本が軍備をはぎ取られ、戦後復興も道半ばという時代に設定されている。そうした時代背景もあり、本作でゴジラに対抗するのは国の軍隊ではなく、元軍人を中心とする「民間人」たちだ。



この「民間」の強調は明確に、先行作品である庵野秀明・樋口真嗣監督の『シン・ゴジラ』(2016年)への「返歌」のように見える。政府と官僚組織がほとんど主人公ともいえる『シン・ゴジラ』と、民間を強調する『ゴジラ-1.0』の違いは、いったいどこから生じているのだろうか?

これについて私は文春オンラインで、民間のプロジェクトの強調は、“ハリウッド映画と肩を並べてグローバルな文化産業の場で「日本」を再興したいという願望の表明”として読み解いたと寄稿した。

東宝MOVIEチャンネルより公式予告

本稿ではこれをもう少し違う観点から考えてみたい。キーワードは「官僚」と「民間」との対立である。もし、『シン・ゴジラ』が官僚的なものへの信頼を中心とするなら、「民間」を強調する『ゴジラ-1.0』は「民営化」を金科玉条とする新自由主義的な感性の作品なのだろうか。

答えはもちろんイエスであるものの、限定的なイエスである。国家や国民的なものを否定してグローバリゼーションを肯定するのが新自由主義だが、この作品には『ALWAYS 三丁目の夕日』『永遠の0』に通ずる、山崎監督らしいナショナリズムに見えるものがある。それとどのように折り合っているのか。この問題の解答が得られずに残るからである。

この問題を、「官僚」と「民間」をキーワードに考えてみたい。

*ここからは『ゴジラ-1.0』の結末の示唆を含みます。

日本の敗戦を個人のトラウマにすり替える

『ゴジラ-1.0』は「官僚」と「民間」というこの問題について、かなり複雑な手続きを踏んでいる。

まず主人公の敷島(神木隆之介)は暴走した国家と官僚的組織(戦時の軍隊)の犠牲者である。彼は「特攻」という、国家による非人道的な命令の犠牲者なのだ。ところが、この映画はそれを、大戸島でゴジラに攻撃をできず、同朋軍人を見殺しにしてしまったことに対する敷島の個人的な悔恨へとすり替える。

北米プレミアの様子。山崎貴監督(左)と神木隆之介(右)

特攻から逃げたこと(これは人道の観点からは正当なはずである)が、ゴジラを攻撃できなかったことにすり替えられ、その結果、敗戦=日本の去勢という大状況が敷島の個人的トラウマもしくは去勢にすり替えられる。

『シン・ゴジラ』でアメリカ軍が積極的に介入していたのとは違い、国際政治(アメリカのプレゼンス)は冷戦の始まりを口実に消し去られる。そのような状況から敷島が抜け出す近道はもちろん、特攻を再演して自爆死することである。それは、『ゴジラ-1.0』を敷島個人の悪夢から、再び日本戦中・戦後史へと引き戻しただろう。戦時の官僚制の暴走、そして敗戦という歴史へと。

主人公が「民間ヒーロー」だったワケ

だが、それは世界市場をにらむエンターテインメント大作として陰惨すぎるだけではなく、「戦えなかったぼく」を「戦える/戦えたぼく」へと修正したいという欲望、つまり日本の再軍備化(改憲)への欲望をあまりにも赤裸々にさらけ出してしまうことになるだろう。また、当たり前だが、この「自爆テロ」の時代に特攻を美化するなど、できようはずもない。

それに解決をもたらすのが、(少々ご都合主義的にも思える結末に加えて)「民間」の強調である。『ゴジラ-1.0』の英雄たちは国家の英雄ではあり得ない。それは、自主的に集まった文民の英雄たちでなければならない。

このことは、12月刊行予定の拙著『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(集英社新書)および11月刊行予定の拙著『はたらく物語 マンガ・アニメ・映画から「仕事」を考える8章』(笠間書院)での議論に照らし合わせてみるとより理解しやすい。

前者の『正義はどこへ行くのか』で私は、日本のヒーローものを「官僚的な組織の正義」と「それを疑う民間組織」の対立で読み解いた。『シン・ゴジラ』の庵野秀明は基本的に官僚的な組織の有能性を志向しつつ、その不可能性にむしばまれてきた作家である。また後者の『はたらく物語』では、『僕のヒーローアカデミア』や『株式会社マジルミエ』など、近年顕著な「企業ヒーローもの」を、「市場」が正義となった新自由主義状況の文脈で読み解いた。

「ものづくりジャパン」へのノスタルジアが大ヒットに繋がった?

『ゴジラ-1.0』は、そのような意味での新自由主義の作品なのだろうか。

『シン・ゴジラ』と『ゴジラ-1.0』の対立においては確かにそう見えるし、それ自体は間違いではない。だが、冒頭で述べたとおり、それでは『ゴジラ-1.0』が明確に志向する──そして山崎貴監督の他の作品も志向する──ナショナルなもの、「日本」への志向はどう考えればよいだろうか。

先述の記事では私はそれをグローバルな文化産業市場における日本的なものの商品化と説明した。だが、ここにはもう一つの説明がありうる。

それは、「小さな政府」を標榜する新自由主義が、経験的には権威主義的な国家をともない、それによって推進されてきたという事実である。例えば現在進められている高等教育(大学)改革を考えてみればよい。それは大学教育を「市場化」するという目標を掲げつつ、実際は大学を国家の権限の下に置き、直営とすることによってそれを達成しようとしている(現在進行中の国立大学法人法「改正」をめぐる議論を参照)。

つまるところ、「国家か市場か」という新自由主義が提示する二者択一は幻想なのだ。それらはこれまで結託し続けたし、これからもそうだろう。

『ゴジラ-1.0』公式ポスター

『ゴジラ-1.0』は「ものづくりジャパン」へのノスタルジアにあふれた作品である。そして「民間のヒーローたち」の集団的なプロジェクトを中心に据えたことは、この映画の人気の秘密であろう。だが、「民間」を強調するこの(新)自由主義が、去勢された日本の再軍備化の代替物になりうることは、矛盾ではない。現実においてそれらは一体のものだからだ。国家と資本の結託は、新自由主義というまやかしの世界観を経ても消え去ってはいない。その限りにおいて、『ゴジラ-1.0』における「民間」を、文字どおりに読むことは許されないのである。

文/河野真太郎
写真/Shutterstock ゲッティイメージズ

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