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「自分の娘がもし殺されたら、司法になんて委ねたくないね」裁判制度があっても、復讐の思いは消えない…現代のキャンセル・カルチャー問題

集英社オンライン / 2023年12月8日 11時1分

加害者がいつまで責任を負うかについて決めるのはいったい誰なのだろうか? 裁判や刑罰が人間の憎しみまで消すことができるのだろうか。書籍『ルールはそもそもなんのためにあるのか』を一部抜粋・再構成し、現代のキャンセル・カルチャーと哲学者カントが唱えた理論を交えて、人間の罪と罰について考える。

裁判制度があっても、復讐は消えない──
キャンセル・カルチャー問題

いろいろな紛争を裁判で解決することが常識となっている現代でも、まだまだ人々の復讐心は絶えていない。『必殺仕事人』など復讐代行の暗殺者ものの人気が強いこともその表れである。たとえ判決が確定しても、被害者側や社会の人々が刑の内容に納得しないということは少なからずあるし、裁判自体が誤審だったのではないかと有志が再調査するケースもある。裁判は万能ではない。



そして、裁判の俎上にのらないものの、人々が〈道義にもとる悪質なこと〉と考える事柄に対して、現代においても怨恨そして復讐心が発動される場合がある。但しその場合、本人たちは復讐などと思っている訳ではなく、裁判では実現されない正義の行使だと確信している。そのひとつが「キャンセル・カルチャー」である。

キャンセル・カルチャーはSNSを用いて、社会的に重要な立場にある著名人の隠蔽された過去の犯行や前科、不祥事を明るみに出すことによってその人の責任を追及し、結果的に失脚させるなどの活動を指す。もちろんこれは現代の正義実現の新たな一手段となりうる。

泣き寝入りさせられてきた被害者たちが声をそろえて告発し、密かに罪を犯してきた社会的強者の法的責任を明らかにし追及するというかたちで、である。

2017年にアメリカの映画界大物プロデューサーが、過去30年にその立場を利用して多くの人々に性的暴行を行ってきたことを被害者たちによって告発され、結果的に逮捕されたという事件はまさにその典型である。

ハーヴェイ・ワインスタイン被告

しかし一方でキャンセル・カルチャーは、SNSという匿名性のある手段を用いて、ある人物の過去から現在にわたる何らかの言動(必ずしも法律違反ではない)によって傷つけられた人々や、そこまでいかなくてもそれに「義憤」する人々が、それらを暴露することによってその人物を失脚させる手段としても使われる場合もある。

この場合は、法的に裁かれずにのうのうと活躍している人物、あるいは受刑を終えたがそれでも許せない人物に対する、被害者の消せない恨みを晴らすべくその者を社会的に抹殺するための手段、つまり復讐の手段ともなり得る。

これらのケースの中には、加害者が反省し謝罪し償っても、被害者側が納得しない限り生涯許されないといわれることもある。しかしこの場合、加害者がいつまで・どのように責任を負うかについて決めるのはいったい誰なのだろうか?

被害者主導で決めるのだとすれば主観的、一方的であるし、怒りの感情が持続する限り加害者は許されないことになる。犯罪とはいえないが道義にもとる愚行については、被害者側やそれに同調する人々の心情次第でいつまでも再起が許されないことになるが、それはリンチだろう。

復讐するは誰にあり?

カントはこうも述べている。最高の立法者(すなわち神)のみが「復讐するは我にあり、我これに報いん」(ロマ書)と言いうる。何人も他人から被った凌辱を復讐する機能をもたない。なぜなら、「人間は自ら寛恕(かんじょ 広いこころを持って許すこと)を乞うべき自らの罪を多く負っているからであり、(中略)しかもとくにいかなる刑罰も、それが誰から出るにしても、憎悪から科せられてはならないからである。したがって寛恕(かんじょ 広いこころを持って許すこと)は人間の義務である」。

皆、自分の過去を振り返ってみればいい。大なり小なり、いっさいの罪を犯していない清廉潔白な人間だと胸を張って宣言できる人があろうか?だから何者も、他人を生涯復讐し罰し続ける権限をもたないということだ。

自分はキリスト教信者じゃないから神の言葉なんて関係ないし受け入れられない、という読者もおられよう。そう考える方はそれでいい。私もキリスト教信者ではない。だが、犯した悪いことを反省し謝罪する人に対して、いつまでも「お前の謝罪は真剣じゃない」と責め続け、再起を拒み続けるのはいかがなものだろうか?憎むべき相手だが、いつかやり直す機会を認めるという思考はないだろうか?

謝罪する側にも「何でここまで責められる」と納得しきれない部分が残っているだろうし、被害者側にもこいつは絶対に許せないという気持ちはあるだろう。しかし人間社会を維持していこうとするなら、前者は真摯に謝り、後者は相手の謝罪を受けとめ、そうやって一応の決着をつけるというのが、人間の知恵ではないだろうか。

イマヌエル・カント

とはいえ……

だが裁判による決着、あるいは寛恕の心といっても、復讐心が人間社会から消えることはないだろう。言い方を換えると、裁判や刑罰という人類の知恵も、人々のさまざまな軋轢や憎しみを解消することはけっしてできない。

娘を不良たちに惨殺された刑事が、その関係者の反社会的勢力の弁護を引き受けている弁護士に問い詰める。

「あんた、自分の娘が殺されたら、同じように弁護できるのか?」

弁護士は答えた。

「弁護士の使命は社会正義の実現と人権擁護だ。感情的に冷静な判断ができない依頼はプロとして身を引くべきだと考えてる」

しかしその後、こう言った。

「自分の娘がもし殺されたら、司法になんて委ねたくないね」

私が愛読している真鍋昌平の漫画作品『九条の大罪』の台詞である。

写真/shutterstock

『ルールはそもそもなんのためにあるのか』 (ちくまプリマー新書)

住吉 雅美 (著)

11月9日発売

880円(税込)

176ページ

ISBN:

978-4480684660

ブルシットなルールに従う前に考えてみよう!
この国で疲弊しているあなたには「法哲学」が必要だ

決められたことには疑問も持たず従うことが正しいと思っている人が日本社会には多い。だが、ルールはどういう趣旨で存在するのか、その目的を理解した上で従うものではないか?

ルールの原理を問い、武器に変える法哲学入門。

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ルールは、そもそも何でそういうルールが作られたのかという目的を考えなければ理解できないし、また、それを忠実に守ることによって自分が得られる利益と、それを破ることによって得られる利益とを天秤にかける必要も出てくる。……

私は、守った人が損をするルールはダメルールだと考えている。その意味では日本の議会、政府、自治体は、ルール作りがヘタッぴだなーと思っている。そういう怒りを込めて、この本を書こう。……

フランスのアナーキスト、ピエール・ジョセフ・プルードンは言った、「法律は、金持ちにとっては蜘蛛の巣。政府にとっては漁網、人民にとってはいくら身をよじっても脱けられない罠」だと。まさに今の日本の状況そのものじゃないか!……

こんな日本でルールをどう語ったら良いのか。政府や役所を信頼してもしょうがないから、庶民が各自の生活と命を守るための自生的なルールの可能性を考えてみよう。
(はじめにより)

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