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「うちの近所でこれやられたら迷惑だ」庭先での花火の投稿が炎上…SNSを介して正義を振りかざし、誰かを叩きたい人が陥っている病

集英社オンライン / 2023年12月10日 11時1分

2023年夏、ある芸能人が実家前で花火を楽しんでいる写真を自身のSNSにアップしたところ、「住宅街でフェスほどぶち上げる神経が分からない。通報する」といった批判が寄せられた。ルールに対して思考停止になってしまっている状況を、書籍『ルールはそもそもなんのためにあるのか』から一部抜粋・再構成して解説する。

清濁併せ呑むのがルールである

私の好きな言葉のひとつに「清濁併せ吞む」というのがある。いわゆる善いもの、きれいなことだけを受け入れるのでなく、汚れたもの、悪とされることも公平に受け入れる度量の大きさをいう。このことわざの由来は中国前漢時代の歴史書『史記』にある。大海は清流も濁流も差別なく受け入れる。水が清らかか否かで選別することはない。



そしてこの語源に、実は法令も関わっている。『史記』の中に「法令は治の具にして制治清濁の源に非ず」という一文がある。統治のために作られる法令は、清濁を裁くものではないという意味である。

法令でさえそうなのだから、それに限られないルールというものは、より清濁を併せ吞むべきではないだろうか。つまり多種多様な価値観をもつ人間同士の共同生活が円滑に営まれるよう、臨機応変で柔軟で、誰かにとってのきれい事だけを押しつけない、その意味でファジーでグレーなもの。

たとえば法定速度は守らねばならないとされているが、北海道の誰もいない見晴らしのよい道路をひとり走るときまで遵守する必要があるだろうか。

だからルールとは、人為的に作るものではなく、人々の日常生活での営みから自然に生じて、皆に利益を与えるがゆえに喜んで受け入れられ続けられるものがもっともよい。

「誰が設計したのでもなく、誰にも理由がわからないような社会過程の産物に従おうとする心構えもまた、強制をなくそうとするなら欠かせないひとつの条件である」とオーストリア出身の経済学者フリードリッヒ・フォン・ハイエクは述べている。

ハイエクは社会の人々に対する特定の価値観や目的の強制を心底嫌った。価値の尺度は個人の内にしかない。だからルールとは、各人の価値観を最大限に尊重し、本人に自らが追求しようとする幸福の内容を決定させ、他者に危害を加えない限りは、他者からも迫害されないようなものであるべきだと主張していた。私も同感である。

ちなみに、談合は現代では法的には絶対的不正とされている。公正な競争を損なうからだ。しかし談合の由来をご存じだろうか。明治時代の初め、来日したアメリカの有名な動物学者を誰の人力車に乗せるかについて、4人の人力車夫が話し合った。そりゃあ4人とも有名人を乗せたいはず。

しかし彼らは奪い合わずに、長さの違う麦わらでくじ引きをして決めた。最も仕事に恵まれていない車夫に譲るためにである。こうして商売の機会を仲間内で融通し合い、業界内での共存共栄を図るという意図も、談合の起源にはあった。競争よりも共存共栄による皆の幸せを求める。こういう一面もあったということは知っておいてもいいだろう。

ルールとは思考停止の遵法精神を要求するものではなく、関わる人々の想像力と相互的配慮を伴うべきものだと思う。白黒つけるのは、法律に任せておけばよい。

毒も栄養も喰らうのが人間である

ところが最近、自生的なルールが声高な人々によって偏ったものにされ、法律以上に何かを排除するものになってきている。その背景のひとつにはSNSがあるだろう。

2023年夏、ある芸能人が、帰省先の実家前の駐車スペースで自分の子供たちや近所の子供たちと花火を楽しんでいる写真を自身のSNSにアップしたところ、「うちの近所でこれやられたら迷惑だ」とか「住宅街でフェスほどぶち上げる神経が分からない。通報する」といった批判が寄せられた。

もちろん「大人が見守る中で子供たちが花火を楽しむ微笑ましい光景だ」「夏の一夜くらい子供たちに手持ち花火やらせてあげてよ」などと、この写真や記事を支持する反応が多く見られた。

批判コメントを見ると、自分に直接害があったわけではないのに、「住宅街で花火をやるべきでない」という個人的な意見を一般化しようという欲求が垣間見える。それが問題なのだ。

SNSでの投稿は不特定多数の目にとまり、さまざまな価値観をもつ人々の反応を呼ぶ(それが隠されてきた不正や犯罪を明るみに出すという利点ももつことはもちろん認めるが)。その際、自分の価値観が正しいと信じ、かつそれをわざわざ言いたい人が、匿名性に隠れて自分の意見を強く主張する。

いわゆる「ネット世論」では、少数だが自分の意見に強い思いをもつ人々の意見が繰り返し投稿されることがある。繰り返し主張されれば、やがてそれが一種の〈公序良俗〉と化して人々を暮らしづらくすることもある。

ルールは、自分の価値観が絶対だと思い込んでいる人、極論を主張したい人、声の大きい人がSNSを手段として変えられるものであってはならない。SNSを介して自分の〈正義〉を振りかざし、いつも誰かを叩きたい人は、いわば心の栄養失調に陥っているといえよう。

私の好きなもうひとつの言葉がある。『グラップラー刃牙』の登場人物で「地上最強の生物」と呼ばれる範馬勇次郎のこの言葉だ。

「防腐剤…着色料…保存料…様々な化学物質、身体によかろうハズもない。しかしだからとて健康にいいものだけを採る。これも健全とは言い難い。毒も喰らう、栄養も喰らう。両方を共に美味いと感じ――血肉に変える度量こそが食には肝要だ」

SNS時代、皆、心に毒も栄養も喰らっておおらかに生きよう。

写真/shutterstock

『ルールはそもそもなんのためにあるのか』 (ちくまプリマー新書)

住吉 雅美 (著)

11月9日発売

880円(税込)

176ページ

ISBN:

978-4480684660

ブルシットなルールに従う前に考えてみよう!
この国で疲弊しているあなたには「法哲学」が必要だ

決められたことには疑問も持たず従うことが正しいと思っている人が日本社会には多い。だが、ルールはどういう趣旨で存在するのか、その目的を理解した上で従うものではないか?

ルールの原理を問い、武器に変える法哲学入門。

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ルールは、そもそも何でそういうルールが作られたのかという目的を考えなければ理解できないし、また、それを忠実に守ることによって自分が得られる利益と、それを破ることによって得られる利益とを天秤にかける必要も出てくる。……

私は、守った人が損をするルールはダメルールだと考えている。その意味では日本の議会、政府、自治体は、ルール作りがヘタッぴだなーと思っている。そういう怒りを込めて、この本を書こう。……

フランスのアナーキスト、ピエール・ジョセフ・プルードンは言った、「法律は、金持ちにとっては蜘蛛の巣。政府にとっては漁網、人民にとってはいくら身をよじっても脱けられない罠」だと。まさに今の日本の状況そのものじゃないか!……

こんな日本でルールをどう語ったら良いのか。政府や役所を信頼してもしょうがないから、庶民が各自の生活と命を守るための自生的なルールの可能性を考えてみよう。
(はじめにより)

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