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「達観なんか、全然していなかった」ドキュメンタリー映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』の監督が語る、本当の瀬戸内寂聴【前編】

集英社オンライン / 2022年5月27日 10時1分

2021年11月に99歳で死去した瀬戸内寂聴に、17年間密着取材した中村裕監督。ドキュメンタリー映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』で写し出される彼らの関係は、見ているこちらが照れくさくなるほど親密だ。「私の臨終を撮って商売にすればいい」と言われるほどに信頼された“親友”が語る、瀬戸内寂聴の素顔とは――。【後編】はこちらから

17年も関係が続いたのは、偶然だった

――中村監督と寂聴さんの出会いを教えてください。

2004年にテレビのドキュメンタリー番組の取材でお会いしたのが瀬戸内寂聴先生(以下、先生)との出会い。取材が終わってからも関係が続いたのは偶然だと思います。当時から、ずっと先生を撮り続けたいと思っていたわけじゃなかったですしね。大きかったのは、翌年に別番組で先生と一緒にフランスに行ったこと。別の作家が急遽ロケに行けなくなってしまったので、穴埋めするために「先生を口説いてくれ」と言われまして。ダメもとでオファーをしたら、番組のためにスケジュールを空けてくださったんです。



その翌年にも、先生の番組を撮らないかとNHKからオファーを受け、世阿弥の晩年に焦点を当てた『秘花』執筆のための佐渡島取材へ同行しました。強行軍だったので現場で僕がイライラすることもあったのですが、先生はスタッフたちに気を遣ってお茶を配ってくれたり。本当に優しかったですね。

結局、先生のテレビ番組は17年の間に9本制作。ほかにも一般の方の身の上相談を受ける動画配信番組を5年ほど担当しました。

――映画を制作することになった経緯は?

2009年頃から「私が死ぬまで撮りなさい」と言われるようになったんです。年に5〜6回、先生が暮らす京都の寂庵に行ったり、先生が東京に来られたときにカメラを持って宿泊しているホテルに会いに行ったり。どこかで食事をするときもずっとカメラを回していたので、いつか形にしようという話になり、タイミングとしては100歳の誕生日(2022年5月15日)くらいに映画を発表しようと予定していました。

ところが去年の秋に亡くなってしまいまして。僕自身、ちょっとモチベーションが失せてしまったんですね。本来ならば元気なうちに仕上げて、「こんなところを撮って!」なんて先生に怒られることを思い描いていましたから。

僕が元気な先生に最後にお会いしたのは、2021年の6月8〜9日。いつも通り寂庵のダイニングテーブルでしゃべっていたのですが、お酒が入っていたので内容をよく覚えていなかったんです。ところがそのとき撮った映像を亡くなった後に見返したら、「映画を作るんだったらちゃんと計画して撮りなさいよ」と先生が僕を怒っているシーンがありまして。これはちょっとまずいぞ、供養のためにもちゃんと作らなきゃいけないと思い、今年の3月から1ヶ月、編集室に泊まり込みをして仕上げました。

寂聴さんは中村監督(左)を「裕さん」と呼んでいた

――劇中では監督が一人称でナレーションをされていますね?

2006年くらいまでは、一問一答でインタビューをする一般的な番組の作り方をしていたんです。先生もお坊さんの格好をして、メイクをして、こちらもライトを当てて。でも「私が死ぬまで撮りなさい」と言われてからは、お金がかかるので取材のたびにカメラマンを連れて行くこともできなくて。途中からは僕が個人的にカメラを買って、インタビューというよりも個人的な雑談をしながら撮るスタイルになっていったんです。

2015年に制作したNHKスペシャル『いのち 瀬戸内寂聴 密着500日』も映画同様、一人称のナレーションを使いました。客観性を重んじるNHKの方程式には当てはまらない作り方でしたが、先生の生き様を描くためには、そのチョイスがベストだと思ったんです。

――年末年始に寂庵に宿泊されることも多かったそうですね。

寂庵は尼寺なので、本当はあまり男を泊めてはいけないんですけど、先生の身の回りのお世話をするスタッフはみんな17時には家に帰るので、夜はおひとりになるんです。僕は妻もいないし子供たちはみんな独立していますので、「もし嫌じゃなければ泊まりますよ」と提案して寂庵で年を越すようになりました。

劇中ではすき焼きとお寿司とステーキがいっぺんに食卓に上がるシーンが出てきますが、日頃からあんな食生活をしていたわけではありません。僕が久しぶりに寂庵にお邪魔したときに、最大限に歓待するために用意してくれたもの。あまりの豪華さにビックリ仰天しました。僕に限らず、人をもてなすときの先生の気持ちの入り方はすごかったと思います。

出家後も、誰より人間臭く生きたと思う

――劇中では、死について言及する場面も多く、「ボケた」と悲嘆して子供のように泣きじゃくる寂聴さんの姿が印象的でした。

2020年あたりから、人生の終末について話すことが多くなっていきました。根を詰めて仕事をしていた人なので、書きたいものがあっても体力がもたなくなっていることをシビアに感じていたんだと思います。

とはいえ、17年の間には何度も「これが最後の正月」という話をされていましたし、ずいぶん騙されてもきたんです(笑)。2006年頃から「生き飽きた」という言葉はたくさん聞いてきましたから。「飽きたというのは希望がないということですか?」と聞くと、「飽きることと絶望は違うのよ」と笑っていました。つまり、常にどこか希望を持っていたし、最後の最後までギブアップしなかったように思います。

2021年の10月下旬に入院して一時、危篤状態になり、11月4〜5日に本当に近しい方が病院に呼ばれました。僕も呼んでいただき、先生の耳元で「退院したらシャンパン飲みましょうね」と言ったら、頷いていました。そのときに僕が不思議と悲観しなかったのは、ろうそくの火が消えかかっている感じがまったくしなかったから。むしろ松明が燃えているくらいの印象を受けたんです。もしかしたら元気になるかもしれないと思いましたが、9日に「今息を引き取りました」というスタッフの方からのメールを受け取りました。

実はそのときから今まで、僕は一度も涙を流していません。葬儀にも呼んでいただきましたが、亡骸を見たら亡くなったことを認めることになる気がして、お顔を一度も見ませんでした。映画の編集をしているときは、元気な先生の姿をずっと見ていましたからね。実感がないのがずっと継続している感じです。

――法話では「亡くなっても魂は愛している人のそばにいます」と、寂聴さんが相談者の方を慰める場面がありましたが、その感覚でしょうか?

先生から連絡が来ることはなくなったけど、まだどこかにいる感じがしますね。ただ、先生自身は「やっぱり死んだら無だと思う」って言うこともあったんです。そして次の日には「死んだ後に亡くなった人の行列についていくと、知り合いに会って“元気?”なんて言い合う感じがする」とおっしゃったり。亡くなる日が近づくにつれて、気持ちの揺れ幅が大きくなっているような気がしました。

僧侶の中では位の高い方ですが、基本的にはみなさんと同じところに立ってものを言っていたし、気持ちも揺れたり、ブレたりするところがすごく先生らしかった。全然、達観してなかったですよ。煩悩ともずっと向き合い続けた人ですからね。出家してからも、人間臭く生きていたと思います。

『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』(2022)上映時間:1時間35分/日本
配給:KADOKAWA
5月27日(金)より全国公開
©2022「瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと」製作委員会
公式サイト
https://movies.kadokawa.co.jp/jakuchomovie/

取材・文/松山梢

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