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「体育の先生」と聞いてまずイメージするのは男性? 退役軍人を優先採用? 日本における体育の授業の成り立ちと変遷

集英社オンライン / 2023年12月20日 8時1分

近年、体育が嫌いな児童生徒が増えているという。厳しい先生が軍隊のような号令をかけるといった「規律」や、そもそも運動が嫌いという理由だけでなく、さまざまな要因で体育が嫌いな子どもたちが増えたそうだ。その原因を考察した書籍『体育がきらい』より、そもそも日本での体育の成り立ちについて解説した章を一部抜粋・再構成してお届けする。

体育の先生は軍人的?

私たちが体育の先生に対して抱いているイメージの起源について、昔からよく指摘されてきたことがあります。それは、歴史的に体育の先生には、軍隊を経験した人が多かったということです。そして、これは一つの事実です。

細かい話は省きますが、少なくとも、日本において学校教育が明治時代に始まった頃には、軍隊を退役した人を、優先的に体育の先生として採用していたことがありました。現在の学校教育の原型は、1872(明治5)年の「学制」という制度の開始とともに始まりました。その後の1924(大正13)年の調査では、体育の先生の半分以上が退役軍人だったとも言われています。



そこから、1945(昭和20)年に日本が太平洋戦争に敗戦し、学校教育の抜本的な改革が行われるまでのおよそ70年の間、なんらかのかたちで、退役軍人が学校の体育にかかわっていたと考えることができるわけです。

2023年の現在から振り返ってみると、日本の学校における体育の歴史の約半分は、退役軍人を体育の先生にしていくことを、国として進めていたという事実が見えてきます。そして、このような歴史を踏まえて体育の先生のイメージに話を戻していくと、そこには必然的に、「軍人的」なイメージが見出されることになります。

ここで軍人的と言われるイメージには、前章でも述べた「規律」や「管理」のイメージがピッタリと重なります。つまり、整列や号令、そして行進などは、まさに軍隊において求められていたものと合致しているわけです。したがって、そのような体育の授業における先生の役割とは、さながら軍隊の指揮官のようなものであったと考えられます。言われてみれば、「気をつけ」や「休め」なども、完全に軍隊の名残だということがわかります。

余談ですが、私たちが経験している「気をつけ」の姿勢は、昔の軍隊で行われていたものとは全然違うようです。軍隊では踵重心ではなく、上半身を15度前傾させていました(竹内敏晴、1999年、『教師のためのからだとことば考』、筑摩書房)。

それが、次の行動にすぐに移ることのできる、極めて実践的な姿勢だったからです。この点、今私たちが学校でやっている「気をつけ」は、全然動ける感じのない、むしろ固まった姿勢です。これは、昔の名前だけが残っている、形骸化の典型例だと言えます。

体育の先生はスポーツのコーチっぽい?

もちろん、戦後70年以上経った現代では、その影響もだいぶ弱まり、軍人的な体育の先生のイメージはかなり薄まってきたように思います。確かに、思いっきり軍人みたいな先生は、ほとんどいないはずです。その変化にもさまざまな要因が考えられるわけですが、その一つの大きなきっかけは、体育の授業で行われる内容が、前章で述べたような体操中心から、現在のようなスポーツ種目中心に変化したことにあると言えます。

先ほど述べたように、日本の体育は、1945(昭和20)年の敗戦まで、基本的には体操科(戦時中は体錬科)として存在していました。そして、戦後の1947(昭和22)年の「新学制」の開始によって、そのような体育の在り方が大きく変わることになります。

みなさんも歴史の授業などで習ったと思いますが、戦後、日本はアメリカの主導によって、社会のさまざまな場において民主化が図られました。もちろん、そこには学校教育も含まれていました。体育の授業における民主化政策の目玉となったのが、体操中心からスポーツ種目中心への変更であったと言えます。

戦時中の日本では、敵国であった欧米のスポーツを行うことには制限がありました。有名なところでは、敵性語として英語が禁止されたため、野球の「ストライク」を「よし」と言っていたことや、「三振」を「それまで」と言っていたことなどがあります。だからこそ戦後は、むしろその欧米の民主的な文化と精神を象徴するものとして、体育の授業にスポーツ種目が多く取り入れられるようになったわけです。

そうなると、体育の授業で子どもたちが見る体育の先生の姿も、戦前戦中と戦後とでは、ガラッと変わることになります。つまり、戦後の体育授業においては、さまざまなスポーツ種目を教える先生、すなわちそれは、ほとんどスポーツの「指導者=コーチ」のような存在として見られるようになったと言えます。そして、その「コーチ的」なイメージは、今日においてもそのまま受け継がれています。

「君が論じている体育の先生は、
男だけだよね」の衝撃と反省

このスポーツのコーチ的なイメージは、場合によってはより広く、「スポーツマン的」と言われることもあります。確かに、個人的な経験を思い出してみても、職業が体育の先生だと言うと、「じゃあスポーツ万能ですね」といった反応をされることは少なくありません。

ちなみに、この「スポーツマン」という言葉、最近ではあまり使われなくなってきています。なぜかというと、スポーツマンの「マン=man」という言葉遣いが「man=男性」の意味を強く持っているため、「woman=女性」を含めないニュアンスが出てしまうからです。このことは、たとえば、かつて看護「婦」さんと呼んでいたのが、現在では看護「師」さんと呼ばれるようになっていることと、同じような変化だと言えます。

それと同じ論理で、スポーツマンを「スポーツパーソン」と呼ぶようになってきてもいます。これに付随して、「スポーツマンシップ」を「スポーツパーソンシップ」と呼ぶ場合も出てきているようです。

体育の先生を考える本章でなぜこのような話をしたかというと、このジェンダーの観点が、体育の先生についても同様に重要だと考えられるからです。私がこのことを痛感した例を挙げて、確認してみたいと思います。

私が大学院生であったときの話です。体育の先生に関する研究の発表(博士論文の公開審査会)を行い、発表を聞いてくださった先生方からの質問に答えていました。質疑の時間がほとんど終わりかけていたときに、ある先生に次のように言われました。「君が論じている体育の先生に、女性は含まれていないんじゃないですか?」と。これは、衝撃的な質問でした。

なぜそれが衝撃だったのかと言うと、本当に恥ずかしいことですが、それまで何年も体育の先生に関する本や論文を、読んだり書いたりしてきたにもかかわらず、そのことをきちんと自覚したことがなかったからです。

もちろん、女性の体育の先生の授業を受けたことは何度もありましたし、職場でも毎日女性の体育の先生と顔を合わせていました。しかし、いざ真剣に体育の先生のことを考えようとすると、まさにその「イメージ」として浮かんでくるのは、男性の体育の先生だったわけです。私はその質問を受けて、自分でもビックリしてしまいましたし、それと同時に、深く反省もしました。

みなさんはどうでしょうか。この話を聞くまでに、本章を読みながらイメージしていた体育の先生には、女性の先生も含まれていたでしょうか。一度、振り返ってみてください。

ユルい体育の先生の姿

また、大学で体育の授業や先生に関する講義をしていると、受講している大学生から、彼らが中学校や高等学校で出会ってきた体育の先生の話を聞くことがよくあります。すると、なかにはトンデモない先生たちがいることがわかってきます。

たとえば、授業では出席をはじめに確認するだけで、「あとはお前たちでやっとけ」と言って授業を生徒に丸投げする先生。それから、「じゃあ試合やっとけ」と言って、一年中、バレーボールやサッカーといった一つの種目の試合だけをただやらせている先生。さらに、生徒に何をやるか伝えると、おもむろに体育教官室に戻って行く先生。なかには、授業中に体育館で居眠りをする先生までいるそうです。

あまり体育の先生の醜態を世に曝すのも心苦しいので、これくらいで勘弁していただきたいと思うのですが、少なくとも、このような体育の先生が21世紀のこの日本に存在していることは、残念ながら事実のようです。そして、このような体育の先生の姿は、上述のメディアに描かれるような怖いイメージよりも、あまり目立ちません。なぜなら、このような体育の先生は、必ずしも「体育ぎらい」に直結していないように思われているからです。一体どういうことでしょうか。

「体育ぎらい」のなかには、前章で論じた「規律」や「恥ずかしさ」を理由に体育が嫌いになった人もいれば、次章以降で論じる「スポーツ」や「運動」が嫌いだから体育も嫌いになったという人もいます。しかし、この両者にとって、ここで示したような「ユルい」体育の先生とその授業は、そこまで「嫌い」な対象とはならない可能性があります。なぜなら、そのような「ユルい」先生は、授業において、生徒に働きかけることが少ない、もしくは、そもそもないからです。

確かに、授業を生徒に丸投げする先生に、無理矢理走らされたり、怖い跳び箱を跳ばさせられたりすることはないわけです。生徒の側からすると、そのような体育の先生は、ある意味では「無害」な存在になるかもしれません。つまり、「好き」とか「嫌い」ではなく、むしろ「関係のない」存在になるわけです。

このように言うと、そのような「ユルい」先生は、「体育ぎらい」にとっては「救世主」のように見えるかもしれません。だって、いろいろと強制されたりしないわけですから。しかし、もちろん現実はそう単純ではありません。むしろ「ユルい」体育の先生には、「体育ぎらい」を新しく生み出してしまう可能性さえあります。

ユルい先生が「体育ぎらい」を生む?

すでに「体育ぎらい」の人にとっては、「ユルい」体育の先生は確かに「無害」な存在になり得ます。しかしそれは裏を返すと、まだ「体育ぎらい」になっていない人、つまり、体育が好き、もしくは、好きでも嫌いでもない人にとっては、「無害」ではない可能性があるということです。

たとえば、運動が得意というわけではないけれど、運動したりスポーツしたりするのは別にイヤじゃない、という人がいたとします。その人はもしかすると、もう少し運動をすることで、上達することに喜びを感じることができるかもしれませんし、友達と一緒に動いたりスポーツしたりすることが楽しくなるかもしれません。しかし、そのような人にとって、上述の「ユルい」先生は、その期待や可能性に応えてはくれません(だって、居眠りしたりしているわけですから……)。

つまり、「ユルい」先生は、まだ「体育が嫌い」ではない人にとっては、体育を好きになる可能性を摘み取る存在になり得るということです。なぜなら、そのような「好きでも嫌いでもない人」は、まだ運動やスポーツの面白さや楽しさに触れる経験をしていないだけかもしれず、そのため、そのような経験を体育の授業ですることができれば、少なくとも「体育ぎらい」にはならないで済む可能性が十分にあるからです。

重要なことは、そのような好きでも嫌いでもない人が、現実には多くいるということです。「はじめに」で述べた「あいだ」の話を思い出してください。たとえばそこには、体育の授業をはじめて受ける人のほとんど全員が当てはまります。この日本で毎年どれだけの子どもたちが、はじめて体育の授業を受けるのかを想像してみると、この「あいだ」にいる人が、実際はかなりの人数にのぼることがわかるはずです。そして、それは同時に、「体育ぎらい」の予備軍でもあるわけです。

さらに言うと、そのような「ユルい」先生は、「好きでも嫌いでもない人」だけでなく、むしろ「体育が好き」な人にとっても、その「好き」という感情を損ねる存在になり得ます。すでに「体育が好き」な人のなかには、さらに運動やスポーツに取り組み、もっともっと上達し、その楽しさを味わいたいと思っている人が少なからずいます。そのような人にとって、授業丸投げで居眠りなどをしている「ユルい」先生は、少なくともその興味や関心を高めてくれる存在ではありません。

それゆえ、「ユルい」体育の先生は、まだ体育が好きでも嫌いでもない人と、すでに「体育が好き」な人のいずれをも、「体育ぎらい」にしてしまう可能性があると言えます。これはこれで、「体育ぎらい」にかかわる大きな問題です。

ちなみに、そのような「ユルい」先生に対して私がいつも感じることは、むしろ、そのような先生たちこそ「体育ぎらい」なのではないか、という疑問です。その意味では、そのような「ユルい」先生たちも、本書のターゲットなのです(読んでくれるかな……)。


写真/shutterstock

『体育がきらい』(ちくまプリマー新書)

坂本拓弥

2023/10/6

968円

224ページ

ISBN:

978-4480684615

先生はエラそうだし、ボールは怖い!
体育なんか嫌いだ!という児童生徒が増えています。なぜ、体育嫌いは生まれてしまうのでしょうか。

授業、教員、部活動。問題は色々なところに潜んでいます。そんな「嫌い」を哲学で解きほぐせば、体育の本質が見えてきます。強さや速さよりも重要なこととは?

「『体育』なんて好きにならなくてもいい」のです。最も重要なことは、みなさんが多様な他者とともに、自分自身のからだで、賢く、幸せに生きていくことです。そのためにも、たとえ体育の授業や先生、運動部やスポーツが嫌いになったとしても、みなさん自身のからだだけは、どうか嫌いにならないでください。(「おわりに」より)

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