本のタイトルを『馬場と猪木』とすべきか、『猪木と馬場』とすべきか、ぼくはぼくなりに考えた。これまでのこの国のプロレスの慣習とプロレスファンの感覚(というか常識)では、ジャイアント馬場とアントニオ猪木を論じる場合、その順番はほぼ自動的に“馬場と猪木”だった。
それは馬場が年齢で猪木よりも5歳年上であること、馬場のほうが先にスターとしての道を歩みはじめ、猪木はつねにその馬場を追いかける立場にあったことと関係している。
じっさいは、ふたりは1960年(昭和35年)4月11日、力道山門下に同時入門し、同年9月30日、同日デビュー。だから、キャリアのうえではまったくの同期だった。新人時代のプロフィールは、馬場が「ピッチャーとして読売ジャイアンツに5シーズン在籍した元プロ野球選手」で、猪木は「力道山がブラジル遠征中にスカウトした17歳の陸上選手(砲丸投げ)」。力道山は、横浜生まれの猪木――13歳のときに家族でブラジルに移住――に「ブラジル・サンパウロ生まれの日系二世」というフィクションの経歴を用意していた。
ぼくはプロレスから卒業できなかった“少年ファン”である。もちろん、少年ファンだなんていうにはもうトシをとり過ぎている。ぼくたちの世代が小中学生だったころは、地上波キー局のテレビで週に何回も、ゴールデンタイムにプロレス中継が放送されていて、ひじょうに広い層の大衆がいまよりもはるかに日常的にプロレスと接していた。
その瞬間がいつどうやって訪れたかは一人ひとりそれぞれちがうだろうけれど、だいたいの男の子は、それなりに夢中になった時期があったとしても、やがてプロレスを卒業していった。嫌いになって離れていったわけではないだろうから、やっぱり卒業ということになるのだろう。
ぼくはほかのなによりもプロレスが好きだったから、プロレスを観ること、プロレスの雑誌や単行本(やプロレスの記事が載っているスポーツ新聞)をかたっぱしから読むこと、プロレスについてあれこれ想像したり妄想したりすることをやめたことはなかった。
プロレスファンの男の子たちはみんな、おそらく普遍的に、ある経験を共有している。それは“少年ファン”がプロレスが好きだということを口にすると、オトナたちは必ずといっていいほど「ショーだ」「八百長だ」「くだらない」と判で押したような反応をみせる、というひとつのルーティンである。
だいたいの場合において、そのオトナたちはプロレスファンではないのだが、それでも“少年ファン”が大好きなプロレスについて、“少年ファン”が知らないなにかを知っている(つもり)らしかった。もちろん、「ちがう!」と反論してはみるけれど、“少年ファン”にはオトナをやっつけるだけの論理もボキャブラリーもなく、そもそもプロレスに対しても、またプロレスが大好きな自分にも、そこまでゆるぎない自信はなかった。
オトナたちとのそういうやりとりのくり返しから、ぼく自身は“偏見”“先入観”“固定観念”あるいは“差別”といった感覚を実体験として学習し、小学4年生くらいからプロレスそのものとプロレスが好きな自分の弁護をはじめたように記憶している。
ぼくたち昭和世代の“少年ファン”は、ほんの子どものころに馬場と猪木がBIコンビとして同じリングで闘っているところを目撃し、ふたりが袂を分かち、宿命のライバルとして猪木が新日本プロレスの歴史を、馬場が全日本プロレスの歴史をそれぞれつくっていく長い長い時間をリアルタイムの大河ドラマとして同時体験してきた。ちょっと大風呂敷を広げてしまえば、ぼくたちは馬場と猪木から人生を学んだのだ。
ぼくは、いつのまにかプロレス記者としてはかなり古顔のほうになってしまった。人生の3分の2くらいをこの仕事に費やしてきた。
馬場が1999年(平成11年)1月に旅立ってから、すでに23年という歳月が経過している。“ジャイアント馬場”は現実の世界にはもういないから、馬場について語ることはぼくたちが生きた昭和(と平成のはじめの10年)の記憶をたどることと等しい。馬場と猪木はふたりとも――それは偶然ではなく必然という気がしてならない――1998年(平成10年)に最後のリングに立った。でも、猪木はリングを去ったあとも“アントニオ猪木”でありつづけ、いまも現在進行形の“アントニオ猪木”をぼくたちに提示している。
馬場は追憶とはなにかをぼくたちに教えてくれて、猪木は、たとえ老いてもボロボロになっても、なにがなんでも生きていくというのはどういうことなのかをぼくたちに教えてくれている。だから、この本のタイトルは、ふたりのうちのどちらがベターであるかという発想ではなく、ごく自然に、いまを生きるぼくたちのための『猪木と馬場』になった。