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戦国の世を“走り勝った”徳川家康。「大坂夏の陣」前後の尋常でなかった移動距離

集英社オンライン / 2023年12月17日 18時1分

NHK大河ドラマ「どうする家康」がいよいよ最終回を迎える。ところで、家康が最終的に戦国の覇者となった遠因は、実はその「移動距離の多さ」にあったのかもしれない。歴史作家・黒澤はゆま氏が自ら古戦場を走り、その実感を記した歴史愛溢れる著書『戦国ラン』(集英社インターナショナル)から一部抜粋・再構成してお届けする。

移動距離の多さが、天下を制する?

「5日間も淀に泊ろうなどと誰が言ったか?」

大坂夏の陣終結後の二条城で、家康は荒々しく3度も言ったという。家康は人を叱る際、人払いをしたうえで、物柔らかに言い聞かすことを心がけていたというが、『三河物語』で描かれる実態は全然違って、大久保彦左衛門を相手に人前で怒鳴りまくっている。



冒頭の言葉に戻ると、家康は真田信繁(幸村)が最後の突撃をしてきた際に、旗持が身辺にいなかった件にえらく腹を立てていた。そこで、旗奉行たちを詰問しようとしたが、広間に見当たらない。そんな状況のなかで叫んだ言葉だった。

徳川家康像

『戦国ラン』を書くために『三河物語』を読んだ時、初めはどういう意味かよく分からなかった。『三河物語』は彦左衛門の自叙伝で、家康を中心とした徳川家の歴史も綴られているのだが、彦左衛門はついぞ読者目線というものがなくいつも説明が足りない。

だが、『戦国ラン』を書いているうちに、自然と戦国時代の地理や道事情に詳しくなり、家康の言葉の意味が分かるようになった。

家康もそうだが、大坂夏の陣が終わった後、徳川家の家臣たちは豊臣秀吉のつくった京街道を使って、京へ帰ろうとした。なかには淀川に船を浮かべたものもいたかもしれない。

淀は宇治川と桂川が合流し淀川に名を改めるちょうどその位置にあるため、淀川はもちろん、ほぼ淀川に沿って伸びる京街道を行く場合も、必ず立ち寄ることになる。そして、古代以来の名津である淀は、宿場町として殷賑を極めていた。

戦いに勝ってすっかり気が抜けた者たちは、そこから北へ約13㎞の位置の、怖い怖い大御所様(家康)のいる二条城まで出仕するのが嫌になったに違いない。言うともなしに「淀に泊まろう、泊まろう」ということになり、大坂夏の陣終結から数えて5日間も、淀で酒池肉林を貪ったのだ。

それに、淀は、豊臣秀頼とともに滅ぼした「おふくろさま」淀殿が、秀吉から賜った土地である。淀殿の呼び名もこの地にちなんでいる。

遊女とたわむれながら、将卒たちは「おふくろさま」をもう一度やっつけている気持ちになったのかもしれない。そして、そんな将卒のなかに、問題の旗奉行たちもいたのである。

まだ、戦後処理が山積みなのに……なるほど、家康の怒りは、ごもっともとなるが、彼の腹立ちはもっと奥が深いのかもしれない。

73歳で100㎞超を移動

夏の陣前後の家康の足取りを追ってみよう。まず5月5日、京都二条城を発ち河内星田に着陣(約30㎞)。6日、星田から千塚に移動(約18㎞)。7日決戦の日、千塚から平野を経由して茶臼山に(約16㎞)。この間、真田信繁に追い回されて殺されそうになる。

8日、秀頼母子切腹の報を聞き、茶臼山を出て大坂城の焼け跡を見回った後、この日のうちに京都二条城に帰還(約50㎞)! 合計114㎞。

無論、馬も使ったのかもしれないが、乗馬だって激しく体力を消耗する全身運動だ。レクサスの後部座席で高いびきをかくのとはわけが違う。

大阪城

家康からすれば、

「73歳の俺が100㎞以上も走り回って休みもなく働いている。なんで、まだ若いお前らが、途中で走るのをやめて、淀くんだりで息抜きしてるんだ。馬鹿野郎」

ということだったのだろう。

戦国時代、最後の勝者は、皆が走るのをやめても走り続けていた。家康は走り勝ったのである。

文/黒澤はゆま

戦国ラン 手柄は足にあり

著者:黒澤 はゆま

2022年6月7日発売

968円(税込)

新書判/256ページ

ISBN:

978-4-7976-8102-4

合戦の舞台を、歴史小説家がひた走る!
「手柄は足にあり」という上杉謙信の言葉の通り、戦国時代を生きた人々はとにかく歩き、そして走った。戦国武将たちが駆け抜けた戦いの道を、歴史小説家が実際に走り、武将達の苦難を追体験する。彼らは何を思い、そして願いながら、戦場をひた走ったのか? 合戦の現場を足で辿ることで、文献史料を読むだけでは分からない、武将と戦いの実像が見えてくる!?

――第1章より
戦国ラン、第1走目は「大坂夏の陣」でいくことにした。夏の陣のクライマックス、慶長20年(1615)5月7日の「天王寺・岡山の戦い」において、真田信繁(幸村)が徳川家康本陣に突撃したルートを実際に走ってみるのだ。
この戦いを取り上げた理由だが、信繁による家康本陣切り込みは、戦国最後の見せ場であり、戦場の上町台地は大阪在住の私にとって土地勘のある場所である。また、狭隘な台地上で争った天王寺・岡山の戦いなら走るルートが短くてすむ。なんといっても大して運動経験のないアラフォー。いきなり、佐々成政の「さらさら越え」なんかにチャレンジすると、死にかねない。それに今回の企画は走ることだけでなく、ルートを突き止めることも重要なポイントとなる。

――目次より抜粋
第1章 大坂夏の陣
実は幻なのか? 信繁による家康本陣突撃/街道の分捕り合戦/西軍最後の防衛線 清麻呂の運河跡/迷子になったのは誰か?/戦場は天王寺駅/家康本陣が崩れた場所/家康はどこまで逃げたのか/信繁、終焉の地へ

第2章 本能寺の変
報告上手な冷血漢、光秀/古代の道、中世の道/首塚大明神から沓掛へ/光秀の決断の地/悪女のような京都/信長の油断/ついに本能寺へ、その現在の姿は……

第3章 石山合戦
ツーといってドン/軍隊はなぜ真っすぐ進めなかったのか/環濠都市、萱振/商人の街、平野/住吉大社/熊野街道/遠回りの理由

第4章 桶狭間の戦い
開けっ広げな清洲の町/海の底だった名古屋/「あるかぎり走りまどひ過ぎ」た信長/郷土防衛戦争だった桶狭間/計画外の行動をした義元?/夜になってゴールした桶狭間古戦場公園

第5章 川中島の合戦
川中島の名の由来/攻防一体の名城、海津城/天然の要塞/海津城から妻女山へ/十二ヶ瀬から千曲川を渡る/明けてびっくり! 眼前に敵/英雄一騎討ちへ/残業6時間15分の戦い

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