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オシム氏はサラエボの集団墓地で孤高を保つように眠っていた―政治、民族、宗教を超えた存在だった彼は、紛争の続く今の世界になにを思うか

集英社オンライン / 2023年12月31日 13時1分

2022年5月1日にオーストリアのグラーツの自宅で亡くなった、元サッカー日本代表監督のイビツァ・オシム氏。サッカー界での業績はもちろん、あらゆる民族や階層からも尊敬を受けていたオシム氏の人物像を広く日本に知らしめたベストセラー『オシムの言葉』の著者・木村元彦氏が、サラエボにあるオシム氏の墓を訪れた。

イビツァ・オシムが眠る墓

オシム氏が眠るサラエボの集団墓地

サラエボにはバレという名の大きな集団墓地がある。ここでは、故人の信仰した宗教ごとに墓の場所が明確に区分けされている。イスラム、東方正教、カトリック、アドベンティスト(プロテスタント)、ユダヤ教、そして無宗教というジャンルに至るまで、それぞれのテリトリーは厳格に分かれ、異教徒同士が混ざり合うことがない。



民族間で凄惨な殺し合いをさせられたボスニア紛争が終結して28年が経過するが、戦争で命を落とした者の遺族が出逢って、無用な衝突が起きないような措置がなされているのだ。

集団墓地では故人の信仰した宗教ごとに墓の場所が明確に区分けされていた

だが、かつてはこうではなかった。行政の方針ではあるが、混在していた時代のほうが数倍好きだったとムスリムの古い友人は言う。

「多文化都市サラエボの破壊状況は、思っていた以上に悲惨だ。戦前は、この街の住民を宗教で分けるなどということは考えもしなかった。何を信仰していようが、おかまいなし。皆が同じものを食べ、同じ飲み屋に行っていた。それが今では生活圏の間にくっきりと境界線が引かれている」(クルト・ベルクマン)

紛争を鎮めるために戦後体制としてもたらされた「デイトン合意」は、ムスリム、セルビア(正教)、クロアチア(カトリック)の三民族の代表が輪番制で政治を収める制度で、居住地も政体も分けられた(ちなみにこの三民族は宗教が違うだけで同じ言語を使う)。

確かに接触を避けることで、平和にはなったが、分断はさらに進んだ。サッカーの世界も同様で、ボスニアサッカー協会は3つの組織に分かれることで機能が滞り、民族ごとの汚職が蔓延した。一国家一協会を原則とするFIFA(世界サッカー連盟)はこれを問題視して、一時は除名処分を下した。ボスニアからサッカーが消えたのだ。

この窮地を救ったのが、イビツァ・オシムだった。

脳梗塞を患い、左手の利かない不自由な体を操って三民族の政治家たちのもとへ出向き、説得を重ねた。「オシムの言うことならば…」と固陋な民族主義者のリーダーたちが耳を傾け、ついにはサッカー協会は統一されてFIFAに復帰。呼応するようにボスニア代表チームはW杯ブラジル大会の予選を勝ち進み、やがて夢舞台への初出場を決めた。オシムはベルクマンの言う境界線を乗り越えたのだ。

かつて「サラエボは脆い平和にすがっている国の裏庭にできた日陰のようなもの」と自虐的に語っていたオシムは、故郷を再び陽の当たる場所へ押し上げたといえる。

あなたは何民族なのか?と問われれば、「私はサラエボっ子だ」と答え、無神論者を公言していたオシムは、バレでもそうだった。どの宗教地区からも離れた場所で、孤高を保つように眠っていた。

花を買って手向けた。

訃報を聞いて、1年以上が経ってようやく来られたけれど、「何しに来た」と言われた気がした。生前、オシムは、「死は人生の一部なのだから、悲しみや驚きの感情はそぐわない」と盛んに言っていた。今、思えば、自分が逝った後も静かに見送れという意味だったのだろう。

オシム氏の墓

それでもジェレズニチャルやシュトゥム・グラーツ、そしてジェフ千葉…、指導したチームの関係者やサポーターたちからの墓参は引きも切らず、この日もみずみずしい草花が幾多も供えられていた。静けさの中でしばし両手を合わせていると、ああ、本当にもうシュワーボはいないんだなと、えもしれぬ淋しさがこみあげてきて全身を覆った。気を取り直すようにして、サッカー協会に向かった。

「あのときのサラエボはまるで今のガザ」オシム家にも砲弾が…

ボスニアサッカー協会

ボスニアサッカー協会は巨大なビル内に移転していた。日本の上場企業のそれかと見まごうような瀟洒な受付や応接室にしばし、見とれる。かつては旧市街のど真ん中にあるすすけたビルの一室だったが、W杯に出場すると大きなカネが動くのだ。

ボスニアサッカー協会の応接室

「それもまたシュワーボのおかげですよ」と女性職員は言う。オシムが3民族に分裂していた協会をまとめてFIFAに復帰した詳細は拙著「終わりなき戦い」に譲るが、政治家を説得する上で最も難敵だったのが、スルプスカ共和国(セルビア人共和国)の大統領ドディックだった。

「シュワーボがドディックを説得に行くと訊いたときは、誰しもが耳を疑ったものです。自分たちを殺しに来た勢力のトップに会うのかと驚いたのです。あのときのサラエボはまるで今のガザでした。強力な武器を配備したスルプスカの軍隊に包囲されて通信は遮断、水もガスも食料も枯渇した中で、空爆や銃撃を4年もの間、浴びせられたのです。約12000人が殺されて、子どもだけでも1500人が犠牲になりました」

オシムの家族も一歩間違えば、命を落としていた。戦禍の中で発電が途絶え、暖房が効かなくなったために妻のアシマが使用をやめていた寝室に砲弾が撃ち込まれたのだ。

イタリアW杯でユーゴスラビア代表をベスト8に導いた名将の家は知られており、スルプスカのスナイパーが特定して狙ったことが明白だった。部屋中に飛び散った銃弾の破片をアシマに見せられたときは、死がすぐそばにあったことを思い知らされた。

妻が死なずにすんだのも偶然に過ぎない。それでもオシムはドディックに会いに行った。ボスニアにおけるサッカー協会の統一の必要性を迫られると、ドディックの側近は渡された書類を見て怒鳴った。

「何だ! これはラテン文字ではないか!」

セルビアはロシアと同じキリル文字なのだが、FIFAの文書なので当然、公的文書はラテン文字である。当初から対話をぶち壊そうという勢力による言いがかりであった。加害者の側から、さらに屈辱的なふるまいを受け、交渉に臨んだスタッフはこれですべては終わったかと思ったという。

しかし、オシムは毅然としていた。「書類は確かにラテンだが、じゃあ、会議はキリル文字でやろう」と提起したのだ。一瞬の間を置いて爆笑の渦となった。漫画の吹き出しではあるまいし。高圧的な相手も腹を抱えて笑いだし、これで統一への道筋が引かれた。赦しと機転とユーモア、彼の知性が凝縮した切り返しだった。

イビツァ・オシム通り

オシムの没後、ボスニア代表は苦戦を続けている。欧州選手権予選グループJにおいてはスロバキア、ルクセンブルグといった格下相手に苦杯を舐め、現在は5位(12月30日時点)。ルクセンブルグに1対4で惨敗したときは、サポーターたちは、発煙筒を投げ込んで怒りをあらわにした。プレーオフでのウクライナとの一戦を控えているなか、スポーツ記者は言った。

「ロシアに侵攻されて苦境にあるウクライナへのリスペクトは忘れてはならないが、それと勝負とは別だ。戦争中でホームのキーウで試合ができず、隣国ポーランドの地で戦う相手に負ければ、それこそ、大恥だ。けれど今のチーム状態では、勝てそうにない。こんなときにシュワーボがいてくれればと思うのだ」

協会を辞して、トラムに揺られて15分。ジェレズニチャルのスタジアムに顔を出したら、ショップにジェフ千葉のオシム追悼マフラーが飾ってあった。

ジェフ千葉のオシム追悼マフラーを掲げる店員

「日本からのお客さんが持って来てくれたのよ」と店員のナタシャが誇らしげに言う。

ジェフのレプリカユニフォームには、鮮烈な思い出がある。オシムの幼馴染にネジャド・ベカノビッチ、通称ジミーというロマの少年がいた。多民族国家、旧ユーゴスラビアにおいても民族としてカウントされず、最も被差別の立場にあったロマをオシムは、何の偏見も無く受け入れて親友となっていた。

ジミーが長じてビジネスで成功してカフェ、その名も「ジミー・トレード」をオープンさせると、オシムを慕ってずっとジェフのユニフォームを着衣して働いていた。かいがいしく客から注文を取り、トルココーヒーやラキヤをサーブするのだが、いつも身にまとうのは、エプロンではなく黄色い背番号6だった。

「そのジミーももう逝ってしまった。今ごろは空の上でシュワーボと再会しているかもしれないわね」

ナタシャはまだ若いけれど、語り継がれるクラブの歴史をほとんど頭の中に入れている。

「だって、シュワーボがサラエボを離れてグラーツに行ってから私は生まれたのよ。それでも彼のことは、ずっとこの町で聞かされてきたのだから」

ジェーリョ(=ジェレズニチャル)のサポーターが集うレストランマキアートのドアを押す。常連客たちは、煙草をくゆらせながら、口々に「オシムロス」を口にする。

「日本人よ、知っているか? この前の大通り、そう、スタジアムとこの店に挟まれた大通りの名前が、IVICE OSIMA BULE VAR (=イビツァ・オシム通り)と命名されたんだぞ」

ジェレズニチャルのスタジアム前の大通りが「イビツァ・オシム通り」になっていた

ついに地名になったのか。「最初は俺たちがはたらきかけたんだが、異論なんかあるはずがねえ。(ダービーで戦う)FKサラエヴォの連中も賛同したし、市長もそうだ」

サラエボが包囲されたとき、暗殺の危険さえある中で、故郷を攻撃する国の代表監督はできないと宣言し、辞任することで、ボスニア紛争への抗議を示したオシムは、未来永劫、町のレガシーとなったのだ。

あらために外に出て、イビツァ・オシム通りの中央に歩を進めた。行き交うクルマの波を見ながら、ふと、オシムが名前を使われることをかたくなに拒んでいた案件があったことを思い出した。

「不正に加担するのは本意ではない」

あれは2013年、次期日本サッカー協会会長である宮本恒靖がFIFAマスターで共同論文を執筆していた。テーマはボスニア紛争の最激戦地であったモスタルにアカデミーを作って、サッカーの力で民族融和に貢献するというもの。これが日経新聞に出ると駐ボスニア日本大使館がサポートを申し出てきた。

外務省とJICAにはODA予算があり、モスタルのスタジアムの改修を援助できるのである。大使館での会合に招かれたオシムも協力を快諾し、阿部勇樹など日本の教え子にも声をかけた。

プロジェクトは動き出し、いよいよ予算申請という段階で外務省から、献身的に動いてくれたオシムに対し「ぜひ、この実行委員会に加わってもらいたい」というオファーがなされた。善き理念に裏打ちされた祖国の復興支援プロジェクトのボードメンバーに名前が連なるのは、極めて名誉なことである。誰もが快く引き受けると見ていた。

ところが、オシムはこれを断ったのである。理由はそのストイックなモラルから来ていた。

「ボスニアは政治腐敗が進んでいて、スタジアム建設という巨額な案件は必ず利権の温床になる。日本政府がどれだけクリーンな入札方式を提示しても確実に汚職が発生し、政治家の懐にカネが入る。そこに自分の名前が使われて不正に加担するのは本意ではない」というものであった。

三民族を統合させた人物であればこそ、全く楽観視していない。鋭利に現実を見ている。全民族から平等、公正と見られている所以であった。イビツァ・オシム通りでしばし感慨にふける。

翻って日本では東京五輪に関する汚職が露わになり、逮捕者まで出た。政治家になった元オリンピアンたちが、官房機密費を使っての招致活動をしていたことを暴露しながら、それが問題視されると、説明責任を放棄する。与党政治家たちの裏金疑獄も表面化してきた。ミャンマー、ウクライナ、ガザではいまだに戦争が続く。オシムなき世界で突き付けられた課題はあまりも大きい。

文・写真/木村元彦

コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う

木村 元彦

2023年1月26日発売

1,980円(税込)

四六判/256ページ

ISBN:

978-4-7976-7420-0

ベストセラー『オシムの言葉』の著者、木村元彦が描く「旧ユーゴサッカー戦記」シリーズの決定版。旧ユーゴスラビア7つ目の独立国として2008年に誕生したコソボ。1999年のNATOによる空爆以降、コソボで3000人以上の無辜の市民が拉致・殺害され、臓器密売の犠牲者になっていることは、ほとんど知られていない。才能あふれる旧ユーゴのサッカーを視点の軸に、「世界一の親米国家」コソボの民族紛争と殺戮、そして融和への希望を追う。サッカーは、民族の分断をエスカレートさせるのか、民族を融和に導くのか……!?

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