忘れもしない2008年5月、南米を縦断するべく、旅の出発地であるブエノスアイレスに到着した日のことだった。
日中に観光を済ませ、宿泊先のホステルを探して夜8時ぐらいに人気ないダウンタウンをさまよっていたとき、どばっとかけられたのである。工業廃液みたいに臭い、どろどろした液体を。
「え、ナニコレナニコレ」と呆気にとられているあいだに、老夫婦のふたりがどこからともなく近づいてきて「あら大変汚れてるじゃない」と紙ナプキンを取り出し、僕の全身を拭ってくれた。
そしてまた何事もなかったかのように去っていった。数秒遅れでこれはおかしいと気づいたが、そのときには既に財布がなくなっていた。
俗に言うケチャップ強盗の手口である。
あの晩、どうしようもなく落ち込んでいた僕は、ホステルの夜番を務めていたアルゼンチン人美女に慰めてもらった。まあ慰めというより、愚痴を聞いてもらったと言うほうが正しいが、おかげで気持ちが幾分救われた。
そのような次第で、旅先で身ぐるみを剥がされたときにおすすめしたいのは“美女”、ではなく美女が登場する本だ。特にリチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』が素晴らしい。
図書館で働いている“ぼく”の恋人ヴァイダが妊娠してしまい、ともにメキシコまで堕胎しにいくというのがあらすじだが、このヴァイダという女性がほかの小説ではちょっとお目にかかれないぐらい、素晴らしい容姿の持ち主として表現されている。物語自体も面白いし、彼女に夢中になることも請け合いで、盗難の一つや二つぐらい簡単に忘れさせてくれるだろう。