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宇多田ヒカルと母・藤圭子のキズナ「私という存在は母から始まった」…唯一無二の声とブルーズの精神を受け継ぎ、ポップスに昇華させた歌姫

集英社オンライン / 2024年1月19日 11時1分

歌手の藤圭子(享年62歳)を母に持つ、宇多田ヒカル。1998年に『Automatic/time will tell』でデビュー、いきなりのミリオンヒットを記録し、今なおトップに君臨し続ける国民的アーティストだ。1月19日に41歳の誕生日(1983年1月19日生まれ)を迎える彼女と母親の特別なキズナに迫る。(サムネイル/2018年発売の『初恋』(SonyMusic))

「娘の光は、天才なのよ」

1970年に『圭子の夢は夜ひらく』でブレイクし、18歳にして時代の寵児となった藤圭子。27歳で歌手を引退することを決めると、こんな率直なコメントを残して1979年にニューヨークへ渡った。

「歌手は一流でなければ嫌。私は自分を取り戻すために、英語の勉強から始めます」


※引用元・小西良太郎著「女たちの流行歌(はやりうた)」産経新聞社

やがてニューヨークに住む日本人の宇多田照實と出会い、結婚して長女の光が誕生したのは1983年1月19日のことだ。

娘に「光」と名付けた藤圭子は、その時にこんな詩を書いた。

あなたが生まれたその日に 天使たちが集まって
そして決めたのよ 夢を実現させようって

幼いころからシンガーとして期待されていた光は、父と母によるファミリー・ユニットの「U3」で活動し、1993年にはポニーキャニオンからアルバム『STAR』を発売した。

宇多田ヒカルはメジャーデビューする前、母親で歌手の藤圭子と父親の宇多田照實と家族バンド『U3』を結成し、英語の楽曲を歌っていた。写真は2003年6月に発売された『あれから10年(記念盤)』(ニューセンチュリーレコード)のジャケット写真

作家の大下英治は1994年の年明け早々、藤圭子と会った時にこんな言葉を聞かされたという。

「娘の光は、天才なのよ。いま、ニューヨークで歌の勉強をしているから、見ていてごらん。あと何年かすると、あっと驚くようなデビューを見せるからね」
※引用元・大下英治著「悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」イースト・プレス

それから3年後。天才と嘱望された光は、ファミリー・ユニット「Cubic U」のヴォーカルとして、インディーズながらアメリカでデビュー。シングルに選ばれたのはカーペンターズで有名な『Close To You(遙かなる影)』で、バート・バカラックとハル・デイヴィッドが作ったスタンダード・ソングだった。

そこには両親が目指していた方向性が感じ取れる。そして娘を天才歌手だと信じて疑わなかった藤圭子は宣言した引退を撤回し、時折日本に戻って歌い、収入を得ることでアメリカにおける音楽制作を継続した。

15歳でデビュー、J-POPの歌姫「宇多田ヒカル」の誕生

そうした努力を重ねたことで、故郷の日本で夢が叶う時が来た。その糧となったのは両親の愛情や努力、何よりも娘の光が秘めていた類稀なる才能だった。

「私の両親はいつも音楽を作っていて、一緒にスタジオに居ました。彼らは私が歌うことをすごく応援してくれたけど、やらされているようで気が乗らないこともあったんです。だんだん自分で書いてみようかなと思いはじめて、やってみたら気に入ったので、続けてきたってところかな」
※引用元・小西良太郎著「女たちの流行歌(はやりうた)」産経新聞社

シンガー・ソングライター「宇多田ヒカル」の誕生である。15歳の宇多田ヒカルは1998年12月9日、シングル『Automatic/time will tell』でデビューを飾った。もちろん自らの作詞作曲で。

当初は無名でほとんど注目されていなかったが、比類ないヴォーカルと圧倒的な歌唱力、自ら作詞作曲する楽曲の新鮮さで評判になった。

『宇多田ヒカル – Automatic』。Hikaru Utada Official YouTube Channelより

翌年には1stアルバム『First Love』を発表してベストセラーとなり、母のデビュー時に負けずとも劣らない衝撃を音楽シーンに与えた。

アルバムの累計売上枚数は約800万枚にまで達して、日本国内の歴代アルバム・セールスの記録を大きく更新。宇多田ヒカルは、たちまちJ-POPの歌姫となった。

1999年発売『First Love』(ユニバーサル ミュージック合同会社)のジャケ写。当時15歳の宇多田は、『First Love』(曲)を含め、アルバム最後の2、3曲は、期末テストの勉強もしつつ制作したという

だが、デビューから10年以上の歳月が過ぎて、結婚と離婚を経験した後に、アーティストではなく人間として活動をする期間を設けると宇多田はブログで発表する。

その時、彼女は27歳になっていた。

振り返ると、15才からずっと音楽ばっかりやってきました。「宇多田ヒカル」が音楽に専念できるように、周りから過保護に守られた生活をしてきました。人からは、年のわりには人生経験豊富だね~なんて言われるけれど、とても偏った経験しかしていません。
(中略)
アーティスト活動中心の生き方をし始めた15才から、成長の止まっている部分が私の中にあります。それは、人として、とても大事な部分です。
(中略)
そういう気持ちから、一つ大きな決断をしました!
来年から、しばらくの間は派手な「アーティスト活動」を止めて、「人間活動」に専念しようと思います。

広い世界の知らない物事を見たり感じたりしたいという気持ちが強まり、英語の他にもいろいろなことを勉強したかったという理由で引退を決意し、それを同じ27歳で実行に移した母とよく似ていることに驚かされる。

しかし、宇多田ヒカルが日本を離れていた2013年8月22日、母の藤圭子が亡くなった。

母親のことを「誰よりもかわいらしい人でした」とブログで…

母の死を知らされてマスコミの矢面に立った時、彼女は母を想う気持ちを自分のブログにこう記している。

「誤解されることの多い彼女でしたが…とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ,笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。」

「一個人としての本当の自分と向き合う期間」に再び結婚し、出産を体験して母となった宇多田ヒカル。2016年には母をテーマにした歌『花束を君に』をリリース。NHKの連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主題歌として世に出る。

『宇多田ヒカル - 花束を君に』。Hikaru Utada Official YouTube Channelより

その歌を聴いたリスナーから、「もしかしてお母さんのこと?」というリアクションがあったことに、宇多田ヒカルは大いに励まされた。

そして“幻“や“気配“を意味する「Fantome(ファントーム)」というフランス語を、アルバムのタイトルにしたことについても、彼女はインタビューでこう答えている。

今回のアルバムは亡くなった母に捧げたいと思っていたので、輪廻(りんね)という視点から“気配“という言葉に向かいました。一時期は、何を目にしても母が見えてしまい、息子の笑顔を見ても悲しくなる時がありました。
でもこのアルバムを作る過程で、ぐちゃぐちゃだった気持ちがだんだんと整理されていって。「母の存在を気配として感じるのであれば、それでいいんだ。私という存在は母から始まったんだから」と。
※引用元・USENの音楽情報サイト「encore」掲載、宇多田ヒカル特集Vol.2―― インタビュー前編

リスナーが母のことだと分かって聴くからこそ、「絶対に母の顔に泥を塗らないアルバムにしなければという責任を強く感じていた」ともいう。

こうして宇多田ヒカルは、母の藤圭子から声とブルーズの精神を受け継ぎ、それを見事に日本のポップスに昇華させ、名作『Fantome』を完成させたのだ。

2016年発売『Fantome』(ユニバーサル ミュージック合同会社)のジャケ写。2008年からの一時活動休止期間を経て、8年ぶりに出した宇多田ヒカル自身6枚目となるオリジナル・フルアルバム

文/佐藤剛 編集/TAP the POP

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