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ブッダは本当に差別を否定し、万人の平等を唱えた平和論者だったのか−いったい何者で、何を悟り、何を語ったのかに迫った革新的ブッダ論【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】

集英社オンライン / 2024年1月24日 20時0分

最強のボクサー、井上尚弥の〈言葉〉はなぜ面白くないのか? 話題の1冊『怪物に出会った日』が井上に敗れた者たちだけを取材した理由〉から続く

ノンフィクション本の新刊をフックに、書評のような顔をして、そうでもないコラムを藤野眞功が綴る〈ノンフィクション新刊〉よろず帳。今回は、壮絶なアカデミック・ハラスメントを打ち破り、仏教学の研究者たちを震撼させた若手筆頭のパーリ仏教学徒による新刊『ブッダという男――初期仏典を読みとく』(清水俊史/ちくま新書)の迫力と曖昧さに迫る。

#1 アル中のように酒を求め、日々深く酔っぱらう椎名誠と福田和也の共通点
#2 最強のボクサー、井上尚弥の〈言葉〉はなぜ面白くないのか?

仏教学の世界に風穴を開けた、ひとりの男

ウェブ空間を騒然とさせた〈仏教者〉【1】による一般書である。

清水俊史はパーリ仏教学徒だが、評者も含めて多くの者が彼の存在を知ったきっかけは、清水よりはるかに名の売れたパーリ仏教学徒である馬場紀寿(東京大学・東洋文化研究所教授)の著作への出版妨害工作が明るみに出た2021年の騒動だろう。清水は、馬場の代表的論考『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』(春秋社)や諸論文で示された学説に大きな誤りがあると指摘し、学界で論争となっていた。

その最中、馬場への批判を含む清水の大著『上座部仏教における聖典論の研究』の刊行を準備していた大蔵出版に対して、刊行を差し止めるよう馬場が圧力をかけ、馬場の恩師である森祖道(当時、日本印度学仏教学会・理事)も、清水本人に対して〈大学教職に就きたければ出版を諦めろ〉【1】などと恫喝したことを、版元が公式サイトで告発したのである。

ブッダという男について確実な情報はごくわずか

さて、そんな気骨ある研究者が初めて上梓した一般書『ブッダという男』(ちくま新書)には、何が書かれているのか。

〈そもそもブッダという男は何者であり、何を悟り、何を語ったのであろうか。本書の目的はこれを明らかにすることである〉『ブッダという男』より引用(以下、【1】)

清水はかく言うが、同時に、ブッダにまつわる確実な情報はほとんどないとも続ける――
2500年ほど前、北インドに生を享けたシャカ族の王子は裕福な暮らしを送っていた。しかし、このままでは輪廻の苦しみから逃れられないと出家し、さまざまな修業をおこない、35歳で悟りを得てブッダとなった。その後、45年にわたる伝道の末、80歳で入滅した【2】。

確実なのは、これだけだ。そんなわけで、清水は直接ブッダを描くのではなく、インドの宗教史における「仏教の独自性」を彫琢することで、ブッダを浮き上がらせようと試みる。

「ブッダは瞬間移動した」というトンデモ

たとえば、第8章〈仏教誕生の思想背景〉において、仏教は沙門宗教のひとつと位置づけられている。沙門宗教とは、インドで支配的地位を占めていたバラモン教に挑戦した新興宗教群である。これらの新興宗教群に通貫する特徴は、バラモン教のドグマである「生得的なカーストと悟りの不可分」を解除したところにあった。つまりカースト外の不可触民も含めて、人は誰もが聖者になり得る可能性を持つと主張したわけである。

その前提の上で、清水は仏教とそれ以外の沙門宗教(六師外道)の違いを考察し、インド宗教史における「ブッダのおこなった主張の独自性」を端的に位置づけている。

〈インド諸宗教において、輪廻の主体である恒常不変の自己原理を否定したのは、唯物論者と仏教だけであった〉、〈輪廻の苦しみを終わらせるためには、無知(無明)をはじめとする煩悩を断じなければならないとの主張は、他宗教には見られない〉、〈二五〇〇年前のインドにおいては、無我も縁起も、それまでの価値観を根底から覆す革命的な発見であった〉【1】

彼の舌鋒は鋭く、これまで数多の者たちが「ブッダ/仏教」に見出してきた徳目を次々に俎上に載せ、両断してゆく。

〈古代や中世の仏教者たちが、当時の時代性にあわせて「一切智者であるブッダは、すべてをお見通しである」、「ブッダは超能力を使う」などと神格化したのと同様に、現代の仏教者たちもまた、「歴史のブッダ」を構想しようとするなかで、近現代的な価値観と合致するように、「平和主義者だった」、「業と輪廻を否定した」、「階級差別を否定した」、「男女平等論者だった」と神格化してしまっているのである〉【1】

「ブッダはそんなことを言っていない」

じつは、この新書において、著者の真意を十全に汲み取ることは難しい。知識も情熱も、そして腕も飛び抜けているはずなのに、「It's a private」が過ぎるからだ。筑摩書房には、ただちに次作のオファーを出してもらい、下記の三点について暗幕を取り払っていただきたいと切に願う。

まず、最初の一点。

文中にしばしば差し込まれる、引用部のような書きぶりから察するに、著者の基本的な立場は「原典主義」である。

〈ブッダが生まれたときに呟いたとされるこの言葉【天上天下唯我独尊/評者註】は、文字通り受け取れば、「この世で自分こそが尊い」という意味であり、現代的な価値観からすれば傲慢もいいところである。(…しかし…)初期仏典を素直に読み、歴史的文脈を考慮するならば、ブッダが「この世で自分こそが尊い」と宣言することは当然なのである。

ここで、逆に考えてみてほしい。神格化されていないブッダを追い求めるのであれば、現代的な価値観からしてブッダは傲慢であってもよいのではないだろうか。むしろ「ブッダは自分が一番偉いと公言して憚らない、現代からすれば傲慢な人間だった」と結論づけるほうが、仏典の言葉とも合致しており、よほど批判的で客観的ではないだろうか〉【1】

〈実際に初期仏典を読めば明白であるが、ブッダが現代的な水準で生命を尊貴し、戦争に反対していたと読み取ることはまったくできない。むしろブッダが平和論者であるかのような言説こそが、現代的な価値観に基づいて初期仏典を解釈してしまった結果なのである〉【1】

小気味いい裁断だが、全体を通じて筆鋒が鈍らない箇所がないわけでもない。それを誠実さの表れと採るべきか、迷いと採るべきか。清水は「ブッダはそんなことを言っていない/初期仏典に書かれていない」という太刀筋で錫杖を振り回し、多くの〈仏教者〉をなぎ倒してきた。にもかかわらず、この本には、通奏低音として相反するフレーズが流れているとも言えるのである。

〈人々から信じられてきたブッダの姿こそが、人類に大きな影響を与えてきたという点で、史的ブッダよりも重要ではないでしょうか〉【1】

この、担当編集者の言葉に呼応するかのように、本書に差し込まれた一節。

〈古代から現代にいたるまで、「歴史のブッダ」ではなく、「神話のブッダ」こそが人々から信仰され、歴史に影響を与えてきた(…)今を生きる我々が、伝統的解釈を否定して、初期仏典から「歴史のブッダ」と名づけられた「神話のブッダ」を新たに構想することは、決して無意味な営為ではない〉【1】

本当にそう信じるのであれば、清水はある場合においては、ブッダが認めていない、初期仏典に書かれていない事柄であっても「それもブッダ/それも仏教」だと認め得るのだろうか。これが、次作での応答を期待する最初の問いである。

「ブッダ」と「仏教」の関係

関連して、ふたつめの問いが生まれる。清水は開祖である「ブッダ」と、その後に積み上げられた「仏教」の関係をどのように定義しているのか。

前段で、評者は「ブッダ/仏教」と書いた。評者は、現時点で確認可能なブッダの言葉や思想だけを仏教だと定義するのではなく、ブッダの名に積まれた誤解や架上【3】の歴史を含めて仏教と見做している。つまり、仏教が伝播したそれぞれの地域や集団の歴史において、文化的正統性が確立されている場合には、誤解され、架上されたブッダや仏教を「誤解され、架上されたまま受け取る」立場である。

では、清水は? 彼が〈神話のブッダ〉を認め得るケースとして挙げている例示ははなはだ心許ない。

〈インドでカースト制度の撤廃に尽力したアンベードカルは、差別撤廃の思想的根拠をブッダの教えに求めた。アンベードカルの仏教理解は、必ずしも公平で客観的なものではなかった。しかし、彼が構想した平等主義者という「神話のブッダ」は、たとえ歴史上存在したことがなくても、間違いなく現実世界を動かす原動力になったのである〉【1】

ここにきて倫理を持ち出すのは、奇妙だ。差別撤廃の思想的根拠になるという理由で「誤読や架上もよし」とするのなら、本書の快刀乱麻はたちまち水泡に帰してしまうのではないか。ポリティカル・コレクトネスが免罪符になるなら、四海平等を謳う天上天下唯我独尊も、男女平等説も、結局は認めざるを得なくなる。

次作への期待

そして、ふたつの問いに応えるには、必然的に三つめの問いへの応えが求められるだろう。著者が拠って立つ世界――すなわち、本書の叙述の属する世界は――「信仰を排した仏教学の世界」なのか「信仰を包摂する仏教学の世界」なのか。二元論ではなく、階調を知りたい。

それを語るためには、著者自身の信仰の告白が欠かせないはずだ。告白なしでも、ふたつの仏教学の世界を峻別することは可能だが、自らを〈仏教者〉と名乗り、本書を〈名もなき菩薩たち〉【1】に捧げるのであれば、自身の信仰心と研究の相克について腹の底を割って ほしい。

以上三つの問いから、期待される次作の主題がある。評者が熱望すると言い換えても構わない。原始仏教の専門家である清水が、日本の歴史と文化の根幹にかかわる大乗仏教にどのような評を下すのか。

おそらく、彼は言葉を持っているだろう。だからこそ、ぜひ読みたい。中村元や五来重、佐々木閑や島薗進といった先達が積み上げてきた一般書における議論の枠組みを、新たな次元に導く書き手の登場を言祝ぐのは、そのときだ。

【1】『ブッダという男』より引用。
【2】『ブッダという男』を参照。
【3】学説としての「加上」の意ではない。

#1 アル中のように酒を求め、日々深く酔っぱらう椎名誠と福田和也の共通点
#2 最強のボクサー、井上尚弥の〈言葉〉はなぜ面白くないのか?

取材・文/藤野眞功

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