黒柳徹子、山口百恵、松田聖子、そして中森明菜との交流…伝説の音楽番組『ザ・ベストテン』の今では考えられない驚愕の演出とは?
集英社オンライン / 2024年2月17日 19時1分
伝説の音楽番組『ザ・ベストテン』で、司会者として番組を盛り上げた久米宏さん。共に司会を担当した黒柳徹子さんと番組を進行する上で、心がけていたこととは?『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(朝日新聞出版)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
今では考えられないようなおふざけもした『ザ・ベストテン』
黒柳さんと僕が共に心がけていたのは、ゲストのみなさんに「『ザ・ベストテン』に出てよかった」と思ってもらうことだった。そのために僕が意識していたのは、ゲストが初めて見せる表情を引き出すこと、初めて語る話を聞き出すことだった。
1979年3月15日、山口百恵さんの「いい日旅立ち」が10位にランクインしたときのやりとり。
「春というと、百恵さんはどんなものに春を感じます?」
「そうですね、新茶なんてね、春っぽいでしょ」
「いやー、いいこと言いますね、新茶。それから?」
「それから……そうですね。あと、なんでしょうね」
「いや、何を言っても感心しますから、ご安心ください」
「あとは、そうですね……薄物のブラウス」
「薄物のブラウス!」
「いやだ、もう!」
百恵さんは最初の質問は台本で知っていた。でも、まさかもう一つ聞かれるとは予想していなかっただろう。困って真剣に考える。そこに素の表情が表れる。見ているほうは「あ、百恵ちゃん、考えている、困っている」とハラハラする。もちろん、こうしたやりとりの前提には「百恵さんなら答えられるはず」という確信がなければならない。
今では考えられないようなおふざけもした。百恵さんの胸元をわざと覗き込み、お尻をむんずとつかんだ。セクハラという言葉がまだ広まっていない時代。誰も百恵さんのお尻を触ったことがない。ならば僕がそのさきがけとならん。さっと触ってキャッと声を上げるだけなら、いかにも予定調和だ。僕は百恵さんのキャッではなく、ギャッがほしかった。
ファンは間違いなく逆上しただろう。ご本人やホリプロからのお咎めはなかったけれど、抗議の電話は来ていたはずだ。
とにかく、それまでの歌番組と違うことをしなければ、と必死だった。こんなこと玉置宏さんはしないだろう、芳村真理さんにもできないはずだ。そんなふうに自分ができる話題づくりを懸命に心掛けた。
『ザ・ベストテン』がとりもった縁なのか、百恵さんの引退コンサート(1980年10月5日)をTBSが生中継した番組で、僕は実況担当を仰せつかった。日本武道館の客席に座って周りを見回すと、客席を埋めていたファンの多くは女性だった。
ラスト近く、真っ白なドレス姿でステージに立った百恵さんが客席に向かって「本当に私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」と語りかけた。頬をつたう涙もぬぐわず、最後の曲「さよならの向う側」を歌い終えると深々と一礼し、白いマイクを静かに床に置いてステージを去った。
コンサートは感動のうちに幕を閉じた。ところが番組が終わるまでにまだ6分余りある。なぜか時間が余ってしまったのだ。ディレクターからの指示は「とにかくつないで」。大ファンだったので話すネタは山ほどあるが、突然の出来事だ。
6分間の空白を埋めるため、カメラに向かって汗だくになってしゃべり続けた。百恵さん最後のステージを間近で見ることができた感激の体験は、悪夢のような記憶とワンセットになっている。
新幹線車中で歌う田原俊彦と中森明菜、空港から歌う松田聖子
『ザ・ベストテン』の売りの一つが現場からの中継だった。歌手がレコーディングやライブで出演できないからといってあきらめるわけにはいかない。こちらからコンサート会場やレコードの収録現場、他局のスタジオまで出向いていって中継をした。同じ木曜の夜、公開収録していた日本テレビの『カックラキン大放送!!』の収録会場にも遠慮なく潜りこんだ。
「追っかけマン」と呼ばれた松宮一彦アナウンサーが、「追いかけます。お出かけならばどこまでも」を合言葉に全国を駆け巡った。
「ベストテン名物」は新幹線中継。車中で歌う田原俊彦さんを駅前ビルから望遠カメラで捉え、中森明菜さんは座席に座ったまま熱唱した。松田聖子さんには、出演映画の撮影現場や飛行機のタラップを降りた空港から歌ってもらった。
カメラは海外にも飛んで、ニューヨークから桜田淳子さん、オーストラリアから少年隊が衛星生中継で歌った。歌手だけではない。夏休みで海外に出かけた黒柳さんを追って、ニューヨークなどの滞在地から中継した。
海外からの中継は現地スタッフに依頼することになる。国際的大事件を伝える報道番組ならいざ知らず、歌番組でこれほど寸秒争うテンポの速い中継は見たことがない、と外国のテレビマンたちは口をそろえた。「日本のテレビはクレージーだ」と。
12年間で中継した場所は約1500カ所。放送局を飛び出したことで、テレビ最大の強みである多元中継が実現できるようになった。これ以後、エンターテインメント番組にも現場中継を取り入れるという手法が定着することになる。
『ザ・ベストテン』のもう一つの大きな魅力が歌手のみなさんが歌うセットの凝りようだった。三原康博さんをはじめとする美術家が歌手や楽曲に挑戦した結果だった。セットは毎回新しいものが数曲単位でつくられた。同じ曲でもセットが使い回しされることはない。
目に焼き付いているのは、百恵さんと大階段。1978年2月。第5位の「しあわせ芝居」を桜田淳子さんが歌った白い部屋を覆うようにして、赤い大階段が上からゆっくりと降りてくる。最上段に立っているのは、第4位「赤い絆」を歌う百恵さん。赤と白の対比が鮮やかだった。
1978年11月の第4位「みずいろの雨」では、ピアノを弾いて歌う八神純子さんに雨を降らせた。といっても、これは背後のガラス窓に雨を降らせ、ライトを当てることでフロアに雨模様が這っていく仕掛け。降った水はすべて回収装置で集める大掛かりなセットだった。視聴者はスタジオに降った激しい雨に度肝を抜かれたのではないか。
楽曲のイメージとは無関係に見える突拍子もないセットに、笑ったり戸惑ったりしながら歌う歌手もいたが、豪華で凝りに凝ったスタジオの美術セットは、音楽を「聴く」と同時に「見る」面白さと可能性を広げた。
「タマネギ頭」の黒柳徹子さんをひと言で表すならば…
黒柳さんと僕は年齢的には11歳離れていたが、考え方から思想、ノリに至るまで相性はぴったりだった。だから大先輩にもかかわらず、遠慮なくその髪型を「タマネギ頭」と命名し、ときには「化け猫」呼ばわりもした。
僕にとって『ザ・ベストテン』の司会を黒柳さん以外の人と組むことなど考えられなかったし、もしかしたら黒柳さんも僕と同じ思いだったのではないだろうか。
このキャスティングの妙は、『土曜ワイド』のスタジオで黒柳さんが僕を見かけなければ実現しなかったという意味では、偶然の産物だった。そして、その偶然を運命として、僕は必然のように感じていた。
世間は黒柳徹子さんのことを早口でおしゃべりの“天然キャラ”だと思っているかもしれない。でも僕が彼女をひと言で表すならば「健康な努力家」。まず体がとても丈夫。そして実は地道な努力家だ。そのことはあまり知られていないと思う。
黒柳さんはできる限りの準備をしてから本番に臨む。いつも手のひらに入るほどの小さなカードにびっしりメモを記し、本番中はそれを確認しながら司会をしていた。どんな仕事にも手を抜かずに全力投球し、そのための努力は睡眠を削ってでもする。
『ザ・ベストテン』時代に個人的なおつきあいはなかったが、『ニュースステーション』にゲスト出演して頂いたときから食事をご一緒するようになった。ある日、いつもは話の止まらない彼女が「今日は帰る」とおっしゃる。理由を聞くと、
「あしたクイズ番組の収録があるから、これから7冊くらい本を読まなきゃいけないの」
30年以上レギュラー解答者を務める『世界 ふしぎ発見!』で彼女の正解率が非常に高いのは、解答者全員に事前に知らされたテーマについて、関連する本を片っ端から読んで勉強しているからなのだ。担当ディレクターが図書館に行ったら、黒柳さんに先に借りられていて焦ったこともあったそうだ。
『ザ・ベストテン』を見ていた人たちが覚えているのは、大人数が座れるスタジオのソファかもしれない。司会の黒柳さんと僕が歌手のみなさんをお客さまとして迎え、「百恵さんって1日に4食も召し上がるんですって」などとトークを繰り広げた。番組の最後には毎回、「ハイ、ポーズ」と言って集合写真を撮った。
応接セットは「家庭的なくつろぎ」という番組のメッセージを象徴する演出だった。黒柳さんは「『ザ・ベストテン』の時代は、1台のテレビを家族全員で見ていたいちばん最後の約10年だったのかもしれません」と語っている。
なるほど、そうかもしれない。番組そのものは1989年まで11年と8カ月間続くことになるが、僕が司会を辞めた85年の時点で、若い世代を中心にミュージックシーンは変化の兆しを見せ、すでに「誰もが知っているヒット曲」の時代はほころびを見せていた。
TBSの音楽ディレクターも知らない歌い手が次から次に登場し、CDをはじめとするメディアの進展とともに、音楽は急速に多様化、細分化していく。それはランキングの意味が失われていく過程でもあった。
文/久米宏
『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』
久米 宏
2023年10月6日発売
990円(税込)
340ページ
9784022620842
久米宏、初の書き下ろし自叙伝。TBS入社から50周年を経てメディアに生きた日々を振り返る。入社の顛末から病気に苦しんだ新人時代。永六輔さんに「拾われた」ラジオ時代、『ぴったしカン・カン』『ザ・ベストテン』そして『ニュースステーション』の18年半、その後『久米宏 ラジオなんですけど』の現在まで。久米宏という不世出のスターの道のりはメディア史にそのまま重なる。メディアの新しいありかたを開拓してきた一人の人間の成長物語としてめっぽうおもしろい、さらにラジオからテレビの貴重なメディア史の記録。
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