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坂本龍一が当時あきれたシティ・ポップブーム「売れた奴らが牛丼じゃなく六本木のステーキ屋の話をしている…」 瀕死状態のロフトを救ったパンクイベント『DRIVE TO 80’s』とは

集英社オンライン / 2024年2月6日 18時1分

メジャー化していくシティ・ポップに対抗して、当時、瀕死の状態にあったライブハウス「ロフト」が仕掛けたパンクイベントとは? 「ロフト」の創設者、平野悠が回顧する『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。

#1

メジャー化していくシティ・ポップ

私たちが一貫して支持してきたロック・バンドたち。有名どころでは、いつもお客さん4、5人の前で歌う忌野清志郎率いるRCサクセション。集客がゼロに近かった柳ジョージやカシオペア。

他にも愛奴に在籍していた浜田省吾、下北沢ロフトの店員バンドだったサザンオールスターズ、高崎の不良バンドだったBOØWYなど、彼らの活動初期はほとんどお客さんが入らず、ロフトでは長いことその状況に耐えてきたわけだ。


ライブハウスでライブをするバンド 写真/shutterstock.

ライブハウスが連日ブッキングを組んで以降、ロックが世間に浸透するようになり、80年代半ばから90年代初めまではバブルやバンド・ブームもあって、大手レコード会社は新人バンドを食い尽くす青田買いに走り出す。私たちが支持するロックは、大手レコード会社や巨大プロダクションのライブハウス参入により瞬く間に商業化され、一部のロッカーたちは大金を手にすることにもなった。

YMOでブレイクする以前、まだ無名だった坂本龍一は、「どこぞの牛丼が美味いかどうかを話題にしていた奴らがいつの間にか六本木のステーキ屋の話をしている」と言っていたものだ。

ロフトなどでスタジオミュージシャンとして数多くのライブをこなしていた坂本龍一は、YMOで世界的ミュージシャンとなる 写真/gettyimages

70年代後半になると、それまでロフトを根城としていたシティ・ポップ系の大物ミュージシャンたちがレコード会社の援助金を得て、そのライブの活動拠点を大型の公会堂や大手資本が運営するライブハウスに移すことになる。彼らは集客が安定していたので、ロフトにとって大きな痛手だった。お客が数人の時代を耐え忍び、ブレイクした途端に踏み台にされるのがライブハウスの宿命なのだろうか。

中には「100人くらいまでの集客はライブハウスの任務だけど、それを1万人規模にできるのはわれわれレコード会社の責任だ」と言い切る関係者もいた。なんとも不遜なレコード会社の言い分だと思ったし、「結局、俺たちはレコード会社が儲かるために採算の合わないライブを頑張ってやってきただけなのか……」と唖然としたものだった。

こうした風潮が罷り通るようになり、それまで小さなライブハウスを支えてきたバンドやミュージシャンが営業的にライブハウスへ出演する理由もなくなったわけだ。残ったのはほとんどお客さんが入らないバンドばかりで、いくつもの空白日が出るようになった30日間のスケジュールを埋めるのに私たちは必死になった。

「ロフト育ちの坂本龍一や山下達郎、細野晴臣、大滝詠一、大貫妙子、桑名正博、ムーンライダーズも気づけば出演しなくなったな……」と私は大きく嘆いたものだった。

大胆にパンク路線に切り替えるも…

1970年代末期、新宿ロフトはメジャー化したニューミュージック路線から大幅にその路線を変えることを余儀なくされた。私は「このままニューミュージックの連中に頼っていてはロフトはジリ貧になる」という危機感から新しいムーブメントの開拓を意識するようになった。

そして、その方向性を大胆にもパンク路線に踏み切ることになる。それは新宿ロフトでのふとした雑談から始まった。

のちに伝説となる新宿ロフトでの『DRIVE TO 80’s』の様子 写真/地引雄一

当時、私は焦りまくっていた。前月まで動員が10名以下だった若手バンドが、テレビかなんかに出て突然ヒットすると、翌月にはもう平気でスケジュールをキャンセルしてくる。経営者としても、頭を抱える日々だった。

1979年に入る前後だっただろうか、どんなに頑張っても新宿ロフトのスケジュールが埋まらなくなった。確かにその頃、メインカルチャー・シーンとは別のところで、ロンドンやニューヨークからやってきたパンクが日本に上陸し、細々とだがそのシーンを形成しているのは知っていた。しかし、ニューミュージック育ちの私たちはほとんど興味がなかった。

さらに巷では、パンク・バンドの奇行が噂されていた。○○がステージで全裸になった、○○に機材を壊された、○○が麻薬で捕まった……。都内のほとんどのライブハウスはパンク・バンドを敬遠していた。

私の記憶に間違いがなければ、当時の日本のアンダーグラウンドなパンク・シーンの中心だった東京ロッカーズの連中(リザード、フリクション、S-KEN)が初めてロフトに出演したのは、その前年である1978年、下北沢ロフトだったはずだ。

興味本位で私も観に行った。それほどお客が入ったわけではなかったが、音楽性は意外としっかりしていて、私はパンク・バンドの評価を若干変えた。しかし別に、それらのバンドにぶっ飛んだわけではなかった。ぶっ飛ぶのはその随分あとの話だ。

話を元に戻そう。1979年はセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスが死に、江戸アケミ率いるじゃがたらが活動を開始した年だ。繰り返すが、ロフトのブッキング陣はスケジュールが埋まらず困り果てていた。

セックス・ピストルズ唯一のオリジナルアルバム『勝手にしやがれ!!』(1977年、Virgin Records)

そんなある日、写真家の地引雄一、建築家の清水寛(当時、S-KENのマネージャーをやっていた)が分厚い企画書を持ってロフトの事務所へやってきた。「どうでしょう。この8月の夏休み、全国から40バンドほど集めてパンクのお祭りをやりたいのですが……」と二人は言う。「いわゆるパンク・バンドは、全国にたくさんいるはず。この際、一挙にみんなへ声をかけたい」という。

「それは自分たちで防衛隊を組織します。安心してください」

その時代、日本にも芽生えたパンクス群は非常にアンダーグラウンドで小さなライブ空間(渋谷屋根裏、吉祥寺マイナー)で細々とライブを行なっていた。日本のパンクスは海外のモノマネでしかない、そのうえ機材は壊すしケンカは起きるという危険な噂が広まっていたのを私たちは知っていた。どこのライブハウスもパンクのライブをやるのをどこか恐れていて、その種のバンドがライブを行なう場所すら当時はなかったのだ。もちろん私たちロフトもパンクに対しては同じ認識だった。

「そうか、全国から40バンドも結集してお祭りをやるというんだね。それで一番問題なのは、誰が会場防衛をするかだ。われわれにはパンクスの暴挙を抑える力がない。動員もちゃんとしてほしい」と、いささか高飛車に出た。

「それは自分たちで防衛隊を組織します。安心してください」と地引は答える。

防衛隊のイメージ 写真/shutterstock.

そんな雑談の末に、私はゴー・サインを出した。ただでさえ埋まらないスケジュールだったが、夏の盛りである8月は特に埋まらなかったので、自由にやってもらうことにしたわけだ。

こうして『DRIVE TO 80’s』と題された日本のパンク/ニュー・ウェイブの祭典と言うべき一大イベントが1979年8月28日から9月2日まで行なわれることになった。各日のスケジュールを振り返ってみよう。

8月28日(火)前夜祭 映画『ROCKERS』上映/ボーイズ・ボーイズ/バナナリアンズ
8月29日(水)フリクション/アーント・サリー(from大阪)/不正療法/HI-ANXIETY
8月30日(木)プラスチックス/SS(from京都)/自殺/フレッシュ
8月31日(金)S-KEN/ヒカシュー/ミスター・カイト/スタークラブ(from名古屋)
9月1日(土)ミラーズ/P-MODEL/8 1/2/サイズ
9月2日(日)リザード/突然段ボール/マリア023/モルグ
いずれも¥1000/¥1400(通し券¥5000)※例外あり

パンク・ロックの発火点となった東京ロッカーズと呼ばれた一群のバンドから、メディアの話題を集めたテクノ・ポップの旗手たちまで、当時のシーンを代表するほとんど全てのバンドが集結した。全24組の新進気鋭バンドが6日間にわたり壮絶なパフォーマンスを披露し、蓋を開けてみれば連日大入りの大盛況。イベントは次々とロフトの動員記録を更新し、大成功のうちに終わった。売り上げ的にも充分だった。

ライブハウスのイメージ 写真/shutterstock.

このイベントをきっかけに日本のパンクスたちはそれなりに音楽業界から認められるようになり、その後、日本のパンク/ニュー・ウェイブは凄まじい勢いで浸透、拡大していった。

こうして『DRIVE TO 80’s』の成功で自信を得た私は、ロフトのブッキングをパンク路線へと大幅に変更していき、結果的にその後のライブハウス「ロフト」の方向性をも形作ったのだった。当時はまだニューミュージック主体だった新宿ロフトはその後、次第にロックの中心地となり、ライブハウスを中心としたロック・シーンが大きく育っていったのだ。


文/平野悠

『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)

平野悠(著) 牧村憲一(監修)

2024/1/24

¥1,540 税込

224ページ

ISBN:

978-4065347874

日本のロック・ミュージックが真の意味で市民権を勝ち取る前哨戦を、ライブハウス「ロフト」の創設者が回顧する壮大なクロニクル

1970年代に日本のロック・シーンはわずか数年で怒涛の如く成長し、やがて国内の音楽業界全体を席巻する存在として巨大な発展を遂げていった。この熱狂の先頭をいく気鋭の音楽家たちと常に併走してきたのが、ライブハウス「ロフト」だ。本書は、日本のロック及びフォーク界のスーパースターを育てた「聖地」の創設者である著者が、いまや伝説として語り継がれる「1976年の新宿ロフト」のエピソードを大きな軸として、日本のロック・ミュージックの長く曲がりくねった歴史を、アーティストたちの素顔や業界の生々しい実情とともに明らかにする。歌謡曲に対するカウンターカルチャーとして、ロックが市民権を得ていった軌跡を堪能してほしい。

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