歌舞伎劇場がないのになぜ歌舞伎町? 北陸道の過酷な要所がなぜ親不知? 歴史や伝説が生み出した地名の秘密
集英社オンライン / 2024年2月18日 18時1分
ふだん東京で暮らしているならば、あるいは観光で訪れたことがあるなら、タイトルを読んでハッとした人も多いのではないだろうか。たしかに新宿の歓楽街、歌舞伎町に歌舞伎の劇場はない。知ればきっと、誰かに話したくなる地名の歴史を学ぶことができる書籍『地名散歩 地図に隠された歴史をたどる』より一部抜粋し、日本各地の土地名の歴史を紹介する。
市場が立つ日を表す
「都道府県魅力度ランキング」が毎年発表されるたびにメディアは必ず取り上げ、なぜか最下位となった県の担当者がコメントを求められる(都・道・府はたいていベストテン圏内)。その「魅力度」なるものを判断するのがどんな人たちかは知らないが、「住みたい街ランキング」と同様にきわめてナンセンスだとつねづね思っている。
その魅力度ランキングで令和2年(2020)、栃木県が「まさかの最下位」となって県内に衝撃が走った。東照大権現(徳川家康)を祀った国際観光地・日光を擁するのを知っての所業か!と実に腹立たしかったに違いない。
しかし日光の市役所が平成の大合併以来、旧今市市(日光市今市本町)に置かれていることはイマイチ知られていない。合併前の今市市の人口は旧日光市の倍以上に及んでおり、地理的に見ても交通の要衝である今市に日光市役所を置くのは他の合併町村にとっても合理的だ。いずれにせよ「名を捨てて実を取る判断」なのだろう。
交通の要衝といえば、そもそも今市の町が発生したのも、ひとえにその場所柄である。市場というのは、たとえば山と平地の産物が交換される谷口や川の合流点、街道の分岐点など各方面への交通が便利な場所に発生することが多い。
今市は「新しい市場」を意味し、『角川日本地名大辞典』には「東照宮鎮座以前に久治良・野口・瀬尾・鉢石・瀬川・所野の6か村持回りで行われていた六斎市が日光街道成立に伴って当地に定着したことにより、新たにできた市場の意味から今市と称するようになった」という説が紹介されている。
いわば普通名詞に近い地名だから、今市の地名は全国に点在している。このうち島根県の今市には現出雲市の中心市街があり、山陰本線の駅名も当初は出雲今市で、昭和32年(1957)に出雲市駅に改称された。新しい市場は今市の他に「新市」と名乗る例も各地にある。大字レベルでは兵庫県以西に限られるが、広島県福山市の新市は慶長の頃には近くに古市、向市の地名もあったという。JR福塩線には新市駅もある。
その反対が文字通りの古市だ。こちらも全国にいくつもあり、中には大阪市城東区の古市と旭区の今市、奈良市の今市町と古市町など数キロ程度の範囲で新旧ペアが存在することもある。
大阪府羽曳野市の古市は古代より東西を結ぶ竹之内街道と南北の東高野街道が交差するやはり交通の要衝に発生した物々交換市に由来するという。近代以降も、まずは東高野街道に沿って河陽鉄道(後の大阪鉄道、現近鉄道明寺線・長野線・南大阪線の一部に相当)の柏原~河内長野間、後に竹之内街道に沿う路線(現近鉄南大阪線)も敷設されており、古市駅と道明寺駅が両者の交差地点である。
市場の地名としては、四日市、五日市、八日市など市が開催される日付に由来するものが全国的に分布しており、四日市なら毎月4日、14日、24日の「4の日」に3回市が立つ。このような形態を「三斎市」と呼んだ。
商業の発達に伴ってその名のまま月6回の「六斎市」に移行した場合もあるが、律儀に「二日五日市村」(現東京都品川区南品川の一部)など愚直に名乗るケースも。新潟県南魚沼市の現役地名である四十日は、4の日と10の日に市場が開かれたことによる短縮形だ。この大字は平成16年(2004)までは市場関連地名である南魚沼郡六日町の大字だったから、六日町大字四十日という「市場づくし」であった。ついでに同類の三重県四日市市市場町は市の字が3つ連続する。
都への遠近で上下
市の前に地理的な条件を冠したものとしては、たとえば上市と下市のペアも多い。奈良県吉野の上市と下市は吉野川の上流・下流の関係で、近鉄吉野線には大和上市(吉野郡吉野町大字上市)と下市口(下市町の対岸)の2駅があるし、鳥取県大山町にも上市と下市のペアが存在する(山陰本線に下市駅)のは、山陰道に沿って並んでいるので、上下は都への遠近であろう。
「うわいち」と読む地名には茨城県水戸市の旧城下町の広域総称として同じ上市・下市のペアがあり、こちらは上市が台地上、下市が低地で、まさに地形の上下関係である。
石川県金沢市の西郊に位置する野々市市はかつて野市と表記されたこともある歴史的地名で、シンプルに「野の市が開かれた」ことにちなむようだ。野市と書いて「ののいち」と読まれていたのが、江戸期に表記が野々市に変わっている。「の」が入らないのが高知県香南市役所のある野市(最寄りは土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線のいち駅)で、江戸初期に土佐藩家老だった野中兼山による開拓促進策で市場が開かれ、荒野に町並みが形成された。類似のものとしては埼玉県上尾市の原市で、文字通り台地上に開かれた市場町である。
珍しいものとしては台湾の屋台村を連想する夜市という地名。山口県周南市にあるが、読みは「やじ」と難読だ。ただし市場由来というわけではなく、江戸期までは矢地村と表記していたのを、地を失う-失地に表記が似ているため忌避したという。鐵の新字が戦後に「鉄」と定められて「カネを失う」のを嫌った話を思い浮かべるが、そんなわけで夜市は「市場地名」ではない。
伝説を生む歌と踊りの地名
北陸道に親不知という難所がある。古くから知られた天険で、北アルプスから続く山並みがそのまま海に落ち込むような地形だから、絵に描いたような断崖絶壁だ。このため近代に入ってトンネルができるまで、旅行者は断崖下の浜辺で海の様子を観察し、波が引いた隙に駆け抜けたという。とてもでないけれど、同行する親のことを構っている余裕もないことから親不知の名が付いた。
このエピソードはよく知られているが、北陸本線(最近「えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン」に変わった)の親不知駅の所在地が「歌」であることはあまり知られていない。正確には新潟県糸魚川市大字歌である。明治22年(1889)の町村制施行の以前は歌村であった。その後は西頸城郡歌外波村、青海町を経て平成17年(2005)から糸魚川市の大字である。
半世紀近く前の子どもの頃にここを列車で通った時には、目の前を遮る北陸自動車道の高架橋もまだなく、集落の屋根瓦が雨に黒光りしていたものだ。地形図に描かれた等高線の詰まった険しい地形の中に置かれた「歌」の文字も印象的だったが、この珍しい地名の由来は、『角川日本地名大辞典』によれば「聖徳太子が愛馬に乗り跡見市兵衛とともに駒返しから都へ返し、歌川を渡り大岩に歌を彫りつけたことによる」と伝えられるそうだ。おそらく地名を元に後から考え出した物語だろう。
狭い谷に沿って30軒(宝暦11年〔1761〕)ほどの家が身を寄せ合う小村であったが、百万石で知られる加賀藩の参勤交代の2000から4000人ともいわれる大人数の対応を行うのはさぞ大変な仕事だったに違いない。庄屋の七郎右衛門が兼ねていた本陣が加賀藩に拝借金を願い出たこともあったという。
単独で「歌」という地名はこの親不知だけだが、歌の付く地名は意外に多い。北海道にはそれが目立ち、市になっているものでは歌志内市がある。明治大正期に相次いで炭鉱が稼働を開始、炭都として繁栄して人口は4万人台まで増加したが、エネルギー革命後は人口流出の一方で、久しく「日本で最も人口が少ない市」として最少記録を更新し続けている。
令和5年(2023)9月末には2701人となった。歌志内という地名はアイヌ語由来で、「砂のある川」を意味するオタ・ウシュ・ナイに文字を当てたものである。ちなみに隣接する砂川市はこの川の名を和訳したものだ。ついでながら道北の旧歌登町(現枝幸町)は「砂の山」を意味するオタ・ヌプリに字を当てたものである。道内で歌に近い新地名を紹介しよう。札幌市の北東側に隣接する江別市の東端近くにある「豊幌はみんぐ町」。函館本線豊幌駅に近い新興住宅地で、元は「豊幌」の一部であったが、ネットの情報によれば、「はみんぐ公園」に由来して決めたらしい。
北海道でなくても当て字らしき「歌」の地名は多い。山梨市の歌田は中世には宇多田郷と称し、『角川』によれば「湿地を意味する淖田が転じた」ものだとしているし、神奈川県平塚市を流れる歌川も泥田や湿地のウタから来ているという。瀬戸大橋の南詰にあたる香川県の宇多津町は鵜足郡の港を意味するが、かつては歌津とも表記した。阿野郡と鵜足郡が明治32年(1899)に合併したのが現在の綾歌郡で、ここで「歌」の字が復活している。
まさかの未成の地名 歌舞伎町
歌ではないが、初声という地名が神奈川県三浦市の三浦半島にある。『角川』によれば「和田義盛が平家追討で凱旋し城内の戦勝の祝宴の際に、初声という歌曲を作って領民に歌わしめたとする口碑が残る」とあって歌関連の地名らしいが、これも後付けの印象だ。
合唱を思わせる地名が千葉県大多喜町の八声で、こんなに声部のある混声合唱があるのかどうか知らないが、読みは「やこえ」であり、「谷を越えて隣村への街道があった」ことに由来するらしく、要するに「谷越」が「八声」に書き替えられた。このように「好字」を指向する地名の変化は珍しくない。
踊る地名はあるだろうか。調べてみると、鹿児島県の錦江湾に注ぐ天降川に面した現在の霧島市内に「踊」という地名が存在したという。残念ながら今はないが、『角川』には「〔踊城は〕要害堅固なため舞踊を楽しみながら籠城できた」としている。こちらも文字から無理に伝説を創作したのかもしれない。
「舞」という地名は現存する。大阪府の南西端に近い阪南市の舞(一~五丁目)は、『角川』によれば「雑芸能に従事する職業集団が居住していたことによると思われる」とあるので、こちらは当て字ではないようだ。
大字舞の所属する下荘村ほか2町村が昭和31年(1956)に合併して南海町が発足した際には隣の大字である貝掛に併合されて一旦消滅したが、大規模な新興住宅地の「南海団地」が開発された後、平成5年(1993)に復活した。歴史的な地名を大切に思う地元の意志だろうか。消えた地名が30年以上経って復活するのは珍しい。
ついでながら、南海町という旧自治体名は町域内を走る南海電気鉄道の会社名にちなむ、これも非常に珍しい例である。
歌と舞が出たついでながら、東京の繁華街・歓楽街として知名度の高い新宿区の歌舞伎町は、実は戦後生まれである。太平洋戦争の空襲で焼けた一帯の復興事業として、歌舞伎劇場を中心に映画館や演芸場、ダンスホールなどの建設が計画された。
その町名にふさわしく歌舞伎町と命名されたのだが、肝心の歌舞伎劇場は事情により建設できず、「未成の地名」として今に至っている。
写真/shutterstock
図・地図/書籍 『地名散歩 地図に隠された歴史をたどる』より
「地名散歩 地図に隠された歴史をたどる」(KADOKAWA)
今尾恵介
2023年12月8日
1012円(本体920円+税)
240ページ
9784040824772
地名には、その土地の歴史がある
内陸にも多い「海」がつく地名、「町」という名の村、地図にないのに生きている「幻の地名」……全国の不思議な地名を取りあげ、土地や日本語の由来をたどる。ひとつひとつの地名にその土地の歴史が隠されている。
【目次】
第一章 モノの名前を冠する理由
やはり梅と桜が多い「花」の地名/市場が立つ日を表す/伝説を生む歌と踊りの地名
第二章 意外な名付けられ方
「令和」の町名も誕生/囲む地名は何を囲んでいたのか/北海道の「原形」を留める地名
第三章 一筋縄ではいかない「読み」
方言漢字をご存じですか?/親不知――「返り点」を付けて読む地名/同音を重ねる地名――「おおお」も
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