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「負けると号泣に近い勢いで泣く」天才・藤井聡太の幼年時代…先輩の悪手に「なんでそこに指したんだ!」と大声を上げたことも

集英社オンライン / 2024年2月12日 12時1分

藤井聡太が幼い頃から取材を続けている、記者の鈴木宏彦氏。彼だからこそ知り得た藤井の少年時代を記した一冊、『【増補改訂版】藤井聡太の軌跡 愛知の少年はいかにして八冠になったか』。本記事では、負けず嫌いだった少年時代のエピソードと、藤井の両親にも手伝ってもらったという成長年譜を、一部抜粋して紹介する。

研修会入会

6歳の3月。幼稚園の終わり頃から、藤井は瀬戸市の近郊で行われる将棋大会にも参加するようになる。そして小学校1年生、7歳の冬には教室で初段になった。ふみもと子供将棋教室では、アマ初段になった子どもは東海研修会への入会を勧めている。多くの先輩も研修会に入っていて、藤井も迷わず東海研修会に入った。



「教室の将棋合宿に聡太は皆勤でした。聡太がもっとやってほしいというので、週3回の教室を4回にしたこともありました。そういえば、遊びでにらめっこをさせたこともありました。聡太はすぐに笑っちゃう子で、そういうところにも人のよさが感じられたような気がしています。教室には強い先輩が何人かいました。

中には研修会から奨励会に進んだ子もいて、聡太も幼稚園のうちに自然に棋士を意識するようになったと思います。これまでに200人以上の卒業生がいますが、その中で研修会に進んだのは10人ほど。教室では私からプロ入りを勧めることはしません。

ただ、自分でプロを目指すという子にはそれなりの覚悟をして勉強をしなさいとは言いますし、聡太はそれだけの勉強をしたと思います。聡太のことは、当時から『将来の名人』と知人たちには言ってました。知人たちはあまり本気にしなかったのですが、今になって驚いているようです」と文本氏は笑う。

2010年3月、小学校2年生になる直前に7歳の藤井は東海研修会に入会した。研修会で上位のクラスまで勝ち上がれば、奨励会入会の道が開ける。つまり、藤井は7歳でプロ棋界に続く道の入り口に立ったのだ。

といっても、研修会の対局は月2回だけ。当時、東海研修会は名古屋市栄の板谷将棋記念室で行われていて、藤井はその都度、お父さんかお母さんに連れられて通った。また、研修会員になったといっても身分はアマチュアで、奨励会員と違ってアマ大会への参加も許されている。

ふみもと子供将棋教室にも変わらず週4日通い続けた。2012年8月に藤井は研修会を卒業して奨励会に進むが、それまでの2年半ほどが藤井が子ども中心のアマチュア大会で最も活躍した時期である。

写真はイメージです

藤井聡太の成長年譜

ここで藤井の簡単な成長年譜を作ってみた。将棋大会の記録は私が把握しているものに、藤井家にご協力いただいて情報を加えたものである。

藤井聡太二冠・成長年譜

2002年7月 愛知県瀬戸市に生まれる

07年
夏 5歳で将棋を覚える
12月 ふみもと子供将棋教室に通い始める。20級認定

08年
7月 安城市七夕まつりこども将棋大会4位
10月 JT杯ベスト16(8級の時)
12月 ふみもと子供将棋教室で4級認定。この年から近郊での子ども大会に参加し始める
?月 春日井市こども将棋大会2位(参加者4名くらい)

09年
4月 小学校入学
6月 とよたふれあい将棋フェスティバルキッズクラス優勝
8月 東山植物園将棋大会優勝
10月 滋賀県将棋大会小学生の部3位
10月 愛知県海部王将戦B級準優勝
12月 小牧小中学生将棋大会準優勝

10年
2月 7歳、子ども教室で初段認定
2月 小学生名人戦愛知県大会ベスト8
3月 東海研修会入会F2
4月(小2)第7回詰将棋解答選手権初級戦11位(1問誤答)。一般戦2位(全問正解)
4月 東山公園小中学生将棋大会低学年の部優勝
4月 岡崎将棋まつりこども将棋大会低学年の部優勝
5月 倉敷王将戦愛知県低学年の部優勝
5月 名古屋市長杯小中学生低学年の部優勝
6月 とよたふれあい将棋フェスティバルキッズクラス優勝
8月 東山植物園将棋大会低学年の部優勝
10月 JT東海大会低学年の部準優勝

11年
3月 第8回詰将棋解答選手権チャンピオン戦初出場。51点13位
4月(小3)第8回詰将棋解答選手権初級戦1位(全問正解)。一般戦5位(1問誤答)
8月 第10回全国倉敷王将戦低学年の部優勝
10月 JT東海大会低学年の部優勝

12年
1月 第9回小学館学年誌杯争奪全国小学生将棋大会小学3年生の部ベスト4(本戦には出られず)
2月 小学生名人戦愛知県大会準優勝
3月 将棋世界4月号詰将棋サロン初入選
3月 第9回詰将棋解答選手権チャンピオン戦34位
4月(小4)第9回詰将棋解答選手権一般戦全国2位(258人参加)
4月 東山動物園よい子の将棋大会高学年の部優勝
5月 倉敷王将戦愛知県大会高学年の部優勝
7月 関西こども将棋大会Aクラス優勝
8月 東海研修会B1で7連勝、奨励会入会試験に合格して奨励会入会(10歳)

13年
3月 第10回詰将棋解答選手権チャンピオン戦5位(10歳)
8月(小5)将棋世界9月号詰将棋サロン入選2回目(11歳)。谷川賞受賞
10月 詰将棋パラダイス10月号、短期大学初入選。看寿賞候補になる

14年
1月 将棋世界2月号詰将棋サロン入選3回目。佳作
2月 詰将棋パラダイス2月号、高校入選
3月 第11回詰将棋解答選手権チャンピオン戦23位

15年
3月(小6)第12回詰将棋解答選手権チャンピオン戦、全問正解で優勝(12歳)
4月(中1)中学校入学
10月 奨励会三段昇段(13歳)

16年
3月 第13回詰将棋解答選手権チャンピオン戦2年連続優勝
10月(中2)14歳2か月、史上最年少で四段昇段

17年
3月 第14回詰将棋解答選手権チャンピオン戦3年連続優勝
5月(中3)詰将棋パラダイス5月号、デパート入選
6月 29連勝達成

18年
2月 朝日杯将棋オープン戦優勝
3月 第15回詰将棋解答選手権チャンピオン戦4年連続優勝
4月(高1)高校入学

19年
3月 第16回詰将棋解答選手権チャンピオン戦5年連続優勝

20年
6月(高2)棋聖獲得
8月 王位獲得・最年少で八段昇段

東海研修会入会と
師匠・杉本昌隆との出会い

年譜にも書いた通り、藤井は2010年の3月に東海研修会に入会している。

日本将棋連盟の研修会は将棋を通じて少年少女の健全な育成を目指すために作られた。当初は東京と大阪の2か所だけにあったが、のちに名古屋に東海研修会が作られ、現在は北海道、九州、東北にも組織が広がった。要するに、将棋の好きなちびっこの集まりだが、成績上位者には奨励会入会や女流棋士になる道が開ける。前にも書いたが、プロを目指すための細くて長い道の入り口がこの研修会だと言える。

東海研修会では杉本昌隆八段、中田章道七段、澤田真吾七段ら、地元のプロ棋士が指導役を務めている。「プロとの接点がある」というところが、ふみもと子供将棋教室との一番の違いだ。

ただ、入会時7歳で、まだふみもと子供将棋教室にも通い続けていた藤井にとって、研修会は楽しく将棋を学び、時には遊ぶ教室の延長線上にあった。

「初めて藤井と会ったのは、彼が小学校1年生で東海研修会に入会してきた時です。棋力はアマ初段くらいだったのかなあ。ひと際ちっちゃくて目立っていたのですが、それよりも六枚落ちの下手を持って、高度な大局観の話をしたことにびっくりしました。

下手☗5八玉型で上手から☖4六歩と打たれた時に、『☗4八歩と打つのでは玉の逃げ道がなくなる。この将棋は☗4七歩と合わせて☖同歩成☗同玉と上部に脱出するしか勝ちがない』と話していました。中段に下手の駒があって、結構手厚い形でした。だから、上部に脱出する感覚は正しいんですけど、六枚落ちの下手でそんなことを話す子どもがいるのかと感心しました。ずいぶんませたことを言う子だなあというのが、第一印象です。

小学校2、3年生になると自作の詰将棋をよく研修会仲間に見せるようになりました。それが結構難しい詰将棋なので驚いた記憶があります。指し将棋にしても、指導対局でも研修会でも安全勝ちを目指すのではなく、斬り合いの1手勝ちを目指す。見ていて面白い将棋を指すので注目するようになりました」と、のちに藤井の師匠となる杉本昌隆八段は語っている。

負けると号泣

研修会には、「プロを目指す仲間たち」もいた。藤井と同時期に東海研修会に在籍していた中澤沙耶女流二段は、「藤井二冠とは研修会で4、5回対戦しています。手合いはこちらが香落ちの下手と、平手のときがありました。

香落ちの時は上手でも無理くり居飛車をやってこられました。平手の方が強かったかな。藤井二冠は感想戦(対局後の検討)大好き少年だったんですよ。研修会は1日4局指すんですが、私も感想戦が好きだったので、次の対局が始まるまで検討が終わりませんでした。休み時間がなくなっても気にしない。自分より年上で強い人の対局でも、どんどん感想戦に入り込んでくる。物おじしない子でした」と言う。

藤井が物おじしない子どもだったことは、文本氏の言葉にもある。

「聡太が有段者になってから、教室のみんなでネット対局をやらせたことがある。先輩が悪い手を指したら、聡太が、『なんでそこに指したんだ』と大声を上げた。親しい子にははっきり言うタイプでしたね」

また、この時期の藤井には、「負けると号泣に近い勢いで泣く」というクセがあり、研修会でも有名だった。文本氏は、「最初は覚えていないのですが、教室でも幼稚園年長の頃には、もう負けると泣いていました。

特に昇級の懸かった対局で、年上の強敵に負けた時はしっかり泣いていましたね。聡太が2年生の時に、愛知県の強豪大学の将棋部とうちの教室の対抗戦をやったことがあります。聡太が大将だったんですが、相手の大将にいい将棋を逆転で負けた。あの時は、周りも驚くほどの勢いで泣きましたね」と言う。

2010年10月のJT東海大会低学年の部で藤井は準優勝したが、決勝戦で敗れた和服姿の藤井少年が号泣するシーンが今でもテレビでよく流れる。その時、優勝したのが藤井より1学年上で今、奨励会にいる中西悠真三段だ。中西三段は三重県出身で、東海研修会でも藤井と対戦している。

「藤井先生とは自分が小学校3年生の時からたくさん指してきました。負けるとすごく悔しがる。でも、昔から強かったです。JTの決勝では勝たせてもらいましたが、そのあとはずっと上を行かれていますから。藤井先生の将棋は終盤の精度がすごい。いつか、もう一度大きな勝負で戦いたい」と中西三段。

研修会時代の藤井は、果敢に上位者との対戦に挑み、感想戦に口をはさみ、負けると大泣きする少年だった。多数の証言もある。ところが、現在の藤井にその話をすると、「ほとんど覚えていないんです。そういう子だったんですね」と笑う。

思うに、笑ったり、泣いたり、怒ったりしていたのは幼い藤井少年の素直な感情の発露で、本人は無意識のうちにやっていたのだろう。10歳で奨励会に入るころから、藤井少年の対局スタイルはがらりと変わる。そこには大人の世界への脱皮があった。

詰将棋解答選手権で見せた
驚異的な成長力

前述のように、藤井はふみもと子供将棋教室で、詰将棋をたくさん解いた。詰将棋の早解き競争をして、「頭が割れそう」と言ったのは幼稚園生の時だ。そうした訓練は研修会に入り、奨励会に入ってからも続いた。

今の藤井は、「自分の詰将棋の解答能力は12、13歳の頃がピークでした。最近は以前ほど詰将棋を解いていません」と言って笑う。12、13歳が詰将棋のピークと言うのは聞いたこともない話だが、逆に言えば藤井は5歳でふみもと子供将棋教室に通い始めてから7、8年の間は持続的に大量の詰将棋を解き続けてきたということになる。その才能は詰将棋解答選手権という舞台で花開いた。

詰将棋解答選手権は詰将棋作家の若島正氏が中心になって作られた詰将棋の解答の正確さと速さを競う競技会で、2004年から行われている。当初は詰将棋ファンや詰将棋の好きなプロ棋士が参加するマニアックで小規模な大会だったが、やがて最上級の「チャンピオン戦」のほかに、問題のレベルを落とした「一般戦」や「初級戦」が加えられ、参加者が大幅に増えた。

冒頭で書いたように、2010年の第7回詰将棋解答選手権の名古屋会場一般戦で7歳の藤井は全問正解で2位に入っている。この時も、「7歳の子どもが大人に交じって2位になった」ということで騒がれたが、その衝撃はどんどん増していったのである。

2011年の第8回詰将棋解答選手権。この時、小学校2年生・8歳の藤井は愛知県から大阪に遠征し、プロ棋士も多数参加するチャンピオン戦に初めて出場した。

結果は関西13位。13位では大したことがなさそうだが、プロの見方は違う。詰将棋解答選手権の開催に長く協力している浦野真彦八段に話を聞いた。

「第8回詰将棋解答選手権のひと月ほど前に、私は名古屋の東海研修会での指導対局で初めて藤井君に会いました。藤井聡太二冠のことを君付けで呼ぶのは失礼ですが、少年時代の話なので、藤井君と呼ばせてもらいます。その時、幹事の竹内さんから、『浦野先生、この子ね、最年少棋士になるって言ってるんですよ』とちっちゃな少年を紹介されました。対局は二枚落ちで終盤ぎりぎりの寄せ合いになって負かされました。

強いとは思いましたけど、私はそれ以前に少年時代の豊島さんを見ていますからね。同じ8歳の時、彼は藤井君よりはっきり強かったと思います。なので、インパクトとしてはそれ以上ではなかったですね。最年少棋士って言われても、普通は無理じゃないですか。加藤一二三先生の最年少記録が14歳10か月?8歳から14歳までって、そんなにないんですよ。だから、その時は現実的な目標とは思えませんでしたね」と浦野八段。

そのひと月後の3月27日。詰将棋解答選手権チャンピオン戦の大阪会場に藤井少年はまた現れた。浦野八段との再会である。

「当時、私は大会の実行委員をやっていたので、参加者の名簿も見ていました。8歳の藤井君が名古屋から来て、ホンマに来たんや、という感じでしたね。彼があまりにもちっちゃかったから、心配してこちらから声をかけたんですよ。『解けた?』とかね。あの日は谷川浩司九段も参加していて、短編が出題される第1ラウンドは藤井君の方が成績が上だったんですよ。谷川さんが本調子ではなかったんですが、それでもまさかという感じでした。

断っておきますが、当時の藤井君が谷川さんと同じ力を持っていたわけではありません。中編が出題される第2ラウンドになると藤井君は苦戦していて、最終成績は谷川さんが7位で藤井君は位。小学校2年生がチャンピオン戦に参加したことはびっくりですが、まだまだ谷川さんと互角に戦うという雰囲気ではありませんでした。

ただ、8歳の少年があの谷川浩司九段と一緒にチャンピオン戦に出て、半分くらい難問を解いた。研修会で将棋を指した時とは全く違う衝撃を受けたことは事実です」と浦野八段。谷川九段と言えば、21歳で名人になった将棋界のスーパースターだ。終盤の名手であり、ハイレベルで芸術的な詰将棋を数多く創作している。その谷川九段と並んで8歳の少年が同じ問題に取り組んだのである。

浦野八段はさらに言う。

「それからは、東海研修会や解答選手権、詰将棋の全国大会などで彼の姿を見かけることが多くなりました。2012年3月の第9回詰将棋解答選手権チャンピオン戦大阪会場では彼のお母さんと話して、『やる気だけはスゴいみたいで』というようなことを聞きました。

この時は34位でしたね。当時の写真を見ると、表情がすごい。この年の4月、藤井君は名古屋で行われた一般戦にも参加して全国2位になっている。マニアに交じって2位だからこれもすごい。その年の7月に大阪で行われた関西こども将棋大会にも彼は参加していました。

私はプライベートで詰将棋関係の書籍などを販売していましたが、朝一番のお客さんが藤井少年。買いに来たのは発売されたばかりの『この詰将棋がすごい!2012年度版』でした。彼は2500円持ってきたんですが、定価は3500円。

『ごめんな、これ3500円やねん』そう言うと彼は、えっ、という顔になって、すぐにお母さんのところへ飛んで行き、そのあと無事手に入れた本を彼は開会式が始まるまで読んでいました。この時は西日本最大規模のこども大会で、一番上のクラスは中学生も参加しているんです。そこで堂々と優勝。最初に会った時からの成長を感じました」


モノクロ写真・棋譜/書籍『【増補改訂版】藤井聡太の軌跡 愛知の少年はいかにして八冠になったか (マイナビ新書)』より
カラー写真/shutterstock

【増補改訂版】藤井聡太の軌跡 愛知の少年はいかにして八冠になったか (マイナビ新書)

鈴木宏彦

2023/11/24

1188円

216ページ

ISBN:

978-4839984397

藤井聡太、八冠までの軌跡を加筆

本書は2021年5月発売された『藤井聡太の軌跡 ~400年に1人の天才はいかにして生まれたか~』に加筆したものです。

『藤井聡太の軌跡 ~400年に1人の天才はいかにして生まれたか~』は棋聖、王位の二冠を獲得したところで終わっていましたが、藤井聡太竜王・名人はそれからも快進撃を続け、ついに前人未到の八冠制覇を成し遂げました。本書では三冠獲得~八冠制覇までの物語を追記しています。

著者の鈴木宏彦氏は藤井竜王・名人と同じ愛知県出身でメディアで注目される前から交流のあった観戦記者です。

書籍中では鈴木氏のみが知っているエピソードや秘蔵写真を公開しています。岡崎将棋まつりでの伝説の佐々木勇気戦や、小学生時代の詰将棋解答選手権の奮闘などの秘話の数々を紹介しています。

さらに藤井竜王・名人の運命を変えた「ふみもとこども将棋教室」に対して綿密な取材を行い、少年・藤井聡太がどうやって成長していったのか、どのような才能があり、それをどう伸ばしていったのかが克明に記されています。

本書は藤井聡太八冠を語る上で必ず参照されるバイブルになることでしょう。

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