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故・池田大作が人生をかけて演じ続けたカリスマ像「400を超える名誉学術称号や各種の表彰」には”池田のためだけに創設された賞という説”も?

集英社オンライン / 2024年2月16日 11時1分

「タゴール平和賞」や「アルバート・アインシュタイン平和賞」を受賞した人物、と聞けばその人を知らずとも偉大な人であるように感じるのではないか。創価学会のカリスマだった故・池田大作氏こそ、その賞を受賞した人物である。だがこの賞、池田氏以外には受賞者が存在しないのだという。学会員のために池田氏が演じてきたカリスマ像とは? 実体のない賞の考察から浮かび上がる創価学会の体質を書籍『完全版 創価学会』より一部抜粋して紹介する。

#1

受賞のからくり

池田は、その生涯において、400を超える名誉学術称号や各種の表彰や賞を受けてきた。創価学会の組織は、これをもって池田の平和思想家としての活動や実績が世界的に評価され、その偉大さが証明されたかのような扱いをしてきた。



しかし、なぜ名誉学術称号や勲章が授与されたのかを調べていくと、そこには一種の「からくり」があるのがわかる。それぞれの授与の背景には、創価大学や民音(民主音楽協会)、あるいは東京富士美術館といった創価学会系の機関の活動がかかわっていた。

東京・新宿にある創価文化センター

それぞれの機関が、先方の国や地域、大学で活動を展開した結果、機関の代表である池田が称号や勲章を授かったのであって、決して池田個人の活動や実績が評価されたわけではないことが少なくない。

こうした機関はどれも池田が創立者となっており、その活動は広い意味では池田の実績にカウントされるのかもしれない。だが、池田の平和思想家としての個人的な活動がどの場合も評価されたというわけではなかった。

一つ例をあげよう。

1991年、池田はタイの国家から王冠勲章勲1等を授与された。池田は1961年以来何度もタイを訪れ、両国の友好に寄与していたという。それでも、具体的な実績となると、創価大学がタイの2つの大学と学術交流協定を結んだり、民音がタイの伝統的な芸能集団を招聘したりといったもので、やはり創価学会系の機関があげたものだった。

なかでも東京富士美術館では、タイの国王が写真を趣味にしていることから、その写真展を開催している。写真展はロサンジェルスやロンドン近郊でも開催されたようだが、ここまでくると、実績作りに、つまりは池田が勲章を授与される道筋をつけるために、涙ぐましい努力がなされていたようにも思えてしまう。

先に、池田が「タゴール平和賞」や「アルバート・アインシュタイン平和賞」を受賞していることに言及した。タゴールやアインシュタインの名前からは、いずれも由緒ある賞であるかのような印象を受ける。

けれども、どちらの賞の場合にも、池田以外にこの賞を受賞した人間は見当たらない。2つの賞は、池田のためだけに創設された可能性さえある。少なくとも、アメリカのシカゴにあるアルバート・アインシュタイン平和賞基金によるアルバート・アインシュタイン平和賞は、世界平和国際教育者協会のアルバート・アインシュタイン平和賞とは別物である。

名誉学術称号の場合、それを授与してもらうために、もっとも活用されたのが、創価大学による海外の大学との学術交流協定の調印だった。創価大学は251の大学と協定を結んでおり(2023年10月現在)、そのうちの多くから、池田は名誉学術称号を授与されている。

しかも、協定を結んではいても、交換留学の制度を実施していないことも多い。これでは、名誉学術称号のためだけに協定を結んでいると批判されてもしかたがない。

政教分離なんだから

こうした試みを、池田を実際の姿よりも偉大な存在に見せようとする「虚像化」としてとらえるならば、晩年になればなるほど、その虚像化は積極的に推し進められた。

たとえば池田は、1968年に開かれた学会の学生部総会で「中国問題への提言」という講演を行い、そのなかで中国との国交回復の必要性を訴えた。創価学会は、この提言が功を奏し、1972年に日中国交回復が実現したかのように宣伝してきた。

講演のなかで池田は、「中共政権」を正式に認めることと、国連に正当な席を用意することを提言している。この提言は朝日新聞がすぐに伝え、そこに中国の政権が着目したのは事実だが、池田の講演は台湾を中国の一部ととらえる「一つの中国」を主張するまでにはいたっていなかった。

具体的に国交回復を進めたのは、自民党の田中角栄であり、その意を受けて中国側と折衝を重ねた公明党の竹入義勝であった。

創価学会は、長く公明党の委員長の座にあった竹入が党の金を横領したり、学歴詐称をしたとして、1998年から厳しい竹入批判を展開してきた。だが、日中国交回復に竹入が貢献したことは事実で、中国側は今もその点で竹入を評価している。

池田が、中国を訪れるのは提言から6年後の1974年で、その際には、毛沢東とも周恩来とも会えなかった。中国が池田を厚遇するようになるのは、やはり創価学会系の各機関がさまざまな形で友好活動を展開するようになってからのことである。

後に創価学会に反旗を翻した元教学部長の原島【嵩/たかし】は、池田が「日中国交回復の産みの親」であるかのように振る舞えるのは、瓢箪から駒のようなもので、学生部総会での提言は先駆的な発言だったが、その後の日本と中国の関係の進展のなかで、予想外に評価されたからだと述べている(「フォーラム21」2002年10月1日号)。

ただし、竹入のもとで公明党の書記長をつとめた矢野絢也は、私との対談で、日中国交回復においては、松村謙三、古井喜実、川崎秀二といった親中派の国会議員と池田との交流が布石になっており、竹入だけの功績ではないとした。

ところが、竹入は日中共同声明を出して、中国から帰国したおり、新聞記者からの「共同声明がうまくいったのは、池田さんのおかげですよね」という問いかけに、「いや、そんなことはありません」と答えたとされ、それが創価学会幹部の怒りをかったという。

矢野は、竹入の側にも「政教分離なんだから、そう言わなしゃあないやないか」という言い分があったと推測している(『創価学会 もうひとつのニッポン』)。

演じ続けた虚像

かつて池田は、「折伏」と称された布教活動の最前線に立って、活動を展開し、他の会員たちを引っ張っていった。だからこそ、参院選挙では、逮捕という試練にも遭遇した。あるいは、創価学会が一般の社会や日蓮正宗の宗門から批判や非難を受けたときには、その矢面に立ち、自らが責任を取ることで事態の収拾をはかってきた。

だが、晩年の池田は最前線に立っているわけでもなければ、矢面に立っているわけでもなかった。その存命中、創価学会に大きな問題が起こったとしても、池田が謝罪したり、全面的に責任を取ったりすることはなかっただろう。名誉会長という特殊な地位は、それを許さない。責任は、会長や理事長が取るしかなかった。

そして一方では、ここまで述べてきたように、池田の虚像化が進み、その実像はいっさい外に伝わらなくなった。晩年の池田に直接会ったジャーナリストもいない。結局は、田原による1995年のインタビューが最後になった。

「中央公論」2010年4月号には、茂木健一郎との「科学と宗教の対話」が掲載されたが、これは直接顔を合わせることのない往復書簡である。海外の著名人との対話も、晩年のものは、やはり直接会っての対談ではなく、往復書簡によるものだった。

その意味で晩年の池田は、創価学会の「象徴」に祭り上げられていたと言える。日本国の象徴である天皇が国事行為という形をとらなければ、現実の政治に関与できないように、池田も、創価学会の組織の運営に実際には携われなくなっていた。自分は監視され続けてきたという池田の発言には、そうした状況が反映されていたように思われる。

池田は、創価学会の精神的な指導者、各機関の先見的な創立者、平和思想家という役割をひたすら演じ続けた。創価学会の組織から、そして膨大な数の会員たちから望まれるままに、名誉会長という役を演じきったのである。

それは、池田に限らず、組織の頂点に君臨しているかのように見える独裁者、権力者に共通して言えることだろう。本人は、それが実像ではなく虚像であるとわかっていても――当然、わかっているはずだ――、そこから逸脱することは許されない。虚像が会員たちを鼓舞し、こころの支えになっている以上、それを崩すわけにはいかないのである。


写真/shutterstock

完全版 創価学会(新潮社)

島田裕巳

2024年1月17日

924円

256ページ

ISBN:

978-4106110283

一宗教団体であるにもかかわらず、いまや国家を左右する創価学会。国民の7人に1人が会員ともいわれる巨大勢力だが、その全容はあまりにも知られていない。発足の経緯、高度成長期の急拡大の背景、組織防衛のしくみ、公明党の役割、そして池田大作というカリスマ亡き後の展開――。あくまでも客観的な研究者の視点から、現代日本社会における創価学会の「意味」を明快に読み解いたロングセラー・決定版。

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