新型コロナウイルス感染症のパンデミックが巻き起こった3年間におけるコロナ政治とはなんだかったか、その“正体”を解き明かす拙著『奔流 コロナ「専門家」はなぜ消されたのか』(講談社)を上梓してから、SNSに流れる、専門家をめぐる反応はまっぷたつに割れた。
《日本の死亡者数は抑えられた》と英雄視する意見と、《飲食店を狙い撃ちにした政府の規制を後押しして分断を助長した》と国賊視する意見である。
この状況を見て、私は79年前の長崎に投下された原爆で被爆しつつも原子力の平和利用を肯定した放射線医学者、永井隆さんが書いた一文を思い出した。
なぜメディアは沈黙したのか。コロナ専門家たちだけがウイルス対策への批判を受けるべきだったのか
集英社オンライン / 2024年2月10日 8時1分
2024年の年明けから新型コロナウイルスの感染拡大が目立つ。もはや多くのメディアがほとんど報道しなくなったが、「コロナウイルス」をめぐるこれまでの報道は正しかったのだろうか。
コロナ禍の政治を振り返る
「科学の世界ではつぎつぎと新しい研究が発表されています。その中には正しいものもあり、まちがったものもあります。正しい学説は文化を進めますが、まちがった学説は人類を不幸に導きます」(永井隆『ロザリオの鎖』1948年刊)
だからデータを積み上げ、研究が導き出した考え方が正しいかどうか、よくよく確かめる実験を重ねながら物事を進めることが大切だ――そんな科学に対するものの見方を小学生に説いた文章である。
永井先生のおっしゃる通りなのだけれど、2020年代初めに起きたコロナのパンデミックを考えるにあたっては少し違う事情もある。この3年間はいわば火事場で、「今日までのデータをもとにひとまず明日の対策を練って決める」というように、走りながら決断を下すことが政治には求められた。どの対策が「正しい学説」に近く、どの対策が「人類を不幸に導く考え方」に近いのか、確かめられないことばかりだった。
ならばどうするか。国民が納得を得ながら対策を進められるか。政府の方針を噛み砕き、混ぜてみせ、落ち着かせて先に進む――。そんな役割を果たさなければいけなかったのは、新聞やテレビといったメディアだった、と私は思う。実際、そんな役割が何度も問われる局面が何度かあったが、そのつど、メディアは沈黙した。
印象深いのは、2022年の1月から3月にかけてのことだ。
1年で3度の緊急事態宣言、五輪開催延期と医療崩壊という激動にゆれた前年が終わり、さあこれから社会を動かしていかなければいけない。だが、「いつ緩和するのか」「どうやって緩和するのか」というターニングポイントを見極める決断が近づいていた。
コロナ専門家同士の間でも深まった溝
第6波の流行に対し、一方は、岸田文雄政権が打ち出した強い対策(まん延防止等重点措置)を拡大・延長する政府方針を了とする専門家。他方には、方針に反対を表明した専門家がいた。
前者が尾身茂・新型コロナウイルス感染症対策分科会長を筆頭にした感染症専門家であり、後者が大竹文雄・大阪大学大学院教授のほか医療の専門家にも同調者がいた。両者の緊迫したやりとりを、『奔流』10章から引用する。
〈大竹は[2022年・以下同]1月25日から3月4日まで5回にわたって反対を表明したと記したが、2月18日までは、ほとんどメディアでは取り上げられなかった。
背景の1つは、5回のうち当初の3回目までは、反対意見があったことについて分科会長の尾身茂が会議後の会見で言及しなかったことがある。
4度目にあたる2月18日の分科会の後の会見では「2人の委員が反対した」と明らかにした。ただ、その日は過去の反対意見を表明した分科会の議事録がようやく公開される日と重なっていた。この日、反対した2人の属性を聞かれた尾身は、「感染症の専門家ではない」と言い、つづく3月4日の会見でも「カテゴリーは医療の専門家ではない」と述べた〉
大竹氏以外のもう1人は、医療社会学の専門家。いわば文系の学者だ。
〈黙っていてもいずれ議事録が公開されて反対があったことは明らかになる。だが、取りまとめ役の尾身にとって構成員の間の意見の食い違いをメディアに対立図式で煽り立てられるのは悩ましい面がある。一方、尾身は政府方針を多数で了承した側、いわば“与党的立場”だ。
この構図の中で「(反対者は)感染症の専門家ではない」という尾身の発言は、「感染症の専門家」と「それ以外の専門家」を色分けし、前者が反対したわけではない、だから「問題はない」と押し通すようにも聞こえるものだ。
尾身はのちの私の取材に「そうした意図はまったくなかった」と否定したが、少なくともこの時点ではこうした状況は大竹を刺激した。
大竹は、2月半ばからブログで意見を発信し始め、これがSNSで次々と拡散された。さらに5回目の反対意見を述べた3月4日の分科会では事前にA4判3枚の意見紙を提出した。提出資料に文章として理由を記すことで、自分の発言内容の説明を尾身に委ねない、という意思表示にも見受けられた〉
専門家の間でも、考え方に深い溝が生じていた。
感染症の専門家は季節性インフルエンザよりも致死率はコロナのほうが微妙に高いことを明らかにしていた。「ウイルスがより毒性が高くなる変異が生じることもある」「医療逼迫のリスクはいまだに高い」という指摘も出ていた。
国民の不満を一手に引き受けたコロナ専門家たち
その一方、これまでの流行に比べ、感染しても症状が重くなる人は減っていた。重くなるにしても高齢者が主になっていた。大竹氏のブログは注目され、国会にも招致された氏は、そこで考えを語った。
どちらの方針が「人類を不幸に導」くのか。じつは、正解があるわけではなかった。
コロナ死を減らすことを重んじるか、コロナ対策による自殺や経済苦に手を差し伸べることを重んじるのか。当然、価値観にも左右される。それゆえに厄介だが、とても大切な議論だったと思う。国民に噛んで含めるように議論を交通整理して届け、整えていくメディアの出番。なのに、メディアは大竹氏の反対について大きく取り上げることはなかった。また、自らのスタンスを明らかにしなかった。
少し後になって一部で「どう出口に持っていくか」という対論記事が出るようになるけれど、結局、紙の新聞でいえば何枚もめくった奥の面を探さないといけなかった。国民的議論を喚起するには程遠かった。
大竹氏を取材していたある大手紙記者は、「諸外国に比べコロナ死者数は十分に低いし、もっと死者数が増えることを許容してでも社会を動かすべきです」と社内で熱弁をふるったが、幹部からは奇人変人扱いされたそうだ。
記者の意見は暴論ではない。いつも正義の立場から論じていたいメディアほど、こうしたリスクのある議論では沈黙を選ぶ。死をめぐる報道で、「不謹慎だ」と顰蹙を買うのが怖いのだ。間違わない俺たち、という高みに安住して、「迷ったら沈黙する」という反応に終始したのが、危機を通して一貫した日本の新聞やテレビの姿だった。支持率ばかりを気にして「出口」に踏み出せなかった政府をメディアがはっきりと批判できないのは、「沈黙」の後ろめたい過去があるからではないか。
政府とメディアが揃って沈黙する中、国民の目の前に顔出しで立ち続けた尾身氏たち専門家に、消化不良の国民の不満が投げつけられた。「いつまでもマスクだ、自粛だ、といっている専門家はけしからん」と。本当にこれで、よいのだろうかというのが、『奔流』に込めた私の問題提起である。
文/広野真嗣
奔流 コロナ「専門家」はなぜ消されたのか
広野真嗣
2024年1月17日
1980円(税込)
単行本/304ページ
978-4-06-534465-1
「嫌われたって、やるしかないんだ」
尾身茂、押谷仁、西浦博ー感染症専門家たちは、コロナ渦3年間、国家の命運を託された。彼らは何と闘い、なぜ放逐されたのか?政権と世論に翻弄されながら危機と戦った感染症専門家の悲劇!
小学館ノンフィクション賞大賞受賞の気鋭ライターの弩級ノンフィクション
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