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「燃えてる。うちはダメ……。もう、もう、焼け落ちた……」2度の火災で北九州・旦過市場の老舗映画館が焼け落ちた日

集英社オンライン / 2024年2月25日 11時1分

北九州市・旦過市場の火事が起きたのは2022年の4月だった。元々古い市場だったが活気があり観光客も訪れていた。そしてその悲しみが癒え切らない4ヶ月後にまた火事が、それも前回より大きな規模で起きたのだ。その火事で消失してしまった歴史ある映画館こそ、「昭和館」。その消失から再生までを記した『映画館を再生します。 小倉昭和館、火災から復活までの477日』より、火事が発生した日の様子を一部抜粋して紹介する。

#2

うちはもうダメ

去年の夏も、暑かった……。

小倉駅から歩いて7分。魚町商店街を抜けて大通りの信号を、旦過市場のほうに渡ったところの路地に、古い建物はありました。

夜にはネオンが輝いていました。うちの裏手にある旦過市場では、2022年の4月に大きな火事があったばかりでした。



あの日。

2022年、8月10日、水曜日。レディース・デイで、展示コーナーにたくさんのお花を飾っていました。うちで上映していた『映画太陽の子』には、若くして亡くなった三浦春馬さんが出演されています。熱心なファンの方々が、いつものように、たくさんの花を贈ってくれていたのです。

最後のお客さまの背中を見送って、スタッフと翌日の予定を打ち合わせます。「暑いから売れるよね」と、冷蔵庫にはアイスクリームをパンパンに詰め込んでいました。

お掃除のおばちゃんに残ってもらって、わたしは昭和館を出ます。

真っ直ぐに自宅のマンションにもどって、夕食の仕度をしました。お魚を焼いて、味噌汁をつくります。お風呂に入って、洗濯機を回しました。

家族3人が、食卓に集まったのは夜9時よりも前で、「きょうは早いね」と、みんなで話していました。

ちょっとだけ、お酒も飲んでいます。

それぞれがパジャマを着て、ほろ酔い加減になったところ、電話が鳴りました。自宅の固定電話でした。こんな時間に誰だろう……と、受話器をとりました。

弟の声でした。

「魚町4丁目のほうが、燃えてる」

「えっ」

そんなはずがない……。息子と目を合わせました。夫の視線を感じます。弟の声が、わたしの耳に響きます。

「すぐ、降りてきて」

「わかった」

「マンションの下に、迎えに行くから」

夢中でした。酔いは一瞬にして、さめています。

ごはんを食べかけのまま、急いで着がえます。化粧もせず、「火を消したよね」と、そこだけ確認して、家を飛び出しました。

家族3人、自宅のマンションの前から、弟のクルマに乗り込んだのですが……。

昔ながらの面影を残す北九州市の旦過市場 昭和館は旦過市場のすぐ隣に位置している映画館だ

旦過市場は、北九州の台所。4月の火災の傷も癒えないうちに、2度も続けて起こるなんて、信じられない。昭和館は大通りから、路地をちょっと入ったところにあります。すでに消防車もきていたので、クルマは近寄れません。

あらためて、携帯電話を確認しました。警備会社からの連絡はないので、あのときに火は入っていなかったのでしょう。

大通りの反対側の歩道から、昭和館が、影のように揺らいでいました。

建物のすぐ後ろの旦過市場からは、炎が出ています。煙も見えました。強烈な匂いも漂っていました。

うちが火元だったら、わたしは生きていけない……。

樋口家は代々、この地域の消防団でした。昭和館の創業者でもある祖父は、消防団長をつとめています。団員だった叔父は、大昔の旦過市場の火事で目をやられています。

うちの映画館には防火水槽がありました。消火栓もありました。消防団の刺し子の法被や、ヘルメットもありました。消防訓練も、毎年しています。

4月の火事は「漏電が原因かもしれない」と言われたので、電気系統を再検査してもらっています。きちんと全部調べて、大丈夫とのお墨付きをもらいました。

あんなに気をつけても、火を防げなかった。あれ以上、どうすればよかったのか。

映画館の悲鳴

息子の直樹は、防災管理者でした。「自分が残っていたら、大事なものを持ち出せたのに」と悔やんでいます。わたしが残っていたら……。どんなに燃えていたとしても、火を消そうとしていました。

お客さまがいなかったのは幸いですが、わたしは館主として、昭和館と運命をともにしたかった。

やがて市場の火がひろがり、歴史ある建物が、炎に包まれます。

消防車が放水をはじめたので、機械はダメだと覚悟しました。35ミリの映写機も、ずいぶんと高価だったDCP(デジタルシネマパッケージ)上映機器も、お預かりしていたフィルムも、すべて燃えます。

たくさんの映画人のサイン色紙も、高倉健さんからいただいた手紙も、三浦春馬さんのファンがくださったお花も、特製のアイスクリームやポップコーンやマドレーヌも、灰になります。

映画館の悲鳴が聴こえました。

88歳の父に、わたしは電話をかけています。

「燃えてる。うちはダメ……。もう、もう、焼け落ちた……」

父は、冷静でした。

「焼けたものは、仕方ないじゃないか」

立ち会わなければならない。目をそらしてはいけない。それだけでした。

このときの映像が、テレビに何度も流れています。不思議なもので、あれが追体験となって、いまはどこか他人事のように思えるのでした。

父は2代目館主として、映画界の栄枯盛衰に立ち会っています。

あとで知ったのですが、わたしたちが「こなくていい」と言ったのに、父はひとり、燃え落ちる昭和館にむかっていました。

この現実を、自分の目で確かめるために……。

写真はイメージです

まあ、しょうがないやろ

何もかも、燃えました。

映画館の最期をみとることができたのは、不幸中の幸いです。

4月の火事のとき、わたしは県外にいました。真夜中に新聞記者から「旦過市場が燃えている」という連絡を受けて、すぐにクルマで帰っています。

あのとき、昭和館は無事でした。裏の窓ガラスが割れているだけで、市場のほうも鎮火していました。

8月の火事では、断末魔の悲鳴を聞いています。わたしに見届けさせようと思ったのかもしれません。

宮大工さんがつくった神棚も燃えました。うちの創業当初からあるもので、「あれが一番、価値があったかな」と、いまさらながら父は悔やんでいます。わたしも毎朝、手を合わせて拝んでいました。

光石研さんが寄贈してくれた特設シートは、コロナによる緊急事態宣言が発令された2020年の秋につくったばかりでした。黒田征太郎さんが壁に描いてくれていた「へのへのえいが」のイラストも、すべて瓦礫になりました。

記憶にないのですが、あとでテレビを見ていたら、こんなことを話しています。

「うちは残してもらったからね、前の火事で……。やるべきことがあると思っていたのに、いろんなことを予定していたのに……」

あの日の夜。焼け落ちる建物から離れて、ふらふらと歩いていました。

すでに消防本部ができていました。

消防や警察の人たちに、名刺を渡します。顔なじみの方々もいました。4月の火事のときには、昭和館のロビーを開放して、コーヒーやお菓子を提供していたので、みんなと親しくなっていたのです。

火を出してしまった小料理屋の女将は、着物姿で立ち尽くしていました。「ダメやったんやね」と両手で頭を抱えて座り込んでいたのは、顔なじみの珈琲店のマスターでした。

炎にちらちらと照らされながら、みんな途方に暮れています。

北九州の台所として大正時代から栄えている旦過市場は、2度の火災で壊滅的な被害を受けたのです。

昭和館も燃えたので、今度はみんなを助けられない。

昭和館のそばに
家を建てて、
毎日観にきますよ

いまでも許せないことがあります。

火がおさまっていないのに、警備会社の制服を着た人が、ニヤニヤと笑いながら、携帯電話で話していたのです。野次馬でも腹が立つのに、警備会社は当事者なのに、うちも契約していたのに……。

記憶は混乱しているのですが、わたしは「もうダメやね」と話して、夫と息子と3人で、現場から引き上げたのだと思います。

実家に寄ったら、父はまだ起きていました。

「こんな目にあうとはなあ。2度も火事になって、全部なくなるとはなあ……」

娘としては、言葉もありません。館主としての責任を感じて、くちびるを嚙みしめるしかない。父は「まあ、しょうがないやろ」と、あきらめたような口ぶりです。

すぐ家に帰ったのだろうと思います。

眠れませんでした。

どうしても眠れない。真夜中の3時ぐらいに、もう一度、ひとりで現場に行きました。

大通りでタクシーを降ります。

そろそろ近くまで行けると思ったのですが、路地には入れません。旦過市場のほうは、まだ火がくすぶっていますが、映画館の火は消えているようでした。

「ああ、昭和館が、昭和館が……」

と、泣いてくださっている方もいました。

あの建物には、83年の歴史があります。私の祖父が、戦前の昭和14(1939)年に芝居小屋兼映画館として創業しました。

火事が起きる前の旦過市場

女優の秋吉久美子さんがイベントに訪れたとき、「こんな素敵な映画館はない」とおっしゃってくれています。

もとが芝居小屋でもありますから、座席の傾斜が急で、どこの座席からも舞台の木目まで見えます。前のお客さんの背が高くても、後ろの人の邪魔にならない。間口も広くて、奥行きもちょうどいい。

いろんな見やすさがあるのだと、秋吉さんは語ってくれました。

「わたしがもし、文学好きの少女のまんま、めでたくお金持ちと結婚できたとしたら、昭和館のそばに家を建てて、毎日観にきますよ」

イベントの司会をつとめながら、わたしは「なんていう幸せ……」とつぶやいていました。

あの建物を失ったのは、痛恨の極みですが、焼け落ちる瞬間に立ち会うことができました。
瓦礫と化した昭和館から離れて、ウロウロしているうちに、空が明るんできました。家にもどって、その日は眠れたのでしょうか。

そんなことも思い出せなくなっています。

写真/shutterstock

映画館を再生します。 小倉昭和館、火災から復活までの477日(文藝春秋)

樋口智巳

2023/11/22

1,320円

168ページ

ISBN:

978-4163917801

2023年12月19日、ついにグランドオープン!あの火災から496日、小倉昭和館が完全復活。「北九州のニュー・シネマ・パラダイス」と話題に。

昨年の夏。北九州の旦過市場の火災で、福岡市最古の映画館は、創業83年を目前にして焼け落ちた。「うちはもうダメ…」高額な映写機やスクリーンや座席も、宮大工のつくった神棚も、たくさんの映画人のサインも、宝物だった高倉健の手紙も、すべてが燃えてしまった。

小倉昭和館の三代目館主、樋口智巳は、瓦礫の前で立ち尽くした。それでも、あきらめなかった。リリー・フランキー、光石研、仲代達矢、秋吉久美子、片桐はいり、笑福亭鶴瓶など、たくさんの映画人に支えられて、樋口館主は誓うようになった。まちの人たちのよろこぶ顔を見たい。みんなの居場所を守りたい。「映画の街・北九州」で、映画館の復活という夢を見たい……。

すべてが瓦礫になった映画館が、2023年12月に「再生」するまで。完全ドキュメント。

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