「暴力団に連れてこられた」「漂流中に救助された」初の日朝首脳会談直前、拉致被害者に“隠蔽シナリオ”を強要した北朝鮮の謀略
集英社オンライン / 2024年2月24日 18時1分
約1年の事前交渉を経て、2002年9月17日、平壌市内で初の日朝首脳会談が行われた。両国は、国交正常化を目指す「日朝平壌宣言」に署名し、当時の金正日総書記は初めて拉致の事実を認めて謝罪した。その後、蓮池薫さんら被害者5人の帰国が実現するが、残りの不明者については「死亡」「入国していない」と主張するなど、提示された調査内容はあまりに杜撰なものだった。『当事者たちの証言で追う 北朝鮮・拉致問題の深層』(朝日新聞出版)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
初の首脳会談へ「日本に行く気ない」隠した本心
日朝首脳会談が行われる半年前の2002年3月、朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」に、日本人行方不明者を調査する用意があるとの記事が掲載された。蓮池薫さんは北朝鮮でこの記事を読み、「これは何か動きがあるかもしれない」と感じたという。
5月中旬になり、薫さんと地村保志さんが北朝鮮当局者から呼び出された。拉致問題について、2人が存在しているという事実を日本側に明らかにすると告げられ、「現在、そのための交渉を実務レベルで行っているところだ」と明かされた。さらに、保志さんは「拉致問題の解決についてどう考えるか。2人だけを出せば解決するか」と問われ、「それでは全くだめだ」と答えた。
薫さんは「拉致問題の解決についてどう思うか」とも聞かれた。言葉を慎重に選びながら答えた。「日本に行く気はない。ただ、拉致問題をきれいに解決しようとするのであれば、結局は自分たちを日本に帰国させるしかないのではないか」
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小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談 写真/Getty Images
実際にはそんな話はないのに、忠誠心を試すために指導員がカマをかけてきたのかもしれない。帰国したいという本心をさらけ出すことで、不満分子とみなされ、自分自身だけでなく家族にも不利益が生じるのではないか。そんな恐れを瞬時に感じ、このように答えたという。
日本に帰っても、北朝鮮のスパイではないかというレッテルを貼られ、両親や兄に迷惑をかけるのではないかという心配もあった。北朝鮮で生まれた子供たちへの影響も考えた。ただ、日本にいる家族には、自分が生存している事実を知らせたかった。首脳会談までの数カ月間、毎日のように悩み続けた心労から、体重はかなり減ったという。
帰国後、日本政府の聞き取り調査に「もし自分が帰国に対して積極的な態度を示していれば、今回の帰国はなかっただろう」と答えている。薫さんの直感が正しければ、同じようなチェックを受け、帰国できなかった人がいる可能性も考えられる。
拉致隠蔽のため用意された“台本”
指導員からは、日本に帰国した際に説明するための「台本」が用意された。「拉致されたのではなく、モーターボートが故障して沖で漂流しているところを救助された。北朝鮮で治療を受けているうちに、この社会はいいと思うようになった。日本人ということが周知されると何をされるかわからないので、在日朝鮮人と偽って定住するようになった」とのシナリオが用意されたのだ。
指導員と一緒にこのシナリオの内容を真実性があるように練り直し、質疑応答の練習も繰り返したという。薫さんは「『救助された』と言っても、日本側には通用しません」とも進言したが、この時点では聞き入れられなかった。「拉致された」という事実は伏せるように指導された。
このことは、薫さん自身も著書『拉致と決断』(新潮文庫)の中などで明らかにしている。
保志さんにも「海上で衝突事故を起こし、漂流していたところを救助され、在日朝鮮人と偽ってそのまま生活することになった」とのシナリオが用意された。保志さんは、それでは疑問を持たれると指導員に進言し、自ら「暴力団とトラブルになり、連れてこられた」とのストーリーを考えたところ、採用されたという。
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蓮池さん夫妻が北朝鮮の工作員に拉致された新潟県柏崎市の中央海岸(©︎朝日新聞社)
6月になり、蓮池さん夫妻と地村さん夫妻は、約2年間を過ごした「双鷹招待所」から平壌市内のアパートに引っ越すことになった。「そこに住むのは一時的であり、一連の動きが終われば、もっといいアパートに住まわせる」と言われた。北朝鮮は、被害者を帰国させるつもりはなかったのだろう。ここでも、シナリオに基づく質疑応答の練習を続けた。
8月に入り、蓮池さんらは指導員から小泉首相の訪朝が決まったと伝えられた。その後、「日本政府の代表団と会うことになるかもしれない。会う際には蓮池薫、奥土祐木子であることを明らかにしてもよい」と言われた。
この頃になると、拉致は認めないとの当初の方針から転換しつつあるようだった。日本側から「拉致されたのか」と聞かれたら、こう答えるように指示されたという。
「肯定も否定もせずに、『想像に任せる』と言って適当にはぐらかすように。『詳しい内容については後で話す』と言うように」
拉致を認めるべきか、否定すべきか。北朝鮮が日朝首脳会談を控え、最終的な判断を決めかねていたことが窺える。薫さんは当時の心境について、日本政府に「その時は部分的ながら本当のことが言えるということで、気が楽になった。ただ、子供たちへの影響が心配だった」と話している。
一転して拉致を認めた北朝鮮
9月17日の首脳会談当日。薫さんらは平壌中心部の高麗(コリョ)ホテルの向かいにある施設で朝から待機した。午後になり、日本外務省の梅本和義・駐英公使と面会した。
首脳会談で金正日氏は「1970〜1980年代初めまで、特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走ってこういうことを行った」と述べ、拉致を認めた。保志さんは直前まで受けていた指示内容から考えると、指導員らは拉致を認めることを知らされていなかったのではないかと感じた。この時点では、薫さんも日本に帰国できるとは思っていなかったという。
久しぶりに日本から来た日本人と話が出来てうれしいと思う一方で、今後も北朝鮮で生活していくために、北朝鮮の公民としての立場を守るべきであるという気持ちから、梅本公使には警戒感を抱きながら慎重に言葉を選んだという。
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外務省の外観
首脳会談の結果、日本政府が日本人拉致の事実関係を調べるため、調査団を平壌に派遣することが決まった。すると、蓮池さん、地村さん両夫妻には指導員から新たな指示が出された。
「今度は全てを話すことになる。だが、どこの機関によって拉致されたのかはわからないように、また、下部の人間が行ったというイメージを与えるように話すこと」
金正日氏が首脳会談で発言した内容との整合性を保とうとしたとみられる。
薫さんは、拉致されてからの詳しい経緯を知らない指導員から、「過去に他の被害者と一緒だったことはあるか」と聞かれた。薫さんは「地村さん夫妻とは一緒だったし、横田めぐみさんも知っている」と答えた。
すると指導員は、日本政府の調査団から横田さんについて聞かれたら、「1993年1月に入院し、その後に死亡したという噂を聞いたと話せ」と指示してきたという。だが、薫さんは1994年まで横田さんと顔を合わせる機会があった。その事実を指摘したが、指導員は「とにかく、言うとおりにしろ」と繰り返すだけだったという。
指導員は、北朝鮮が示した調査結果との整合性を懸念したとみられる。北朝鮮の調査がずさんであり、虚偽が含まれていることは、5人が帰国した後に日本政府に証言した内容で裏付けられることになった。
被害者の帰国巡る北朝鮮との駆け引き
首脳会談の11日後、9月28日に日本政府の調査団(団長・斎木昭隆・外務省アジア大洋州局参事官、11人)が平壌入りした。調査団は面会する相手が被害者本人で間違いがないかどうかを確認するために、事前に蓮池さん夫妻や地村さん夫妻の両親と会い、本人の特徴やエピソードなどを聞いてから訪朝した。
北朝鮮は日本に住む被害者の家族に訪朝を呼びかけ、再会させるつもりだったようだ。
「まずは家族を共和国に来させるように話せ。拉致問題への言及があった場合は、過去の植民地支配をもって反論せよ。ただし、激論は避け、いい関係を保つように」
薫さんが北朝鮮当局から指示された日本政府調査団との面談時のシナリオは、このような内容だった。再会した際に「日本に帰ってこい」という両親らをどう説得したらいいか。北朝鮮当局は、薫さんら被害者の意見も参考に検討していた。
実際に薫さんら被害者5人は調査団との面会聴取やビデオ収録で、「北朝鮮へ来て欲しい」と両親らに呼びかけた。日本にいる家族からは当然ながら、「北朝鮮に言わされているのではないか」「相手に連れて行かれたのに、こちらから引き取りに行くのはおかしい」といった疑問の声があがった。
家族会は訪朝を見合わせ、あくまで被害者の帰国を求める方針を決めた。
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拉致被害者が24年ぶりに一時帰国。チャーター機から降りる、前列右から地村保志さん、地村富貴恵さん、2列目右から蓮池薫さん、蓮池祐木子さん、その左奥は曽我ひとみさん=2002年 10月15日、羽田空港(©︎朝日新聞社)
日本の家族の対応が功を奏し、10月に入ると、北朝鮮は日本政府に対して「5人の一時帰国を認める。日程は今月15日」と伝えてきた。指導員は薫さんに「日本に帰る気持ちはあるか」と尋ねた。
薫さんが「日本には行けないし、行かない。家族を呼び寄せるということで準備をしてきたのにどういうことだ。日本に行く目的は何か」と聞き返すと、「ただ、行って帰ってくるだけでいい」と言われたという。やりとりは約2時間続き、最後に指導員はこう言った。
「日本側が先生(薫さん)の一時帰国を要求しているので、日本に里帰りして来て欲しい。実はこれはもう決まったことだ。そうするしかない」
指導員はなぜ、始めから「一時帰国」が決まったことを明らかにしなかったのだろうか。薫さんは、自分の本当の気持ちを探るために再び、カマをかけてきたのかもしれないと感じたという。指導員は「子供も一緒に連れて行ってはどうか」とも言った。薫さんは「とりあえず、我々だけ(薫さんと祐木子さん)で行ってくる」と答えた。もし、この時に「子供も一緒に」と言っていたらどうなっていたのか。薫さんは、北朝鮮が何らかの理由をつけて、自分自身の帰国も許さなかったのではないかと考える。
保志さんも、「子供は置いていく」と伝えた。子供は連れて行ってもいいという口ぶりだったが、北朝鮮当局者の本心はわからなかった。
文/鈴木拓也
構成/集英社オンライン編集部ニュース班
写真/朝日新聞社
『当事者たちの証言で追う 北朝鮮・拉致問題の深層』
鈴木 拓也
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2024年2月20日発売
1,870円(税込)
240ページ
978-4022519665
北朝鮮との水面下の接触は続いていた!
日本人被害者5人の帰国から21年。交渉は停滞したままと思われていた2023年、政府高官が東南アジアのある都市に極秘渡航し、朝鮮労働党関係者と接触していた。
数年前に外務省と北朝鮮の秘密警察「国家安全保衛部」とのパイプが途絶えた後、内閣官房の関係者が第三国で北朝鮮側と断続的に接触し、政府間協議の本格的な再開への意思を探り合ってきたのだ。岸田首相の「ハイレベル協議」発言と北朝鮮の外務次官談話は、5月の日朝接触とタイミングが重なる。
「拉致問題は解決済み」との態度を変えない一方、米韓と対立する北朝鮮は日本との対話を探っている。2024年1月1日に起きた能登半島地震被害を受け、北朝鮮の金正恩書記長が岸田首相に見舞いの電報を送った。これは一体何を意味するのか?
蓮池薫氏、田中均氏らキーパーソンたちが語る交渉の舞台裏と拉致問題の行方を追ったノンフィクション。
解説=斎木昭隆・元外務省事務次官(2002年と2004年、政府調査団として訪朝)
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