1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. カルチャー

長嶋茂雄も王貞治もぶん殴っていた。野球界はなぜ体罰を根絶できないのか―日本野球と体罰の歴史を追った1冊が解き明かす“この国のすがた”【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】

集英社オンライン / 2024年2月27日 17時0分

ブッダは本当に差別を否定し、万人の平等を唱えた平和論者だったのか−いったい何者で、何を悟り、何を語ったのかに迫った革新的ブッダ論【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】〉から続く

野球を愛する研究者の力作『体罰と日本野球 歴史からの検証』(岩波書店)を紹介する。長嶋や王、星野、清原だけでなく、100年以上も前の正岡子規まで、ありとあらゆる野球人たちの言葉や記録を掘り返し、体罰や非科学的な練習がおこなわれた原因を解き明かした1冊は、ついに“真相”を浮かび上がらせる。ノンフィクション本の新刊をフックに、書評のような顔をして、そうでもないコラムを藤野眞功が綴る〈ノンフィクション新刊〉よろず帳。

#1 アル中のように酒を求め、日々深く酔っぱらう椎名誠と福田和也の共通点


#2 最強のボクサー、井上尚弥の〈言葉〉はなぜ面白くないのか?
#3 ブッダは本当に差別を否定し、万人の平等を唱えた平和論者だったのか

長嶋はぶん殴った

昭和56年(1981年)に生まれた評者は、長嶋茂雄の活躍を目にしていない。両親は南海ホークスからの流れで、ダイエーに声援を送っていた。「実力のパ、人気のセ」が家庭内の符丁だったので、長嶋のイメージといえば『かっとばせ キヨハラくん』に出てくる、邪気のないトボけたおじさん程度のもの。

しかし、中村哲也著『体罰と日本野球 歴史からの検証』(岩波書店)に目を通すと、実像はずいぶん違う。長嶋は邪気のないおじさんどころか、ピッチャーの西本聖に何十発もの平手打ちを喰らわせ、キャッチャーの山倉和博を拳骨で殴るような男だった。それも、ただ一度の出来事ではない。〈長嶋監督の思い出を改めて追いかけると、真っ先にゲンコツが浮かんでくる〉【1】というほどだ。

〈のちに長嶋はこのこと【選手への体罰/評者註】について「彼らが若くて、これから素晴らしい選手になる可能性があるからこそ手を上げた。どうでもいい選手なら頭をなでておしまいだ。特にあの場合、口より手のほうが効果があるとみた」と述べている。二人【西本と角三男/評者註】が有望な選手であること、「手のほうが効果がある」などを理由にして、長嶋は監督として選手に体罰を行使することを正当化したのであった〉【2】

著者の中村は、テレビや芸能の世界ではほとんど不可侵の存在になっている長嶋を惰性で黙認するような真似はしない。しかし同時に、彼は野球を愛してやまない研究者でもある。

当然の帰結

1872年、お雇い外国人教師がボールやバットを日本に持ち込んだところから野球の歴史が始まった。

〈当時の野球は、遊び仲間から「常連」となった者を中心にして、学校の公認や経済的援助のないインフォーマルな集団での活動であった〉【3】

その中心は、社会的エリートを養成するための東京帝大(現・東京大学)や慶応義塾大学、東京商業学校(現・一橋大学)を始めとした高等教育機関だった。1886年の発足からほどなく、旧制高校の頂点に位する野球部は黄金時代を迎える。そして「当然の帰結」として猛練習や制裁が生まれ、学生野球界の覇権を失うにいたった。日本野球における「体罰発生の方程式」が、基本的には一高の帰趨と相似形であることを立証したのが、本書の眼目のひとつである。

そして、じつはこの方程式が、著者の想定した野球という枠組みを超え、まさにいま日本が打ち出しつつある「労働力としての移民政策」の不健全性を裏付けるものであるというのが、本コラムの眼目となる。

純文学余技説

野球(部)は当初、純粋な余技であった。余技とは〈専門以外にできる技芸〉【4】の意だが、ここでは昭和初期に活躍した小説家、久米正雄の言葉「純文学余技説」を便利使いするのがよいと思う。「文学というものは、大なれ小なれ、生活の救抜を目的としているものだが、その救抜の本式の形は余技であって、職業化されてはならない」。

久米は「もっとも大切なもの(純文学)」と「生活のための仕事(大衆小説)」を、同じ地平で語るべきではないと主張した。当時、彼は大衆小説作家として大きな財産を築いており、「余技説」は、自身が量産していた作品の質に対する藝術面からの批判を避けるための方便でもあった。

小説という藝術作品の本来性(良さ)を守るためには、どうすべきか。大衆小説は食うための職業に過ぎない。職業は金を稼ぐためにおこなうもので、そこに藝術性を求めるべきではない。藝術性は安定した生活の上で展開される余技でこそ十全に発揮されるべきだ。仕事に「正しさ」など求めないでくれ――。

職業的報酬の発生

『体罰と日本野球』で紐解かれるメカニズムは、この「余技説」と見事に軌を一にしている。先に述べたように、日本で最初期に野球を楽しんだのは、一高や大学の学生たちだった。

〈学業での怠慢は、落第や退学に直結していたため、勉強と野球の両立は一高野球部員にとって至上命題であった(…)一高野球部員は、教師や親から叱責されたり、校友から忠告を受けたりしながらも、日々練習や試合に励んでいたのである〉【3】

こうして一高は連勝を重ねるが、野球が一般子弟の世界に広がりを見せると、黄金時代は終わりを迎える。なぜなら、一高生たちは勉学にも励まねばならなかったからだ。

〈例えば、一九〇三年の入試の状況を見ると、一高の倍率は全校平均の二.四九倍を大きく上回る三.五九倍、合格最低点もすべての部類でもっとも高かった。その結果、一九〇〇年代に入ると「中学選手達のうち技倆優秀な者でこの難関を突破し来る者は皆無」〉【5】

本来、学生の本分は勉学にある。野球は愉快な余技のはずであったが、東京六大学野球のラジオ中継が始まると様相が一変した。それは、学生野球の選手たちが余技であるはずの野球で、金や働き口といった職業的報酬――生活の糧を得るようになったことを示している。

明治期には、レギュラー選手と若干名の補欠、十数人の部員で楽しくプレーしていた学生野球は、1940年代に入ると〈ほとんどの一年生が「フロ当番、グラウンドならし、球ひろい」〉【6】の生活を強いられるようになったのである。

部員の存在価値

野球をやりたい者(選手の候補者)が増えると、結果的に、部員ひとりひとりの尊厳は守られなくなる。著者は、その「真実」を東京六大学野球における〈残存率〉【3】で説明している。1年生部員のうち、何パーセントの者が4年時まで部員として在籍していたのかを計算したものだ。

〈一九五三年から六二年の部員数が増加している時期は残存率が低下する一方で、一九六三年以後に部員数が減少すると、残存率は上昇しているのである。部員数が増加すると、部員一人一人の存在価値は下がり、監督や上級生から体罰やしごきを受けやすくなり、退部する部員も増加する。部員数が減少すると、部員一人一人の存在価値が上がり、指導者や上級生も安易に下級生に体罰やしごきを加えて彼らが退部することがないよう配慮していたことがうかがえる〉【3】

この構図は、すっかりそのまま経営者と正規雇用者、フリーランス(非正規雇用者)の関係に置き換えることができるだろう。経営者(監督)、大手企業の正規雇用者(レギュラー、準レギュラー部員)、フリーランス(それ以外の部員)【7】。

昨年末、出版されてすぐに目を通した「現代の召使」を研究した1冊【8】でも、なぜ使用人が富豪に〈無価値なモノ〉【9】のように扱われ、捨てられるのかが、野球と同じ仕組みで説明されていた。

〈本質的にこうした行為は、使用人の交換可能な特性を示している。雇用主と使用人の相互依存は幻想だ。使用人は雇用市場にあふれているため、富豪はいつでも掘り出し物を見つけることができる〉【9】

正社員の理屈

同じく昨年末に刊行された『エッセンシャルワーカー 社会に不可欠な仕事なのになぜ安く使われるのか』【10】でも類似の分析がなされている。ひとたび人手が足りてしまうと――過度な価格競争が発生し――ごく一般の労働者(経営者および大手企業の正社員以外の労働者/つまり、日本の労働者のほとんど)の報酬は抑制されるという、現世の実相だ。

財界のお偉方は言う。「人手が足りない」。
高給取りの正社員である新聞記者も言う。「移民労働者なしでは、もはや日本社会は成り立たない」。

だが、これは嘘だ。嘘でないとすれば、きわめて不誠実な論法だ。移民労働者がいなければ成り立たない「日本社会」とは、「問題を抱える現在の日本社会」のことである。つまり、ごく一般の労働者にまともな賃金を支払おうとしない、現在の経済構造。

コンビニエンスストアのアルバイトが足りない。建設現場の作業員が足りない。タクシーの運転手が足りない。介護士が足りない。工場のパートが足りない……これらはすべて、安い賃金で労働者を使い捨てにする経営者と元請けの大手企業の正社員たちの理屈に過ぎない。まっとうな報酬を支払うのであれば、働く意思を持つ者はいくらでもいる。

彼らは「いまの賃金」で働く〈交換可能〉【9】な人材を補充するためだけに、移民労働者の導入を推進しているのである。そして「人手不足」が緩和されれば、経営者たちはふたたび〈交換可能〉な人材に対する支払いを低減させるだろう。

「自分は試合に出られる」と思える仕組み

評者の書きぶりは、『体罰と日本野球』の著者を困惑させるかもしれない。しかし、本書の終章に記された日本のスポーツ界から体罰をなくすための中村の提案をイデオロギー抜きで真摯に読めば、どうか。

〈日本スポーツ界から体罰をなくすためには、どのような対策・施策が必要であろうか(…)日本スポーツ界で体罰・しごきが拡大したのは、学校外にスポーツができる環境がないために、多くの学生・生徒が部活動に殺到し、試合に出たり、レギュラーになったりするためには、ライバルを蹴落とさなければならなかったからだ。
選手数が増え、レベルが上がれば上がるほど、レギュラーの座をめぐる選手・部員間の競争は熾烈になり、体罰やしごきも用いられた(…)このような環境を改善するためには、一チームの部員数を適正なものとしたり、部員数が多い学校・チームは複数チームでの大会出場を認めたり、一軍(トップチーム)以外の選手だけが出場できる大会・リーグ戦を開催したりすることが重要だ。ほとんどの部員が「自分は試合に出られる」と思える仕組みは、「試合に出るため」に行使される体罰の抑止に大きな効果があると思われる〉【3】

「きちんと働きさえすれば、人間らしい生活が送れる」と思える仕組みだけが、労働者ひとりひとりの尊厳を担保する。最低賃金にはその仕組みの一端を担う役割があるはずだが、現在の全国平均は、約1000円(時給)。1日8時間、週に5日。年間2000時間働いても、年収は約200万円。はたして、ここに尊厳はあるのか。

【1】『体罰と日本野球』で引用されている、(同書註によると)山倉和博『キャッチャーになんてなるんじゃなかった!』(ベースボール・マガジン社)の一部を孫引き。

【2】『体罰~』より引用。引用部「」内は、(同書註によると)長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』(文庫版/中央公論新社)。

【3】『体罰~』より引用。

【4】『新潮 現代国語辞典』(新潮社)より引用。

【5】『体罰~』より引用。引用部「」内は、(同書註によると)君島一郎『日本野球創世記』(ベースボール・マガジン社)。

【6】『体罰~』より引用。引用部「」内は、(同書註によると)駿台倶楽部・明治大学野球部史編集委員会編『明治大学野球部史 第1巻』(駿台倶楽部)。

【7】フリーランス(非正規雇用者)のカテゴリーには、大手企業のいわゆる「本社の給与体系」とは異なる給与体系に組み込まれているグループ会社の正社員や、大手に対する価格交渉力を持たない中小企業の正社員も含まれるだろう。また、業務委託契約がセーフティネットとしての「最低賃金」の抜け穴として利用されている実態も注視されるべきである。

【8】アリゼ・デルピエール『富豪に仕える 華やかな消費世界を支える陰の労働者たち』(ダコスタ吉村花子・訳/新評論)

【9】『富豪~』より引用。

【10】田中洋子・編著『エッセンシャルワーカー 社会に不可欠な仕事なのになぜ安く使われるのか』(旬報社)

#1 アル中のように酒を求め、日々深く酔っぱらう椎名誠と福田和也の共通点
#2 最強のボクサー、井上尚弥の〈言葉〉はなぜ面白くないのか?
#3 ブッダは本当に差別を否定し、万人の平等を唱えた平和論者だったのか

文/藤野眞功

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください