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米軍基地問題を訴え続けた元沖縄県知事がアメリカ留学を「人生最大の財産」と語るワケ

集英社オンライン / 2022年6月4日 15時1分

戦後の米軍統治下にあった沖縄で、アメリカ政府の留学制度により「米国留学(米留)」をした1000人余りの若者たちがいた。自身も「米留二世」である琉球大学准教授の山里絹子氏は、占領者と被占領者の狭間で生きた「米留組」のライフストーリーを丹念に聞き取り、彼らの葛藤や思いを『「米留組」と沖縄 米軍統治下のアメリカ留学』(集英社新書)にまとめた。本記事では同書に収められた「米留組」の証言から、元沖縄県知事である大田昌秀氏の体験談を一部抜粋、再構成して紹介する。

悲惨な戦争体験の解明が生涯の問い

鉄血勤皇隊として戦場に送られた大田昌秀さんは、「法律もないままに戦場に送り込まれた」と語る。

大田さんは久米島で生まれ、父は大田さんが1歳の時にブラジルに移民し、母に育てられた。そして、沖縄師範学校在学中に、鉄血勤皇隊として戦場に送り込まれた。



「兵隊はケガをしないように脚絆(きゃはん)というのがあるが、僕らにはそんなのはなく、半そで半ズボンで戦場に出たわけです。1丁の銃と120発の銃弾、2個の手榴弾を腰に下げてね」

ひとつの手榴弾は敵に対して、もうひとつは自決するために使用することが命じられた。

なぜ沖縄戦で惨めな犠牲を強いられたのか。沖縄戦の解明、それが大田さんの生涯の問いだ。大田さんは沖縄県知事時代(1990~1998)に基地の代理署名拒否や少女暴行事件、米軍基地撤去に対して取り組んできた。そこには自身の沖縄戦の経験が大きい。

「沖縄の人は、本土の日本人やアメリカ人と同じ人間なのに人間扱いされていない。主権国家の国民としてみなされていない。絶えず他人の目的を達成させるポリティカル・ポーン、政治的な質草・手段にされている。こんなことは許されない。同じ人間だから」

大田さんは、軍国主義の行く末を戦場で目の当たりにした。

「皇民化教育は、沖縄の人は日本人と同じように天皇の子だと言って、沖縄の言語を弾圧して撲滅運動を起こし、沖縄的なもの、習慣を廃止して日本風に変えろと、日本人になれと教える」と力強い声で批判した。

国家のアイデンティティより、人間の権利が略奪されない「人間としてのアイデンティティ」を培うべきだという彼の言葉。それは、これからもずっと遺っていく。

同じ占領下でも東京は違った

1950年、大田さんは「日留」、「米留」両方に合格していた。

「日留」か「米留」か。尊敬する琉球大学の仲宗根政善先生に相談したところ、日本の大学を出てからアメリカへ行くことを助言され、「日留」を選んだという。

1949年、第一期の「契約琉球学生」として早稲田大学に留学した。英語・英文学を専攻した理由は、戦時中のある出会いであった。激戦地の摩文仁で一緒になった東京都出身の「白井兵長」がその人である。

彼は東京文理科大学(現・筑波大学)出身で英語が堪能だったため、米軍が置き捨てた英文雑誌を拾って大田さんにその内容を教えてくれた。日本がポツダム宣言を受諾したことが書かれた英文記事を前に、大田さんは自分の無知さを思い知らされた。

白井さんは、大田さんに生き延びることがあれば東京で英語を学んではどうかと伝えたという。その言葉が大田さんの心にずっと残っていたのだ。

大田さんは、自身の「日留」経験をまず「表現しようもないほどの解放感」があったと表現する。当時まだ連合軍占領下にあったにもかかわらず、東京ではアメリカ兵の数が非常に少なく、街中にほとんどいないことに驚いた。

同じ占領下といえども、沖縄の場合はアメリカ兵が主人のように振る舞っていて、それだけに、東京での生活が「別天地のような気」がした。「日本人は、堂々としていて、米兵の言動も、沖縄の場合とはずいぶんと違う」という印象を抱いた。

沖縄は、アメリカ軍による基地拡張のための土地の強制接収や住民の抵抗運動が盛んな時期だった。また思想調査や言論統制が行われており、自由に発言できない状況だった。留学先の早稲田大学では、自由な発言を学生がしていた。その様子が大田さんにとって新鮮だったのだ。

大田さんは、早稲田大学4年生の時に「米留」試験を受け合格する。しかし、渡米できるかどうかは最後まで分からなかった。

「平和」という言葉が禁句だった時代

早稲田大学在学中に、生きのびた鉄血勤皇師範隊の人々の手記を集め『沖縄健児隊』(外間守善と共編、1953)というタイトルで出版したことがある。松竹映画会社がその本を映画化したため、それによって入ってきた資金を使い、慰霊碑「平和の像」を東京で作って、沖縄に持ち帰る計画であった。

しかし、「平和」という言葉を使うと共産党に属していると疑われる時代であり、沖縄に「平和の像」を持ち帰るのは沖縄の恩師にも反対された。「米留」の合格が取り消しになるという可能性があったからだ。

それでも、大田さんは「平和の像」を沖縄に持ち帰ることにした。

大田さんの下宿先には読書傾向や交友関係などについて調査する諜報機関の者が情報収集に来たという。「米留」試験に合格していても、大田さんだけには最後まで出発日や留学先の大学名の連絡が民政府(琉球列島米国民政府)からこなかった。

渡米できると知らされたのは、出発当日の朝だった。大田さんは「着の身着のままで出発した」。

「米留」制度を設立したアメリカ側の思惑をどう考えているのか。大田さんに聞いた。

「アメリカが沖縄占領をした時にどうするかというと、当然アメリカを支持するような若者たちを育てるということをした。どこの占領軍でも同じことを考えるわけです。日本が中国を占領した時、中国から留学生を呼んで訓練した。ベトナムなんか、フランスが占領している時に、留学生をフランスに呼んだわけです。インドなんかもそうで、イギリスに留学生を呼んだわけです。

そうすると、きわめて皮肉なことに、留学制度というのは、そういう風にアメリカ・占領者を支持する若者たちを育てるために本国に呼んで勉強させるのだけれども、世界のどこを見ても、真っ先に占領軍に反対するのは留学生なんですよ」

大田さんは1954年7月に米軍用船でホワイト・ビーチから出発。オークランドのミルズ大学でのオリエンテーションを経て、船の中で知らされた留学先のシラキュース大学に入学、ジャーナリズムを学んだ。28歳だった。

キング牧師から受けた影響

大田さんは、自身を沖縄出身だと紹介した。米軍基地があり、沖縄は米国の施政権下だと説明し、沖縄の現状にできるだけ理解を示してもらおうと思った。

日本からということで、ジャップと言われることもあった。沖縄は戦場地だったこともあり、アメリカではよく知られていると感じたという。大田さんは、留学時代に出会った人々が「その後の私の人生における最大の財産」と語った。

「アメリカに行ったことは非常に感謝しているし、アメリカで学んだのは、差別の問題。 僕は、マーチン・ルーサー・キングを非常に尊敬していて、彼がちょうど大学院で博士号を取って、バス・ボイコットを始めた時に僕はアメリカにいたわけね。彼の言動を絶えず注目していて、非常に尊敬して、彼が殺されたメンフィスのアパートを訪ねたこともあった。そこで彼が最後に演説したテープを買ってきたことがある。

そうしたら彼がインドのガンジーを非常に尊敬しているということが分かったわけね。僕はアメリカから帰ってきて、インドに行ってガンジーの後を辿って歩いた。そういうことをしないと、おそらく僕はアメリカかぶれになって、変な人になっていたと思うよ。

東南アジアを5回くらい周ったことがある。自分一人で。アジアとは何か、アメリカとは何か、日本とは何かということが分かってきて。韓国やイギリスに呼ばれていって、国境を越えてつながっていく。このあいだは、ロシアのモスクワの学生が訪ねてきた。また中国の北京や中東からも訪ねてくる。こちらが働きかけないでも向こうから来るようになった。

(中略)アメリカに行って、民主主義とは何か、人間とは何か、そういうものを徹底的に学ばされたということが非常にプラスになった。その点で、アメリカ留学したということはとても良かったと思っている」

アメリカ社会の「良いところ」も見た

大田さんが差別問題に関心を抱くようになったのは米留中の経験が大きい。

「トイレに行くと、ホワイトとカラードと書いてあるわけ、ブラックではない。僕らはカラードだなと思って、そこへ行ったら、黒人が『お前はあっちだ、白人のところへ行け』と。否応なしに差別の問題について関心を持たされました。沖縄の問題も差別の問題だという認識があったからね」

ある日、『デイリーオレンジ』という大学が発行する新聞の記事で、ある犯罪事件の加害者が黒人であったことが強調して書かれていた。白人の時は白人と書かない。メキシコ人の友人と一緒に抗議しようという話になった。

クラスでもそのことについて議論し理解を得た。授業後、新聞部に足を運び抗議すると、編集スタッフは彼らの意見に理解を示した。「黒人」という表現を消すことができたのだ。

「そういうことができるのがアメリカの良いところ」だと気づいた。その経験は、大田さんにとって、アメリカ社会における人権をめぐる抗議の申し立てとその成功体験であったのだ。

大田さんがアメリカに留学していた1950年代の沖縄では、「島ぐるみ闘争」など大きな大衆運動が起きていた。そんな中、大田さんは留学先の大学で、ある論文に出会った。

それは「沖縄人を対等(公平)に処遇せよ」という論文で、オーティス・ベル牧師が雑誌に投稿したものであった。この論文が後に国際人権連盟の議長を動かし、アメリカ統治下の沖縄の実情調査を日本自由人権協会に依頼するという行動に導いた。沖縄の統治について理解のあるアメリカ人との出会いは大きかった。

「戦争が人間を人間でなくさせる。だから、基地は絶対認めるべきではない。沖縄を二度と戦場にしてはいけないということです」

戦争が人間性を奪うことを戦場で痛感した大田さん。アメリカ留学経験を通して、人間性とは何かを問い、留学後もアメリカ人との交流を深めていった。

写真/shutterstock

「米留組」と沖縄
米軍統治下のアメリカ留学

山里 絹子

2022年4月15日発売

946円(税込)

新書判/256ページ

ISBN:

978-4-08-721213-6

それは、“ただの留学”ではなかった――。
今日の沖縄・アメリカ・日本の関係にどう影響しているのか。
〈復帰50年〉のいま、初めて語られるライフストーリー。
ジョン カビラ氏(ラジオ・テレビパーソナリティー)推薦!
「戦敗れ、支配されるも、懐に飛び込んで学んだ先には何があったのか?」
岸 政彦氏(立命館大学教授)推薦!
「復帰前の沖縄からアメリカに渡った留学生たちの、複雑で豊かな語りに耳を傾けよう」

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