「職場の上司には許可をとって、作品の内容も見てもらった上で承諾を得ています。が、いかんせん『事実ですよ』と言うと大騒ぎになるようなネタも書いてしまいましたから。今日は顔出しなしでお願いします」
作者は大手テレビ局のプロデューサー。小説『FOX 海上保安庁情報調査室』が描く熾烈な海の情報戦
集英社オンライン / 2022年6月10日 13時1分
「海の警察」とも呼ばれる海上保安庁(以下・海保)の仕事は多岐にわたる。海難事故のの救助に捜索、領海の警備に密輸や密漁の取り締まり。だが、それだけではない。少数ながら精鋭の諜報員、つまり本物のスパイを抱え、日々、熾烈な情報戦を戦っている。先月刊行された『FOX 海上保安庁情報調査室』は、彼らの知られざる素顔を初めて描いた長編小説で、作者の川嶋芳生氏は大手テレビ局のプロデューサーだという。
なぜ、大手テレビ局のプロデューサーが
取材はいつもする側で、受ける側は慣れていないのか、川嶋氏はやや緊張した面持ちで言った。リスクを犯してまで、一種の暴露小説を書いた動機とはなにか。
「テレビの仕事で海上保安庁を取材した時に、表の組織図には載っていない情報調査室の方を紹介されました。Hさんといって、海保でもピカ一の諜報能力をお持ちの方で、北朝鮮関連の事件を何件も摘発されていた方です。
以来、十年以上お世話になっているのですが、彼が退官されてしばらく経った頃『自分がやってきたことを後進にもっと広く伝えたいのだが、よい方法はないか』と相談を受けました。日本の諜報力が他国に比べて弱いことを嘆かれているご様子でしたね。
そこで、読んで楽しめる小説という形でHさんたちの活躍を知ってもらえればと考え、本書を企画したのです。もちろん、モデルにした事実や情報は多々ありますが、全体としてはフィクションだとお伝えしておきます」
こうしてH氏をモデルに、主人公・山下正明が誕生した。そのスーパーマンぶりは小説で存分に味わっていただくとして、ここでは彼が、元情報将校の祖父から引き継いだ情報哲学に注目しておきたい。「大半の情報は嫌気性で、密閉して隠しておくべきものだ。公表しなければそれにこしたことはない。だが中には好気性の情報もある。できるだけ早く、できるだけ多くの人々の目に触れさせなければ、命を失ってしまうんだ」と。
「山下の祖父に関する部分はほぼノンフィクションです。Hさんのお祖父様が陸軍中野学校出で、戦中には自分が手にした情報がうまく活かされないで多くの人命が奪われたことを深く悔やんでいたそうです」
12年前の「尖閣衝突事件」を彷彿とさせる情報リーク
情報を活かすために、作中の山下は時にマスコミへのリークも辞さない。海上保安官の情報リークといえば12年前、尖閣諸島付近で中国漁船が巡視艇の警告を無視して意図的に衝突してくる映像を、YouTubeで公開した一色正春氏を思い出す人も多いことだろう。長年、海保の情報戦を追いつづけてきた川嶋氏は、あの事件をどう見ているのか。
「それこそ好気性の、広めたほうがよい情報だったと思いますよ。領海を侵す中国船に対していかに危険な任務が行われているか、国民が知っておくのは重要なことです。ふつうの感覚であの映像を観れば、『なぜ、もう少し船を頑丈にできないのか』といった問題意識が芽生えるでしょうし、そこから予算化につながれば海保にとってもうれしい話です。
当時も今も、海保はマンパワー、予算ともに厳しいやりくりを強いられています。ただ、現実にはあのようなリーク、情報漏洩という形でしか世に出ませんでした。当時は民主党政権だったというのもありますが、政権が自民党に戻った現在でも、中国船との激しいつばぜり合いを記録した映像が公開されるケースはありません。たとえ撮影されていても、です。
そこには中国を刺激しすぎないように、といった思惑が働いているのでしょう。いずれにせよそれは海上保安庁の意思ではなく、報告を受けて判断する官邸や外務省の意向です」
どこまで見せてどこから伏せるか。誰もが情報の発信者になりうる現代、情報をあつかう繊細な手つきは知っておいて損はないだろう。
北朝鮮のミサイル開発を日本人が支援?
領海侵犯が中国のお家芸なら、北朝鮮に関する懸念事はやはりミサイルだ。『FOX』は北朝鮮のミサイル技術の飛躍的向上と、その脅威に対するわが国の政界の動向が物語の縦糸となっている。
作中では日本の大学教授が北朝鮮に技術指導をするエピソードが描かれているが、本当にこんなことが行われているのだろうか。
「北朝鮮のミサイル開発史上、いちばん大きな飛躍は液体燃料から固体燃料ロケットに転じたことです。液体燃料は注入作業が必要なので、その動きをアメリカが衛星にキャッチし、早い段階で対処することができたんです。それが固体燃料になると、準備なしですぐ発射できてしまうので、早期警戒ができなくなってしまった。
じゃあなぜ、これだけの技術革新が短期間で可能だったのか。他国の技術をひっぱってきた可能性は非常に高いといえるでしょう。その候補のひとつとして日本の研究者があがっているのは事実で、現にHさんも実際に何人か調査したと聞いています。
また、知り合いの、非常に多くの業績をあげた名誉教授からは、研究費がもらえない理系研究者が数多くいる現状を教わりました。三十代半ばから後半の、転職もむずかしいその人たちが『報酬ははずむから開発を手伝ってくれ』と他国に誘われたら……。小説に書いたような出来事がもしも起きているとすれば、それは我が国の研究費の運用に問題があるのではないでしょうか」
このように、シャレにならないトピックをふんだんに盛り込んだ本作だが、読み味はいたって軽快。アクションあり、ハイスペックなスパイ用アイテムあり、謎解きあり、やけ酒あり、定番のハニートラップあり、と見所満載でぐいぐい読ませる。
「せっかくフィクションでやらせていただくのだから、楽しんでもらえるものになるよう努めました。小説を書くのは初めてでしたが、担当の編集者さん、協力者として併記したストーリーなどのアドバイスをいただいた竹岡繁さんが相談にのってくれたおかげもあって、私自身、楽しんで書けました。ぜひ映像化して欲しいですね。場面があっちこっちといそがしく変わるので製作費が高くつきそうですが(笑)」
夏は近い。日本の海を安全に楽しむためにも、ぜひ読んでおきたい小説だ。
撮影/苅部太郎 写真/shutterstock
書籍情報
https://qr.paps.jp/l1Btk
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