1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. 芸能総合

映画スターの自宅で取材! 1980年代の親切で穏やかなハリウッド取材事情

集英社オンライン / 2022年6月21日 12時1分

映画誌「ロードショー」関係者が往事の裏話や思い出を語るこのシリーズ。10回目に満を持して登場するのは、ロサンゼルス在住で、1970年代からハリウッドを取材し続けている映画ジャーナリストの中島由紀子さん。スターの自宅に招かれ、家族たちとも親交を深め…信じられないようなエピソードが続出! 2回に分けてお届けする

集英社ロサンゼル支局で出会った「ロードショー」

手書きの原稿を速達で日本に送っていた時代…1970年代の終わりに「ロードショー」との仕事がスタートしました。
当時は集英社のロサンゼルス支局というものがあり、開設スタッフとして勤務し、雑誌などの通訳やコーディネートを任されていた私が、ハリウッド映画や俳優への取材依頼を受けることになったのです。



その頃のハリウッドの取材はのんびりしたもので、取材する側とされる側の距離が今よりずっと近くて、無言の信頼感がありました。スターに取材を申し込む際には、「ロードショー」を相手に見せるだけで、写真を含めた誌面のクオリティの高さがものを言い、簡単にオーケーが出ました。
ムービーマガジンといえば、質の低いゴシップ誌しかないアメリカにあって、「ロードショー」の高級感のある雰囲気は強い通行証になったのです。

それにしても信じられないようなスケジュールを組めた、穏やかで親切なあの頃のハリウッド。
たとえばロマン・ポランスキー監督の『テス』(1979)のナスターシャ・キンスキー、『リトル・ダーリング』(1980)のテイタム・オニール、『青い珊瑚礁』(1980)のブルック・シールズと、人気トップスター3人に同じ日に取材スケジュールが組めたんです。

ホテルのロビーで待ち合わせると、本人がアシスタントひとりかふたり連れて「ハーイ」なんて現れる。
盗撮するスマホも、それを広めるSNSもなかった時代ですから、インタビューされる側も警戒心ゼロです。
自分の出演映画を多くの人に見てほしいから宣伝活動のインタビューを受ける。そんなシンプルな計算式で動いており、「取材してくれてありがとう」という感じでした。

80年代初頭、絶大な人気を博したテイタム・オニールと中島さん

スターがLA在住の場合、彼らの自宅で取材することもけっこうありました。
『リトル・ダーリング』でテイタム・オニールと共演して、同じように人気上昇したクリスティ・マクニコル。
ハリウッドヒルの一角に叔母さんと一緒に住んでいて、気楽にうちに迎え入れてくれました。
丘の上なので眺めが素晴らしかったのを覚えてます。

TVのヒットドラマ『チャーリーズ・エンジェル』(1976~81)のシェリル・ラッド。
やはりハリウッドヒルにある素敵な白い大きな家でした。プールサイドで素敵なティータイムを。
80年代のアイドル、アリッサ・ミラノは同じエリアに住んでいて隣組という感じ。
お母さんが気さくな人で、ときどき取材と関係なくコーヒータイムにおじゃましました。
まだ高校生のアリッサが、すごいスピードの出るBMWを乗り回していたのが記憶に残っています。

『コマンドー』(1985)で一躍人気者となったアリッサ・ミラノは何度も表紙を飾った
©ロードショー1990年4月号/集英社

その後も長くおつきあいしたスターたち

『グーニーズ』(1985)や『インディ・ジョーンズ/魔宮の聖戦』(1984)で人気が出たキー・ホイ・クァン。
とっても性格が良い子役スターで、何回も取材しました。
アルハンブラという中国系が多いエリアの自宅に取材に行ったときに、「スピルバーグ監督が毎年クリスマスギフトを送ってくれる。そのひとつがこの天体望遠鏡なんだ」と嬉しそうに見せてくれました。
スピルバーグ監督は評判通り人格者のようです。

夕方、取材が終わったら、家族のディナーにぜひどうぞとお誘いを受けました。
でも、一家団欒の時間をおじゃましてはいけないと、カメラマンとふたり、丁寧に色々な言い訳を並べてお断りして帰って来ました。

1991年、キー・ホイ・クアン(中央)たちと

最後に会ったのは15~16歳の頃かな? ずっとハリウッドから遠ざかってたキー・ホイ・クァンですが、何十年ぶりかで『Everything Everywhere All at Once』(2022) という新作がアメリカで今年3月に公開されました。
ミシェル・ヨーの夫役とのことですが、かわいい子役だった彼が! 映画はマルチバースを扱うSFコメディですが、違う時間軸の世界に飛ばされた気分。

同作のサンフランシスコ・プレミアに、ミシェル・ヨー(右)、ステファニー・スーと現れたキー・ホイ。いい大人になりました!
写真:REX/アフロ

ハリウッドで確固とした地位を築き上げ、息の長い演技派として今でも活躍しているダイアン・レイン。
彼女も「ロードショー」の表紙を飾るレギュラーのひとりでした。
『リトル・ロマンス』(1979)でブレイクした美少女で、最初に取材したのは彼女が16歳のとき。
以来、2年おきくらいに取材をし、長いおつきあいが続きます。

最初は、元バニーガールだったというすごい美人のお母さんと一緒に、ジョージア州サバンナから。
次に会ったときはお父さんのバートさんが付き添いで、ニューヨークから飛んできました。
人間的にも素敵なお父さんで、若い娘をスター扱いせず、わがままを許さないできちんとした教育をしていたのが印象に残ってます。

このあとダイアンは良い仕事に恵まれてスター街道を歩き出します。
1988年に結婚すると、夫のクリストファー・ランバートにも紹介されました(1994年に離婚)。
取材で知り合った大勢のスターたちの中でお友達と呼べる人はいませんが、ダイアンとの取材関係はもっとも長く続いた例で、自宅の電話番号を知っていた数少ないひとりです。

長いおつきあいをすることになったダイアン・レインと2008年の写真
©HFPA

ダイアンとのおつきあいと、その後変わっていったハリウッドの取材のくわしいお話はまた次回に。

PART2へつづく(6月28日12時公開予定です)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください