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ドヌーヴにヘプバーン…「ロードショー」創刊を彩った圧倒的美女たち 1972

集英社オンライン / 2022年7月6日 12時1分

さまざまなスターと映画が飾ってきた「ロードショー」の表紙。並べてみれば、その顔ぶれはもちろん、写真の撮り方や被写体のメイクとファッション、そして特集のタイトルまでが、時代を色濃く反射しているのが見てとれる。各年を1記事にして読み解いていきたい。まずは創刊の1972年から!

創刊号の表紙を飾ったのはフランスの名花

©ロードショー1972年/集英社

1972年、映画誌「ロードショー」は産声をあげた。

創刊号の表紙はなんとフランスが誇る世界の大女優カトリーヌ・ドヌーヴ。当時は20代後半ながら、妖婉な魅力と圧倒的な演技力で確固たるキャリアを築いていた。そんなドヌーヴを表紙に起用したことから、当時の時代背景と創刊時の狙いが見えてくる。



今でこそ日本で公開される洋画といえばアメリカ映画が大半を占めるが、当時はヨーロッパ作品、とくにフランス映画の比率が高かった。それは、1950年代末にはじまったヌーヴェルヴァーグ(既成の映像手法の打破など、反逆精神に満ちたフランスにおける映画製作の前衛運動。「新しい波」を意味する)をきっかけに、新たな映画作家たちが刺激的な作品を生みだしていたためだ。

ドヌーヴの出演作に関しても『シェルブールの雨傘』(1963)や『ロシュフォールの恋人たち』(1966)といったミュージカル映画の傑作はもちろん、『恋のマノン』(1968)『暗くなるまでこの恋を』(69)『ロバと王女』(1970)などがコンスタントに公開されている。
つまり、ドヌーヴは当時の映画好きなら誰でも知っている女優だったのだ。

高まるハリウッド映画の胎動

©ロードショー1972年/集英社

創刊号の5月号の表紙を飾ったカトリーヌ・ドヌーヴの次は、永遠の妖精オードリー・ヘップバーン。その後、キャンディス・バーゲン(『愛の狩人』1971)、ジャクリーン・ビセット(『ブリット』1968)、ナタリー・ドロン(『個人教授』1968)ジョアンナ・シムカス(『冒険者たち』1967)、ジェーン・フォンダ(『コールガール』1971)、フェイ・ダナウェイ(『俺たちに明日はない』1967)が続いている。

ヨーロッパの女優が大勢を占めるなかで、注目すべきはジェーン・フォンダとフェイ・ダナウェイだ。ふたりはアメリカ女優であるだけでなく、「アメリカン・ニューシネマ」のミューズたちだ。 アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半からはじまったアメリカ映画のムーブメントで、『イージー・ライダー』(1969)や『俺たちに明日はない』『真夜中のカーボーイ』(1967)『ワイルド・バンチ』(1969)など、従来のハリウッド方式に逆らった作品を表す総称だ。
社会がベナム戦争や公民権運動などで揺らぐなか、若い映画作家たちが反体制的な価値観やヌーヴェルヴァーグに刺激を受けた表現手法を用いて、意欲的な作品をつぎつぎと生み出していた。

アメリカン・ニューシネマの代表作のひとつ『卒業』(1967)は、1968年に日本で封切られ、サイモン&ガーファンクルの楽曲とともに、社会現象といえるほどのヒットとなった。「ロードショー」の創刊も、『卒業』をきっかけに若い洋画ファンが急増したことと無縁ではないだろう。実際、創刊号の特集「さすらいのヒーロー ピーター・フォンダ ダスティン・ホフマン他」では、アメリカン・ニューシネマのスターたちを取り上げている。

アメリカン・ニューシネマでデビューを飾ったスターやクリエイターたちは、のちにハリウッドの映画産業の中核を担い、世界的なヒット映画を量産していくことになる。実際、この年の最大のヒット作『ゴッドファーザー』(1972)はスタジオ映画ながら、メガホンをとったのは低予算映画出身のフランシス・フォード・コッポラだった。

ハリウッド映画が世界を席巻するその前夜に、「ロードショー」はその一歩を踏み出したのだ。

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